TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

風姿花伝プロデュースVol.4「THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE」

母と娘の話と聞くと、怖いもの見たさでのこのこ足を運んでは大怪我を負って帰ってくることが多いです。ある意味肝試しで、でも出てくるおばけは見知った人や、自分の顔をしている。今回も例に漏れず、満身創痍で目白までとぼとぼ歩きました。胸に残ったのはやり切れなさだけではないのですが。

地方のぽつんとした街の環境や貧困、人種差別が家族の形までぐぐっと歪めてしまう話でもあるとは思うのだけど、私はそちら以上に、母と娘という関係と性別に起因する話に捉えてしまった。じゃあこれが息子と母の話ならこうなったか?父と娘なら?父と息子なら?と考えたとき、ほかのパターンなら同じ環境でもああはならなかったと思う。また、ストーリーとしては全然違うけれど、登場人物構成や、親子関係の濃密さという意味で「プルーフ/証明」のことが対のように思い出されてならなかった。でもあちらはもっと愛情の形がまっすぐな父と娘で、そうして娘は父も認めた男の存在によって引っ張り上げられる話でもある(とてもうがった見方をすれば)。
これは性別や年齢によって受け止め方が違うのだろう。自分に引き寄せすぎるのは安易かもしれないけど、でも他人ごととするにはテーマとの心の距離があまりにも近しすぎて、冷静な判断をするのは困難です。
直前に、母と息子の関係性について友人と、息子の母性信仰が強すぎる場合のそれはあまりにも女側に背負わせるもの(母だけでなくその後息子が人生の局面で出会う女すべてにも影響を及ぼす)が大きくてしんどすぎでは?美化すればいいってものではないよね?という話をしていたのは無意識の自分への前振りだったのか。同性で、かつ女同士の親子間の関係性のやさしくなさ。この作品で描かれるほどシビアなものは経験していなくとも、自分の体験とグラデーション続きの、その先にあるものとして想像がいってしまうから、身に引き寄せてしまわずにはいられない。血を分けた家族って逃れられない存在なのか、その人たちとずっと一緒に暮らしていくって、どういうことなんだろうか。そんなことも考えてしまうような芝居。
母と娘は、感情をぶつける相手がお互いしかいないような環境で、鏡写しのように互いのなかに自分の嫌な面を見出してしまう。やりとりはいつも、笑いながら喉元にナイフを突きつけ合う、やるかやられるかの死闘。冗談ではなく。
2人の口論の激しさ、その剣幕は、引いた位置で見ればある意味滑稽だ。物理的距離ではなく、精神の距離を置けたなら。そういう局面を実際に体験した人が何年も経ったら昔の笑い話として片付けることも、あるいはできるのかもしれない。でもそのどれも難しい、すれすれのユーモアをユーモアとして受け止める機知に欠けた人間にとっては、自分の人生の大半を母に捧げて中年に差し掛かったモーリーンの自虐や、そんな娘のわずかな楽しみをも端から奪って自分のわがままをただ突きつけ続ける母の仕打ちは、ただただ現実としてなまなましく、なにか昇華したりずらして見られるものではなかった。目の前の事象に瞬間瞬間身をあずければ笑える(たとえばレイからモーリーンの手紙を盗みとろうとするマグの画策と滑稽な動き)のだろうけど、その行為が後々どんな事態を招くか想像がたやすい展開において、ここで笑えるのは相当肝が据わってる人か、あるいはあの密な空間で目の前で行われていることを自分から完全に切り離してしまえるおおらかな人では?!と思ってしまう心の余裕のなさ。

母と娘が主軸の話とは思っているけれど、モーリーンが感じているもうひとつの閉塞感の理由、彼女が根ざす土地自体についても書きとめたい。パーティーで急速に接近したパトとのやりとりで明らかになる、アイルランドにいても得られないもの(意味合いはまた少し違うけど、人生が一色に塗りつぶされてしまう、ってジルーシャの言葉を思い出したり)。イギリスに行っても突きつけられるのは疎外感ばかりの、彼らが常に人生に感じている違和感。パトがあんなひと夜の出会いだけで「うつくしきリナーンの女王」へ手紙を書くという約束を守ったことにも、そのたどたどしいけど心がこもった内容にも驚いたけど(「棟梁」が書けないのがリアル)パトがいうようにイギリスだと仕事は忙しいし出稼ぎ労働者として相手にされないしで、村に帰ってきたときくらいしか出会いがなかったのだろうな、となんだか納得させられてしまった。モーリーンと運命の出会いをはたしたというより、適年齢の男と女が限られていそうな空間、という推測。
パトが現れてからのモーリーンが母の前で見せつける媚態は見ていてどことなく居心地が悪くなるけど、彼女にとって母の前で性に奔放なふうにふるまう、あられもない言葉を口に出すってことは、男に媚びるということだけでなく、母の望む娘の姿から逃れることにも繋がるのだと思って観ていた。パトの存在も初めての男との深い関わりというのもあるけど、自分をあの環境から連れ出してくれる、風穴をあかす存在としての男。そうやってアイルランドを離れたところでその男とうまくやれるかどうかはまた別の話、とは冷静に考えれば思うけど(本の趣味が合うとか政治思想とかいろいろ大事なことがある、と彼女が自分を納得させるためにあとから口にする言葉はその実リアルな要件だとおもう)、いまの彼女には土地や母から逃れる選択肢はほかに考えつかないのだから、目の前にぶら下げられたら死にものぐるいでとびつくのは道理だ。しかし、こういうときにやっぱり男が待っていてくれなかったときの絶望は、ふたりの場面で男から女へ囁く言葉が甘ければ甘いほど深い。母を罵るヒステリックな姿をさらけ出してもなお、自分を見捨てなかった、精神の病をも肯定してくれた、モーリーンにとっての救い主は彼女の目の前から姿を消してしまう。彼女の母のいつもの意地悪によって。

パトからの手紙をかってに読んで燃やしたことが発覚する直前のやりとりでの、モーリーンの"ばばあ"呼びには、彼女なりの母への憎しみだけではない思いが見えるようだった。下世話な話題で盛り上がり、パトと別れてよかったと自分を納得させるモーリーンに母はいつもの皮肉たっぷりの口調で同調する。こういう、なにかがうまく噛み合った日は今までも時たまあったんじゃないか、ドライブに行ったりワイン味のガムを買ってあげたりする日が今までも、と思えるような光景。それぞれ椅子に腰かけたまま、目一杯腕を伸ばしてショートブレッドを手渡し受けとる様子から、お互いに対するここまでは譲ってやるよというスタンスや、共有している空気が可視化されている。好敵手同士の休戦みたいな絵面。本人たちに言ったら怒るだろうけど。だからその彼女らなりのよいムードをぶち壊しにするあのモーリーンのやり方に、すーっとお腹の底から寒くなるような気持ちになる。すべては母のいつものいじわるの発覚が起爆剤で、観客は息をひそめて見守ることしかできない。モーリーンの激しすぎる行為を積極的に肯定することはできないけれど、彼女の感情のうねりとしてあれくらいの勢いになってしまうのも理解できなくもないと思ってしまった。でも起こってしまったことがどうしようもなくかなしいし、見ていてただつらい。
ばたばたと身支度をする上ずった声が恐ろしくてならなかった。ヒールを鳴らして意気揚々と出て行くモーリーンの、黒いドレスの上がりきらないチャックから覗いた背中とシュミーズの白さが焼きついてはなれない。マグは本当に転んで亡くなったの?駅のホームでの5分の逢瀬はモーリーンの見た幻だったの?

でも同じくらい濃くおぼえているのは取り上げたボールを見つけたレイに憤りをぶつけられたとき、あんた意地悪で手元に置いてたんだろ、と言われたモーリーンの、火かき棒を握りしめたままの呆然とした顔。痛いところを突かれて泣き出す直前みたいな無防備な表情をばしっと一直線に受け止めてしまう角度の席で、噴き出した彼女の感情に当てられてか、もう無性に泣けてしかたなかった。あすこにたってそういわれたのは私だ、みたいにぐわっと渦に取り込まれてしまった。そういう急速な感情移入って心の動きとして怖いなと思いつつもどうにもならなかった。
自分の性格のいやな部分を年下の男の子に無遠慮に言い当てられたから、だけじゃなくて、それはモーリーンが母の自分に対する扱いに日々感じていたこととほぼイコールだったからなんだろう。憎らしく思っていた母の一部を自分の中に見出してしまったときって、単純に悲しみや怒り一色でもなくて、戸惑いややるせなさ、すべてが腑に落ちたような思いもごったになって、身体からいっせいに力が抜けてしまうような、そんな感覚かなと想像する。この因果は、いったいどうしたことだろう、何でここで巡ってくるのと悪態をつきたくなるような。しかもこんな、モーリーンの人生において大した比重もない男の子の言葉によって。
母が亡くなってもつきまとい、鏡を見つめれば自分の輪郭にぶれて重なるように映り込む。逃れられなさと強制的に向き合わされたとき、モーリーンはじわじわと受け入れるはめになったんだろうか。母の座っていた揺り椅子を揺らしながら、立ち去るレイを見送るモーリーンの表情がそんなに悪いものではないのが救いだった。

鷲尾さんのマグ母さんは、単体で見たらわがままぶりがある意味清々しいいじわるばあさん的なキャラクタ、チャーミングと思える表情、仕草すらある。あるんだけど、対モーリーン、娘へのふるまいと思うと、あまりに娘側の立ち位置で見過ぎた人間にとっては憎らしさ一辺倒で、一挙一動に腹が立って仕方なかった。それも演者の方の徹底ぶり、というのも失礼なくらいのすばらしさが理由だと身をもって知ってはいるのですが。そういえばこのマグは徹頭徹尾「母」としてしか描かれなくて、娘の性的な行為への嫌悪感は見せるけど、かといってなのかだからなのか「女」としての自分のあり方が透けてこない話だなと思った。父の存在も一言も語られない、血縁の男が一切出てこない、というのも何かのキーのような引っかかり。マグという個人の名前があるのに感想を「母」表記ばかりでつづるのもと思いつつ、でもこの話ではやっぱり彼女はモーリーンの「母」としての立場でしか描かれていないと感じたので、わかりにくさも手伝って母呼び(書き?)で通してしまった。

吉原さんのパトはあの大きな身体で最初モーリーンにぐいぐい迫ってくるわりには(シンクで後ろから迫るときの、モーリーンの身体がすっぽりおさまる体格差はひきょうだ!)声は深くてやさしいし書く手紙は素朴だしおかゆは作るしで、好感度しかない。なのに待っていてはくれないので、あのでっかい身体でモーリーンの心をざぶざぶかき分けて入ってきたぶんの穴を埋めるのは相当大変でしんどいな、と思った次第です。たとへば君ガサッと落ち葉をすくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか、を思い出し。手紙のたどたどしさに反しての、うつくしきリナーンの女王、というタイトルにもなっているモーリーンの呼び名、吉原さんの声の深みとも合わさって詩情にあふれていた。あの夜の部屋の照明の具合と、小川さんの「うつくしき」という訳し方もたぶん大きい。

内藤さんのレイのあたまわるそうな現代の若者っぽい喋り方とその内容に終始イライラさせられていた。彼が自分の不遇さを訴えてくる事実にくっつけた理由がぜんぶ自分に都合のいい作り話と化してるあの調子の良さ(ボールについても鶏の話が確かならどう考えても悪いのは彼)。でもそういう男の子も若きは猫も杓子もなんとなくイギリスに行きたいと思っちゃう、行けば何かがあると思って期待を抱くその感覚や、彼の一挙一動から、リナーンという土地に生きる人たちの生活風景が観客の頭に浮かび上がってくる。頭の方で登場した時には思いもよらなかった重要な役どころ。レイ以外の3人の登場人物すべてと観客みんなをハラハライライラさせる役だけど、最後の決定的な言葉をモーリーンに突きつけるのも彼だ。お芝居において、主人公を気持ちよくする役と苛立たせる役、どちらか一方を与えてもらえると言われたら後者のほうを私は選ぶかも、なんてこともパトとレイ、2人の兄弟を見ていて思った。


観劇後に思い出したもの
よしながふみ『愛すべき娘たち』
・アーザル・ナフィーシー『語れなかった物語』
向田邦子のエッセイ
プルーフ/証明