TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

4/9『おのれナポレオン』


「われわれにんげんは、夢と同じもので織り成されている。儚い一生の仕上げをするのは、眠りなのだ」







以前WOWOW生中継で『12人の優しい日本人』を観てから、いつかは三谷作品が生で観たいと思っていたので、念願かなって今回『おのれナポレオン』観劇できて嬉しかったです。最近解釈、登場人物の感情の機微をこちら側に大きく委ねるような、深く感じ入るけどその出どころはなに?と観終わった後に考え込んでしまうような作品を好んで観ていたのですが、『おのれナポレオン』はきっちり手を引いて、あるいは分かれ道に到達するごとに、こちらだよと声をかけて最後まで通るべき道へと導いてくれるような、すがすがしい面白さを感じる作品でした。京極堂に憑き物を落としてもらったひとってこんな気持ちかも、なにがついていたかは知らないけれど、という感覚。ミステリだからそうであるべきなのかもしれないし、でも憎たらしさを感じるべき登場人物たちのそれぞれの部分にさえ結局は憎めないやつらだなあと感じさせてしまう、どこかあたたかな視点は三谷さんの作品全般に通じるものなのかもしれないなと思いました。(と、知った口をきけるほど、三谷作品を映像すらすべてを網羅しているわけでもないのですが……)にんげんのいとしさをみているの みていないの、を思い出してならないです。
誰かが過去に犯したらしい罪をいち聴衆としてきく、みたいな舞台が好きなのかもしれない。

近くで観た方が表情が確かめられるんだろうなあという思いでライブビューイングのチケットもとってしまったのですが、2階後方から観た時の舞台全体を俯瞰できる位置からの照明の記憶もしっかりとどめておきたいな、と思うほどには光の使い方がうつくしかったです。



○シャルル・モントロン
ヤマコーさんのこういう役を一度舞台で観たかったんです、という2月に生で初めて彼を観てからの願いがかなってカタルシスを得られたすっきり感も冒頭で記述した「すがすがしさ」の一因かもしれない。ナポレオンの側近でセントヘレナまでついていき、彼の死後莫大な遺産をもらったということもありなにかしらその死に関与してるのではないかと疑いをかけられてるのだけど、いまは金を使い果たしてパリでジゴロやっていシャルル・モントロンさん。執着し続けているうちに、相手に自分の一生あるいはいちばんいい季節を捧げてしまって、もうあいつが憎いのか愛しいのかよくわからなくなった…おれはいったい……!というように対象に粘着する役を演じてほしい俳優ヤマコーさんという認識の正しさを再確認しました。だいたいが勝手に行って、勝手にひとりでからまわっていることなので、思いを押し付けた相手ははた迷惑どころかその迷惑さをただしく認識しておらずに、結局はかなくひとりで散る、という型からはずれず、期待にそむかないシャルルさんでした。あんなにいろいろなものを投げ打って立てた計画の途中でめんどうくさくなってきてしまう、けれど最後の最後で拾えるものは拾う(据え膳を食うように)、そしてそこで使い果たした一生分の運を後先考えずにぜんぶすってしまう、という潔く、どこまでもにんげんくさいだめさは白旗を掲げる素敵さ。



○アルヴィーヌ・モントロン
シャルルの元妻でかつてのナポレオンの愛人。安居酒屋の女主人まで身を落としたアルヴィーヌは俗っぽさやけれんみはいい意味であるけれど、かつて宮廷で数々の浮き名を流したとされるあばずれぽさはない、という印象でした。きれいという一言で片づけられない、望月の欠けたることもなしと思えば、というような造形物としての完璧さを、崩した動作とのミスマッチかげんでかわいくみせている。

天海さんも阿修羅城(2003)のDVDで一度拝見したきりの方だったのですが、あれを観た時から、色気はなくとも勇ましさが多分にあり、でも過不足ないうつくしさがいっしゅうまわって整いすぎていて造形として完璧で怖いゆえに、正気と狂気のあわいのひとを演じたら怖いひと、というイメージがあります。アルヴィーヌはぎりぎり線の内側にとどまってると思う。ナポレオンのパリへ帰る計画が具体的になってくるごとに、あすこに行けば自分は十把一絡げにされてしまう、と増してくる恐れ。いとしいものの気持ちがほかに移ろっていくのをむざむざ見過ごすくらいなら、いとしい君のままこの手ではかなくして差し上げましょう、という心の動きは古今東西普遍のもので、だからこそ感じいるものだなと。そこに矛盾はなかったのよ、というあれ。だからこそ途中でパリに強制送還されてしまうも、子までなした仲の彼女をかえりみないナポレオンの無邪気さに肩を落とす姿をあわれに思いました。最期を看取れなかったのは彼女にとってさいわいなことであったのか。


ハドソン・ロウ
内野さんのロウは、ナポレオンを監視下におけるということが千載一遇のチャンス、くらいに彼に対してずっと前から複雑な感情を抱いていたけれど、ナポレオンへのひとつひとつ嫌味もそれほどいやらしいものには感じませんでした。彼はただ与えられた自分の職務に忠実であろうとしただけで(立場がどうというより会って初めて知ったナポレオンという人間そのものの行い、ひととなりにいらいらしていたけど)、ひとりの軍人として対等な立場でナポレオンのことを捉えてしまう、どこか無下にできないにくめなさも持ってるなあと。型にはまったふうに、わざと自分をいい人に見せたくない、いい人にすら見えます。

ロウもシャルルもナポレオンへ持ってる思いの根深さはとんとんな気がするけど、二人ともそれぞれの立場から立場に即した思いを向けてるからアプローチの仕方が真逆でおもしろい。おもしろいって言ったら二人にすごい剣幕で怒鳴られそうですが。
地球の反対側から地面を掘っていったら、同じくらいの深さの穴が掘れて見事貫通ののち手を握りあえるかもよ?くらいのなにか。


○ナポレオン
かわいくてきもちわるくて一筋縄じゃゆかない新種のいきもの。

すごいよナポレオンさん!とっとこ〜走るよナポレオン〜〜♪だーいすきなのはーーーーー\フランス/\あげられません/やら浮かんでは言葉がふつふつと消えていきました。途中シャルルがしたためた、偽の仲間からの脱出計画内容についての手紙をうれしそうに読みあげる姿や、木でつくられたおもちゃの部下たちひとりひとりに役職を任命してゆくパリへ戻った際の予行練習の無邪気さに胸が痛んだのですが、それすら裏で舌を出している彼の作戦だと思うとこいつ……、という気にもなりつつ、本当は本当だったらいいな、とどこかで思っていたのじゃないかなという気もします。ひとの斜め上をゆく発想や発言ばかりするナポレオンであっても、最盛期の夢にいつまでもしがみついていたい、と考える、それこそが夢で織りなされたにんげんの普遍的な真理ではないですか、と問いかけたら首を横に振らないように思う。

ラストのもういない彼へのロウの悪態のつきようが、ナポレオンというひとが他人にどういう影響をあたえるにんげんか、すべてを物語っている。



今井さんのアントンマルキは一服の清涼剤で欠かしてはならない安定のツッコミ役、浅利さんのマルシャンの堅実さ、そしてひとすじなわではゆかなさがにじみ出ている20年後の彼の佇まいに、その登場されたお姿になぜだかほっとするような安心感を覚えました。


「さあ、お茶をどうぞ」