TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

Thrill me 3/17マチネ、18ソワレ

アルターが終わって、もういっそのこと真っ白に燃え尽きていたいなあと思っていたのにも関わらず、「Thrill me」7月公演の新キャスト発表に、思い浮かべてはいやいやそれは、と首を振っていた役者さんのお名前を見つけて目がぽーんと飛び出しかけたり、そうもしているうちにあれよあれよというまにロミジュリCD発売日となり、懐かしいメロディを聴きながら頭の中で死のダンサーを踊らせたりマーキューシオの立ち振る舞いを思い浮かべて胸を詰まらせたり、わりあい目まぐるしい日々をおくっております。人生は続くんやからな!

以下は収拾のつかなくなった感想です。要所要所を確かめる為にも、フォンティーヌでもう一度観たかった…






おとつい昨日とアルター後久々の観劇に、アトリエフォンティーヌへThrill meを観に行ってまいりました。昨年秋口にロミジュリ観劇ラッシュの合間を縫ってのたった一度の観劇だったのにも関わらず、深々と抉られ、記憶に刻みつけられたこの作品ですが、今回の再演も以前に増してすばらしく、「彼」と「私」がつくりだした濃密な空間にすっかりあてられてしまいました。
初演時の記事(http://d.hatena.ne.jp/trois_reve/20110925/1317488696)でもうストーリーについてはふれているので、今回は割愛いたします。
前回、新納さんの「彼」目当てで足を運んだにも関わらず、観終わって第一声はまりおさんの「私」についてのことでした。今回ももちろん「彼」も十二分に魅力的ではありつつも、やはりまりおさんの舞台の上での「私」としてのありように心奪われて仕方がありませんでした。
今回スリルミーを観るにあたって、二度目の観劇以降やはり注目すべきは、どの段階で「私」が「彼」を陥れようと仕組みはじめたのか、という部分なのだろうなと、そこがどこかを考えながら観ようとフォンティーヌに向かったのですが、回数を重ねるほど、長い階段を掘り進めるように降りながらあのフォンティーヌの客席に向かう時のように、ずぶずぶと深みにはまってしまうようで、観るたびに違った可能性を考えてしまって結局結論を出すことはできませんでした。一度目は「私」の最後の勝利宣言に、それを目の当たりにした「彼」の心境を思って腹の底が冷えたような心地になり、「私」は「彼」を貪り尽くして食い殺してしまったのか、あるいはやはり手に入れられなかったのか、と思い、二度目は「私」の「彼」への想いはむしろひどくまっすぐだったせいで、ねじまがって歪んだものに見えてしまったのだろうかと、そんなふうに思いました。白が白すぎて青みがかって見えるような、まっすぐ差し込む光が水面下で屈曲するような、そんなイメージ。もちろん、演出や役者さんの演技として意図するところはひとつなのだろうと思うのですが、受け取り手がいろいろな可能性を想像するのも、またひとつの楽しみ方ですよね。楽しみ、というにはしっくりこない、観劇後、手を組み合わせた「私」のようにじっとうつむいて考え込んでしまう様な作品ではありますが。ある種麻薬のような、精神の健全さを保つには絶対に口にしてはならない類のもの。それなのに禁じられれば禁じられるほど、ひとつ、またひとつと口に含みたくなるもの。

法で裁かれる様な罪を犯すという部分にではなく、「私」がなにものであるか気づいてしまった「彼」の気持ちに寄り添うと、この物語が迎える結末はひどく苦しいものである事は間違いがないわけです。人が見ている前で逮捕されたと口にした「彼」。拘置所のなかでなにかにとりつかれたように(それは純粋な「罪の意識」とはまた別物な気がします)ひとり呻き叫び取り乱すその時点の「彼」にとっては、絞首刑になる、あるいは刑務所のなかで一生をすごすことが耐えがたい苦痛であったはずでしょうに、「私」に思い知らされた瞬間それはたいしたことではなくなったのだと思います。 「私」と一緒にこれから過ごさなければならないということに比べれば。自分が今まで見下しアドバンテージを握っていた、自分の一番傍にいつもいた人間が、自分より遙か先をゆくような人間だとわかるということが、いつも「一番」で皆の「特別」で「選ばれた人間」だと自他ともに認める存在であった自尊心の高い「彼」にとってどれほどの屈辱であったかは想像に難くないです。「彼」の存在価値が全否定されたといっても過言ではない。そんなある意味自分を殺した相手である「私」と「彼」はこれから先ずっと一緒に暮らしていけるとはたして思うでしょうか。もはや好ききらいの問題ではなく、自分にあんな苦痛と息が詰まるほどのある種の幸福を与えた人間とずうっと暮らしてゆけるかと問われれば、それは常人では土台無理な話です。「彼」もまた超人なのは知ってるけど、それでも「私」には手が届かない。
だからこそ「彼」は最後に精一杯振り絞った力で「私」を拒絶するのだと思います。「君を認めよう だが君はこれから孤独だ」
泣き笑いの表情でゆっくりと後ずさりする彼を見て私はどう思ったのだろうと、ここがすごく疑問なのです。「どうしたの 顔が青い」とシチュエーションとしても白々しくきこえる歌詞ではありますが、これは意図的に追い詰めているのだろうか、これは「私」の本当にやりたかった事なのだろうか?と。自信に満ちていた「彼」が地に落ちゆく無残な姿が見たかっただけなのかしらと。

ほんとうに「私」が「彼」とただ一緒にいる"だけ"でいいなら最後のあの勝利宣言はいらないはずなのだと思います。一緒に終身刑になった時点で「私」の望みは達成されたのですから。いつも自分の気分で好き勝手にふるまう「彼」に「これが僕の愛 これが僕の心臓」と「私」の想いがどれほどのものかを突きつけ、思い知らせてやりたかったと言われるかもしれないけど、そうしてしまったらもう「彼」は「私」に「なんて意地悪なんだ」とあのいい笑顔を浮かべさせるような振る舞いをもう絶対にしない「彼」になり下がってしまうから。 「彼」に認められることと「彼」のそばにいられることはイコールでないと「私」は知っていて、それでも「彼」に認めて欲しかったのか、想定の範囲外だったのか。それにしてはあまりにも無邪気な問いかけである「見直した?それとも僕が怖くなった?」

僕こそが超人、と口にする「私」は「彼」の庇護下にいるふりをしてひっそりと牙を研いでいたのだろうと、きちんとした意志をもって「彼」を服従させようと思っていたのだと信じていたのですが、それにしては上記のように「私」が「彼」の一挙一動に見せる反応が、あまりにも真実味を持って露わなんです。「彼」から受け取るものでどれほど「私」が喜びにあふれるかは「私」の「彼」に触れられた時のとろけそうな表情からも、他意なんて一筋もないほど、肝が冷えるほど切実なものを感じ取れましたし。摂取してはいけないものでも摂取しなければあんな多幸感にまみれた顔はできない。「彼」が与えているものがおかしいのではなくて、「私」の受け止め方が異様なんです。おそろしく振り切れているひとだと。
終演後、友人が「まりおさんの「私」の目があまりにも無垢だからもうよくわからなくなってきた」と頭を抱えていて、その通りだと、とてもはっとしました。契約をきちんと遂行しようとしないことについては苛立ちをあらわにさせていましたけれど、彼の上からの物言いやわがままな立ち振る舞いに文句を言いこそすれ、そういった関係を心底嫌がっているようには思えなかったんです。「僕はただ、真実だけを」「彼と一緒にいたかった」が二つあわさってぐるぐる巡れば、もうそのままの意味に捉えてしまいたくなる。ただただ一緒にいたくて、「私」が「私」なりにがむしゃらに懸命に考えた結果、ああいったところに落ちつくことになってしまっただけで、最初のきっかけ、たとえば眼鏡を落としたのは本当に「私」が意図的に行ったことなのか?だとか。ある一線をこえたひとの狂気は孕んでいても、「彼」への想いはすきとおったものなのだろうかと。どうしようもなくいびつに見えるけどその実、なにかひとつのものを心から希求してやまないがための形振りかまわなさゆえんであって、ほんとうはひどくまっすぐで世間の波に揉まれるにはどうしたって生きづらいひと。

だとしたらやり方を間違えてしまった「私」もまたとてもかなしいひとだなと。「私」は最初から最後まで間違えただなんてひとっつも思っていなそうですけれど。きっと「彼」が先に殺されてしまったことだけが、唯一の「私」の想定外であり、同時にいちばん悲しいことだったのだろうと思います。
「彼」亡き後も服役していた「私」が仮出所を認められ、「じゆう?」と口にした時の、目を眇めたあの奇妙な顔つきが頭にこびりついて消えません。外に出たかったというより「彼」がいない鳥籠など「私」には"そんなのなんの意味もない"から、という理由による仮出所希望であって、別に「自由」になりたかったからではない、という意味での「じゆう?」なのか、今もまだ「彼」に心を囚われている「私」にとって気持ちの上で「自由」になることなど”そんなのなんの意味もない”からなのか。そう考えると「彼」が亡くなったのは本当に事故だったのか、「私」への復讐であったのではなかろうか、という気すらしました。どっちか片方が優位に立つのではなく、順繰りに互いが互いを捕らえて、結局は両者とも互いのせいでがんじがらめになってしまっていたのではと。

7月の銀劇もとても楽しみでありつつも、あの奇妙な二羽の鳥はアトリエフォンティーヌという狭い鳥籠に半永久的に閉じ込めておくべきなのだと思ってしまう心の動きもまた確かにあります。
「私は壊れた小舟のようにひとり取り残されて、そんな私を見て、彼は意地悪く微笑むのです」という「私」の独白が、うろ覚えながら彼らの関係性を表しているようで、とてもすきでした。