TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『骨と十字架』

ほねじゅう観劇にっき

 

 

 

 


真理を追い求めるひとのひたむきな探究心、譲れないものを抱えた人間同士の感情のぶつかり合い(ときどき一方通行)に見果てぬ夢をみた作品でした。ロマンチックが螺旋を描いて激突の末、大爆発です(私の中で)。


彼らのような学問の徒としての探究心も、信仰心も持ったことがない人間であっても、知らない世界を覗いてみたい好奇心はある。世紀の発見に、自分の信仰の揺らぎに恐れおののき、それでも歩み続ける人の心理を丹念に追える機会なんてそうそうない。彼らの懊悩も一観客として覗き見て味わってしまうことができる、その後ろめたさも智恵の実と同じくらい甘いのかもしれません。


もともと物語の中に登場する信仰心の篤い人の生き方をじっと見ることに興味がある人間なので、そういう題材を扱う舞台作品に興味がある人も多いんじゃないかなと思っているふしがある。なんでそんなに信仰に固執するのか?という部分が恐らく根本的には理解できていないことを念頭に置きつつ、信仰はもっていないから、で止めない、物語のなかに出てくる食べたことのないジンジャーブレッドの味を想像しながら読むようなやり方で鑑賞する。そしてこれは翻訳ものでないという意味で、観客のほとんどが彼らのような時代、環境に置かれていない人達だとわかっている人が作った芝居だから、知識のなさだけで最初から物語に拒絶されたりはしないだろうという想定もありました。


興味だけをお守りに期待と不安いっぱいで覗き込んだ先に展開されていたのは、私の見知らぬ学問や信仰のあり方を探求する過程で、よく見知った馴染みのある感情を時に激しく、時に一見静謐に交換し合う男達の姿でした。


3回観劇し、初めは嫉妬や恐れや憧れといった感情をフックにして物語に分け入っていたところから、徐々にその感情が生み出される基盤となる、司祭でありながら雄弁な化石に真理を見出そうとするテイヤールの思考自体への興味、信仰や学問に対する登場人物それぞれの立ち位置の違いの面白さが見えてきて、いまは彼らの立場をそのように割り振った作家である野木さんの手腕に想いを馳せています。人間同士はもちろん、人間と信仰、信仰と学問、人間と信仰と学問の間にもみっちりと詰まっている関係性萌え。信仰が感情から、学問が理性からのみ発生しているなんてきっぱりと分けられないような描かれ方も。


オベリスクに十字架を刻むことをテイヤールが疑問視し、侵略者の傲慢ではないかと弟子に疑問を投げかける場面、北京でその土地の「本来の所有者」への許諾を得ずに発掘を行うことの是非について会話するテイヤールとリサン、学問や信仰、真理の追求に付随する他者の権利の剥奪に自覚的であるところ、自覚的であっても結局自分が歩み続けることを優先してしまう彼らのあり方を、進化してきた人間の業と重ね合わせて描くこの作品が好きです。少しだけ立ち止まって、でも歩くことを止められない人間という生き物について。


テイヤールがミッシングリンクをつなぐ頭蓋骨が存在するという仮説を立てて研究を進めていたことと、実際に頭蓋骨が出土されて仮説が証明されたこととの間には大きな隔たりがあるのはあきらかなのですが、1回目の観劇では一幕からすでにテイヤールの言動があまりに確証を持っている人のそれに思えて、その大きな隔たりを注視できていませんでした。自分の仮説を信じていることと、その根拠の存在が判明する前後の反応の差異を明確に示す脚本と演出に、舞台の見せ方としてのドラマチックさにワクワクするのと同時に、真理をひたむきに追い求める行為への敬意も感じられて、作品をそのように構成した作家・演出家への敬意も一緒に湧き起こります。

 


・テイヤール

「媚びでも売りましょうか?」なんてわりとのっけから茶目っ気を出してくるくせに、展開を知った二回目からは、そんな気さらさらないだろうにこの強情さんが!と空砲を撃ちたくなるほどの、雄弁かつ化石よりも硬度がある意志を持つ男。天啓を受けたから確証があるのかと思うほどに(彼の論文を読んでいない故に根拠の道筋を理解していない人間の発言)(読んでも多分理解できない人間)、場合によっては彼の身分を剥奪することもできるヴァチカンからの使者の前であっても一歩も退かずに自分の主張を唱える姿に、そうまでしても貫きたいものがある人の姿に眩しさと苛立ちをおぼえました。いっそ高圧的であれば真正面から悪口をいうこともできるのに、あくまでも丁寧な物腰で、立場が弱いのは私の方ですという姿勢を保ちながら、譲れないものを粛々と掲げるその姿勢。

そんなテイヤールが北京で、掘り出した骨にはすべて神の意志が刻まれている、と語るのをきくと、真実の比喩の話をしていますよねと思いつつも、もともとすべてに刻まれているのだからあえて目に見える十字架などをオベリスクに後付けする必要がありましょうかと彼が考えているようにも捉えられる?と狂気的に拡大解釈しそうになりました。うっかりそういう考えが頭をかすめてしまうくらい、テイヤールが歩き続けることを彼自身以外は止めることはできないだろう、と思わせる、彼が真理を求めるひたむきさ、揺るぎなさを恐ろしく感じるときがある。


錆びたピトンにわんわん泣いた話もちびテイヤールかわいいエピソードのようにうっかり捉えてしまいそうだけど、ぐっとこらえてラグランジュとの会話で登場する地平線を見つめた話、火山を見にいった話と併せて考えると、幼い頃、彼が誰にも教えられない頃から自発的に生み出した着眼点や探究心の強さを示す、テイヤールという人を形づくる興味深いエピソードだと思いました。超人に向かって放たれた一本の矢、友の憧れであることしかできない彼、なんて引用したくなるくらい。


3度目の観劇では、北京でのリサンの「神はどちらに」に一度天のいと高きところを指してからはっとする姿、ラグランジュの「あなたがそう信じているなら全力で否定するが、今のあなたにはそれだけの信仰心が見えない」、的を射た問いかけがあって、我にかえったひとは答えを見つけようと自分の思考の淵に立つ、再び歩きはじめる機会を得る、という流れがようやく腑に落ちてぞくぞくしました。頭蓋骨を発見した後、うまく神とのつながりが見つけられないと混乱しながらも、歩き続けることの生命賛歌と傲慢さについて、探究心ゆえに神に近づくために歩き続けているテイヤール自身が言葉にしているのがいいなと思う。

最終的には他人の考えなんて御構い無しに歩き続けるくせに、自分の仮説を否定されたときのさみしい顔と、頭蓋骨を発見したときのさみしい顔は似ていたのだろうか、と思わせるような吸引力があるテイヤールという男の魅力についてまだ考え続けてしまう。この人たらし!

 


・リサン

あなたのことがわかるのは私だけです、私のことがわかるのはあなただけ、って「そうじゃなかった…!」ってところまでセットなのがいい。片方が誤認に気づき打ちのめされ、それまでの共感が一瞬にして反転、憎しみに変わる。あるいはもともと相手に抱いていた侮りを自ら掘り起こしてしまう。そうであったらいい、という見当違いの見積もりであったことを知る。自分が想像していたよりもっと大きなことを成し遂げられる、自分より高いところをいく存在だと思い知らされてしまう。自分の人生の価値まで揺らいでしまう。


こういう感想文は今まで様々なフィクションで収集してきた類型として浮かんできてしまうのでよくないなと思うのですが、そういう感情の奔流を注ぎ込みたくなる魅力的な役どころで見ていて困ります。絶対に叶えられない代わりに成就もない、それゆえに質量が損なわれることがない大きい感情が生まれる理由が、人間性というより探求心のあり方の違いに根ざしているのがツボ。しかし物事を確かめ、判断する際のプロセスの違いは結局その人の性格によるのでは、と言われたら間に学問や信仰が噛んでいる面白さをこの表現ではうまく説明できていない気もする…。


二つの意見が螺旋を描いていますなあ、の「ますなあ」の言い方が好きだなと思いながら、テイヤールのサインに横槍を入れるときはあんなに飄々としていたくせに、一幕終わりの独白・告白があまりに重く、かつ大きくて、6年間の歳月の積み重ねを一方的に感じてしまいました。一体何をどれだけ自分の中で培ってきてしまったんだ。出会って間もないテイヤールに、あなたもそんな顔を、と指摘するリサンからすでに、あんなに落ち着いた様子でいて、司祭かつ近しい学問を追求する唯一無二の相手とようやく出会えたというシンパシーが漏れているなとは思ってはいたんですが、まさかあんなことになるとは……。


「3月21日、あの男と袂を別ってから半年」は発掘日誌に書くにはねちねちとしたリサンの覚書だと理解している。「聞きたくもない知らせを携えて」でドラマチックが大爆発したので、巨大な十字架の揺らぐ音が私にも聞こえた気がしてしまった…。


リサンの「気づいてしまえ」は「気づかないまま、あるいは気づいても信仰と学問を抱いて歩いてゆけるのなら、あなたが行き着くその先が見てみたい」という意味もある煽りも含まれているの可能性にも思いを馳せています。「神はどちらに」と彼が問いかけなければ、テイヤールが同じ地平に神を見出すという発想ももしかしたら生まれなかったのかもしれないと思う。

そして、共に歩いてくださいますか、と呼びかけに答えた兄弟と袂を別っても、ただ隣に跪いて、交われないのに同じ神に祈りを捧げる、という光景にどうしても心惹かれてしまう。


テイヤールが頭蓋骨を発見した時の「聞きたくもない知らせを携えて」は最後の「私ならお見せできましたのに、その機会がありませんでしたので、残念です」に繋がるんだなと思ったら、彼なりにひねているのに第三者からしたらあまりにもあからさまな嫉妬心の表し方だ…!とびっくりする。とんでもなくわかりやすい拗ね方に、リサン自体は意図していないであろう彼という人間の愛おしさが炸裂してしまっていて、なんてかわいいやつなんだ…という感想を割と多くの人が抱くであろう場面だと思っています。

テイヤール相手だけかと思いきや、総長への「あなたが私を地の果てへ追いやった」とか言葉選びがいちいちドラマチックなところにいろんなものを背負わせてしまいがち…。ムードもりあげ楽団(@ドラえもん)を率いているのかと思うほどの存在感。

二幕でテイヤールの思考を危険視する側に回るリサンが「テイヤールが神を否定する」という行為を誰にとって危ういものとして警告しているのか、信仰心を持つテイヤール自身のバランスが崩れることなのか、司祭の立場にとどまっていてほしい総長(元)やリュバック、イエスズ会にとってかはたまたリサンに?なのか、その全てにまたがるのか、範囲・対象を明確に捉えずに見ていたことに今更気づき、戯曲が手元にない、瞬間瞬間が真剣一本勝負な演劇の「精読」の難しさと面白さを噛み締めています。

基本名前を呼び合わない戯曲の中で、最後に「テイヤール神父」と呼びかけるのが彼というところに意味を見出している。

 


・総長

エスズ会総長(二幕から「元」)。人の良い笑みを浮かべながら、腹に蛇を飼っている男。リサンを地の果てに追いやった男。ラグランジュとの会話は一見年長の者同士の穏やかなやり取りに見せかけた、丁々発止の食わせもの対決。

総長という、複数の人間を束ねる立場の重責は大部分を想像するしかない。けれどテイヤールの研究に対する姿勢として、その分野への見識はない、それゆえに深い理解はできないが論文を進んで読む程度には関心があるという点において、研究者でない立場でこの物語の傍観者となる人間が心を寄せやすい人。二幕、総長の立場から離れた彼が一転してテイヤールの研究を支持する側に回る場面、矢面に立たせられるのはテイヤールだとラグランジュにとがめられるところでは、腹に蛇を飼う彼の責任逃れゆえというより、その発見をしたのは自分ではないという事実、発見した人間へのうらやましさと向き合っているのかなと思いながら見ていました。北京からのテイヤールの手紙に返事を書けなかった理由を吐露する場面にも、まだ見ぬ大地を自分の足で歩くのに邪魔になったもの、あるいはそのためには彼に足らなかったものの存在が透けているようで、総長にも歩めなかった道があったことを想像してしまう。

そんな人間としての不自由さも描かれつつ、二幕の総長とリサンの、私のほうがテイヤール(の学問と信仰の融合がうまくいくかどうか)を理解しているぞ対決では、やっぱり腹のなかに飼っている蛇がちらちら見えている気がしました。総長がリサンに勝ちを譲ったと見せかけて(あなたなら彼と共に〜)、いやまあそれも私が彼をあなたと同じ地の果てに追いやってうまくいくように仕向けたんですけどね、と取れるような圧力をにこにこと与えてくる会話の食えなさ、場のアドバンテージをガチッと握ってくるやり口がにくい場面です。

彼がさみしいのは彼が神を信じているからですね、という言葉にぐっときながら、「神さまはどうしてそういうさみしいものに人間をおつくりになったの」「ひとりでは生きてゆけないように」(萩尾望都)を思い出している。

 


・リュバックくん

先生のことをとても慕っているのに「あなたは先に行きなさい」と2度も言われてしまう人。慕っているがゆえに、先生の学問と信仰の融合の行き着く先を誰よりも早いうちから危ぶんで、引き出しから論文を盗んでヴァチカンにたれ込んだ張本人。十字架の授受場面にマリみて…!?と動揺し、ユダ的立ち位置にびっくりしつつ、大学にテイヤールの研究のためのポジションを用意できるほどの暗躍ぶりに、イエスズ会内での活躍は明確に描かれていないけど実は外の世界での交渉術に長けた人なのだろうかと想像を巡らせてしまった。

弟子にかかわるあれこれを自分の責任の範疇として回収しようとする、抽斗を開けたことまで自分を主語にしてかぶせていく先生を相手にしては、弟子の悩みは深かろう。怒らないこと、声を荒げないことが、真正面から向き合って意見を戦わせる相手として不足と見做されている、という落胆を相手に与えることはあるだろうと思いながら。

錆が浮いたピトンを埋めたエピソードを聞いたリュバックくんの返答「死んでしまったと思われたんですか…?」我が道を行く先生に全力で寄り添おうとして微妙にから回っている空気があってほほえましいです(?)。

 


ラグランジュ

ヴァチカンからの使者、検邪聖省の司祭。ドミニ・カニス、主の番犬。テイヤールの仮説が教会にどのような脅威をもたらすのかを、その糾弾の強度をもって観客にわかりやすく教えてくれる人。

ラグランジュとテイヤールの、一番遠い人間同士のようでいて「私の他にあなたの隣に誰が立てるというのですか」とお互いをある意味認め合っているところ、彼らの真ん中を折り目で折ったらぴったり重なり合うのでは?あるいは天秤の左右に乗せたら釣り合うかもしれないと思わせる関係性の興味深さ。こんな厄介な人間に付き合えるのは私だけですよ、という意味合いだけどリサンのそれとはまた違うニュアンスに聞こえるのはのせてくる感情に含まれる湿度の違いか。

NTL『オーディエンス』幕間の作家へのインタビュー内で、謁見の際の女王と首相の関係をセラピストと患者にたとえていたのを思い出して、ラグランジュとテイヤールのやり取りもある意味それに近かったのかなと思いました。自分の論説を支持する人が周りにいない状況で弁明し、横槍を入れられることを危惧して口を閉ざしていたのに、ラグランジュとの問答では反論を秘めておくことができなかったテイヤール。信仰のあり方について揺るぎない見解を持つラグランジュに対峙し、彼に問い正されることがテイヤール自身の意志が確かなものだと再確認するためには必要なことだった。「それがあなたの本心ならば私は全力で否定します」という相手の前に立つことは試されることで、ものすごく恐ろしいことだけれど、彼に否定される時、否定されたものは一番強度を保っている状態とも言えるんじゃないだろうかと。

 

 

関係性や会話の内容にしか触れられていない感想を書くたびに、もっと空間や小道具の使い方にも何か意味が込められていたはず、と火の使い方について読み解いていた方の感想にハッとしながらうなだれています。リサンが煙草を巻く仕草がたまらないだとかそういうフェチ的な意味合いでしか注視できていない…衣装(カソック)は言わずもがなです。登場人物が手紙を送り合う演劇が好きなので、受け取った人が読み上げる光景も好きだけれど、テイヤールがあの手紙を書く横顔が見たかったなとも勝手に想像しています。手紙を書いている横顔は送り先の相手を思う横顔…

また、セットも衣装も色味が少ない分、蝋燭の灯りや照明でつくられる濃淡が効果的かつ美しい舞台だなと感じました。

上手、下手、中央の平面の空間、下手奥の岩肌、階段。固定の舞台セットでの場面転換を照明の切り替えで行っているところ、総長たちの会話「追いやったのは彼が初めてじゃないんでしょう(あからさまに意味深)」で「ひとり目に地の果てに追いやられた人」が光の道から中央手前に歩み出るように照明が切り替わるところ、腹のなかの蛇を撃ち殺せとけしかけるラグランジュの言葉から繋がる、北京での空砲への場面、二つとも特に転換が鮮やかな場面で視覚効果にしびれていた。

 

 

 

 

 

 

いったん感想をまとまった分量文字に起こした後、再度観劇がかなうと「私は何を見ていたのか!?」という新しい気づき、感想をぜんぶボツにしたいほど考えが変わってしまう場合があるのですが、もうそれも叶わない今できるのは『神父と頭蓋骨』を取り寄せることくらいでしょうか。

公演後に資料を探す楽しみは、作者が何をどう取捨選択したかを知る楽しみや物語の背景を知る楽しみではあっても、観たものについて考える楽しみとはまた別カテゴリという気もするなと、元ネタがある作品にはまるといつも思い浮かべることを思いながら、薄れゆく記憶をぼんやりと見つめています。