TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

Theatre des Annales vol.2『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行“──およそ語り得 るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語 り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』




ウィトくんが久しぶりに食べた豆のスープの目がまわる程のおいしさや、疑い得ない愛を語り得ないように、明晰に語り得ないならば沈黙するべきなのかもしれないと思いつつも、見ていなければ語る機会を永遠に逸してしまう生のものをどうしてもすこしでもとどめておきたくて筆をとり(もといPCに向かい)ました。

人と人との間に生まれる名前をつければ壊れてしまうかもしれないような特別な感情、たびたび気になるお芝居の中にそのモチーフを見出してしまう神さまという存在について、なにより、ツブツブだけではできていない世界に生きている私たちが思考すること、それを言葉に紡ぐことについて、より深く考える契機を与えてもらえるような作品でした。ほんとうはそこに冷静に辿りつく前に、それはすごい!!ことだ、と!!思う!!!とベルナルドを張り倒しつつ息まいて言いたい!と思うくらい、東大駒場駅までの線路沿いの道を友人と互いに寄りかかり合いぶるぶる震えながら歩くぐらい、凄いものを観た!という興奮と眩暈でくらくらした第一段階があったのですが。わたしの守備範囲内では絶対に知り得なかったこと、こういう作品があるよという情報を発信してくださった某様に本当に感謝しております。
まっ暗闇の場面では、何も見えない怖いだったのが、2回目3回目では視点が自分の内側に向かってぐっと沈んでくる気がしていました。舞台を見ているのに聴覚は働いてるのにある意味おのれとの対話。それはすべてにおいてなにかを「みる」ときに言えることだとは思うのですが。だってパンフレットで作・演出の谷さんがおっしゃっていたように”「論理」と「自分」を抜きにして、人は何も喋れない”のだから。

下手前方〜体育座りで反省してるみたいになる上手おざぶとん席〜すこし引いた上手前方席の計3回観劇。
4/3(水)、5(金)、7(日)


哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインというひとの名前すら寡聞にも初めてきいた身ゆえ、題材についてどういった語り口で切りこまれるのかややかまえて劇場に向かったのですが、初めて行ったアゴラ劇場の小さな空間は、東大駒場前の小劇場ではなく、あの105分だけ確かにオーストリラ軍の一小隊がやすむ、彼らにとって天国にも地獄にもなるうる部屋でした。そこにいる”ひとたちが、用意されたものでなく彼らの喉元からいませりでた言葉で語りかけてくるなまなましさ。
冒頭でカミルによってマッチの火が灯されたランタンがゆらゆら揺れているあかりを見つめていると、ふっと意識が引きこまれてそこめがけてそのままとびこんで行きたくなりそうだったのですが、前のめりになりかける背筋(気持ち)をけんめいに正しているうちに、次第に物語にのめり込んでいきました。シリアスとわらいの配分の絶妙さかげんに、笑いどころはおなかをかかえて苦しくなるほど、いっぽう他のシーンはおなかに組んだ手を置いて、敬虔な信徒のように受け取れるものをひとつも取りこぼさぬよう真剣なおももちで臨みました。


○ウィトくんとピンセント
本来なら「本国の倉庫で弾の数かぞえているだけでいいようないい御身分」のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(以下ウィトくん)は、志願してきた前線から、いまは敵国となったイギリスにいる友デイヴィッド・ピンセントに向けて手紙をしたためている。ピンセントに対してのように、隊の中に甘えられる人はいない、というウィトくんは、実際にはその場にいないはずの、まぼろしのように現れるピンセントに対峙したときだけ、彼にしか見せないような表情を見せます。物理的な距離に遠く隔たれているはずの彼らの魂の交感ともいうべきやりとりは、瑞々しく、結晶にしてとどめておきたいような尊さを感じさせる。ほんの数フィート先、手を伸ばせば届く距離、とデイヴィッドに言われたウィトくんがほんとうにほんとうにぐしゃあと嬉しそうに微笑むさまに、だだっこのブチとせっかちの栗毛のポニーにそれぞれ乗って、ノルウェイを旅するふたりのほほえましさに心をつかまれ、二度めには胸をえぐられます。それはすべてあらかじめ喪われているものだという事実を突きつけられて。
疑いえない愛もまた語り得ないことのひとつ、が不出来な生徒ピンセントくんへのウィトくん先生からの宿題のヒントだとか、なんというラブレター!と嘆息することしか観客である私たちに残されていることはないだろうと思い、けれどそれがピンセントのもとへは決して届かないものであることに押し黙ることしかできなくなってしまう。手紙を読み上げるウィトくんのランタンの灯りに照らされた横顔は、なにかひとつ答えを見出したひとのとてもおだやかな表情で(熱に浮かされたような「君がいないからだよ、ピンセント」からおだやかな「君がいてくれるからだよ、ピンセント」へ)、だからこそ、ファニー・ピンセント夫人からの知らせに、にんげんから配慮成分をすべて引き算したようなミヒャエルの振る舞いに、じわじわと頬を歪めるウィトくんの胸中を慮るのがあまりにつらい。あのウィトくんの表情に胸をふさがれたような気持ちにならない人はいるだろうか。
戯曲を読み返して超絶基本に気づけば、ものがたりのはじまりは6/3、ファニー・ピンセント夫人の手紙の日付は5/10。冒頭からのミヒャエルはつまり……と知ってから観れば、どうしてもその事実を噛みしめてしまう。亡霊、あるいは彼の頭の中だけの人、あるいは? 「僕たちはいつだって話せる。明日も、明後日も、来年も。そうだね?」最後の問いかけにウィトくんの返事はない。観客に委ねられている部分。
あんなに言葉できっちり定めようとしてるひとの話なのに、囲おう囲おうとしているからこそ必然性のある余白がいつのまにかできていて、それが余計にこころよいのかなと思います。思考はどこまでもその隙間をすり抜けてゆく。明晰に語り得ない部分が「語る」箇所。
途中光が一筋もささない真っ暗闇になる場面で、舞台上で会話をかわす声はきこえるけれど目がなれようもない、鼻あたりに手をかざしてももうなんにも輪郭さえ見えない状態で気が変になりそうだったとき、ひとはあの環境に何時間おかれたら気が狂うんだろうなと考えていました。でも恐らくほんとうにさみしくなるのは闇の中や嵐の日より、光の中。ケンブリッジの芝生の上にシートをひいて、ピクニックを楽しむウィトくんとディヴィッドの、たぶんふたりの間ではなんてことない一日のある時間は、胸が苦しくなるほどの多幸感をもたらすと同時に、どうしようもなくさみしい。「時間が言うことをきかなくなった!」ラッセルの授業がはじまる、そんなのでなくていい、おい!の流れが、デイヴィッドの前だけ肩肘張らないくずした姿をさらけ出すウィトくんでなんともかわいい場面だと思います。
宇宙は明るい、君がいるから、という別の場所できけばひどく陳腐にきこえそうな言葉が、ぴたりとあるべき場所にはめこまれて磨かれた宝石のように、デイヴィッドの口からウィトくんに向けて話される時だけ、きらきら光りをはなつ不思議さ必然さ。

○ウィトくんとミヒャエル
水と油のように交われない、顔を突き合わせなくとも同じ空間にいるだけで一触即発のふたりに思えるウィトくんとミヒャエル。けれどミヒャエルはウィトくんの大事な友に「すこしだけ」似ている。表層と中身、肉体がいくら似ていても魂は異なるものだとウィトくんが心の中で唱えても、「似ている」ことにどうしたって意識せずにはいられない。ミヒャエルとデイヴィッドという対照的な役どころを、まさに仮面一枚つけかえるように瞬時に切り替えられる山崎さんの二役に息をのんでいました。
壁に押し付けられたウィトくんが、押し付けたミヒャエルから顔を背けて斜め右したに視線をずらす表情が好きだったのですが、同じことをカミルにされても瞳をそらさない様子から、友と同じ顔を持つミヒャエルにだからそうしたのだろうし、そんな事情を知るよしもない彼は顔をあわせないウィトくんにますますこけにされていると腹を立てることになるだろうということが見てとれます。
けれど最後の最後にミヒャエルがウィトくんにかけたその声音はそれまでを思えば信じられないぐらいやさしく、直前のミヒャエルを通して遠く離れた地で亡くなった最愛の友へと向けた祈りのような抱擁から、彼にもなにか伝わるものがあったのではないかと思いました。手紙を読み進めたときのミヒャエルは終わりまで読みあげることを辞さなかったし、あまりのことに身をふるわすウィトくんにも最初は嘲るような口調でしか応対しなかったのに。あの抱擁は祈りで、また、大事なひとのために手紙を書くことも祈り。
すべての能動的な行為は祈りであるように思うし、逆に言ったら祈りは他者に何かを委ねる行為ではなく、もっともっと能動的なものではないかと思う。

○ウィトくんとベルナルド
ウィトくんがベルナルドの頬をいきおい余って張り倒す場面「それってすごいことですか」「これはすごいことだ!!!と!思う」がなぜだかすごく好きで、2回目の観劇で、なんて愛おしいひとたちなんだ…!と確信を胸に、震えました。ウィトくんが息つく暇もなく頭脳をぐるぐる回転させて喋っている、ある意味でたくさん酸素を消費して酸欠なのに興奮しているからそれに気づいていない、という状態の時に、ベルナルドがその流れを壊すように疑問を差し挟むから、ウィトくんは自分の思考を中断させられたことに怒るけれど、結局彼のおかげで水面に強制的に浮上させられて息ができているように見えます。デイヴィッドとは違うやり方で息継ぎをさせてくれるひと。
クリムトとウィトくんがほんとうに知り合いだったと知った時のベルナルドの反応、給仕志願までするへりくだりようのあの絶妙なテンポに引きこまれてさんざん笑ったあとで、「あの人は僕の、神様ですから……」のしぼりだすような口調にやられてしまうのは、彼があまりにも純度が高い思いをむき出しにしているからだと思います。ふつうのひとなら選んでしまう感受性のさらけ出しどころ、そこは思っていても口にするのを躊躇ってしまう様な、自分の魂に近い部分の思いをまるごと不用意に手渡してしまう。思ったことを、これを言ったら変に思われるんじゃないかな、等々のよけいなフィルターにかけず、すなおに言葉にせずにはいられない人。ベルナルドが神さまに会えるかもしれない、という希望を胸に、生きて帰る決心をかためたのがパンを泣きながら貪る様子ひとつでただ胸に迫ってくる、あの場面がとても好きです。対デイヴィッドとはまた違った意味で、対峙する時は自分を飾らなくなる、ウィトくんとベルナルドとのやりとり全般は、互いの魅力がさらに前面に押し出される様で、一緒に食べろよ、もなんだこのひとたちかわいいな、ってなってしまって困りました。ベルナルドにいっさい気をつかわないウィトくんと、ウィトくんを気遣うようでけっこう思ったことをぽんぽん言う姿勢を崩さないベルナルド。
たくさんの言葉の中のひとつ、僕らは誰にアンドレアスの安息を祈れば?を得たことで、ウィトくんは神さまの顔はただひとつではないという自分のこたえを見出せたのだと思う。いないと知りつつ神に祈ってしまう、ということ。言葉で現実をうつしとる、ということ。ソーセージが机の上に8本あることのすばらしさ!
ウィトくんが「仕事」にとりかかるのに、ベルナルドは欠かすことのできない存在だったはずです。

○ウィトくんとカミル
どこか遠くで光るものの存在を感知しているくせに、頑なにわからない、この物差しひとつでおれはやってこれたんだから、これからも同じこと、と思い込もうとするせつなさ。それなのにそれは違う、と高みから降る声はどこまでも悪気なく、いっそ暴力のよう。哨戒塔にのぼるのぼらないのやりとりで、ウィトくんと口論になる場面でそんなことを感じました。
闇の中で叫んでるミヒャエルやカミルの声が、だって、だって!というまるで子どものように思えて仕方がなかった。ラスト、自分の冥福を皆に祈られる最中仲間の言葉に茶々入れするように悪態をついていた彼が、ひとりずつその場から立ち去っていって隊長とふたりだけになったとき、最後のあかりが消える瞬間まで見せたあの表情が示すものについてもまた考えてしまう。

○ウィトくんと隊長
「お前らで食えっ」の響きと笑顔にローマイヤ先輩的なものを感じでスタイナー小隊に入りたいだなんて世迷いごとをいっしゅん思いました。
勝つ時は勝つ、負ける時は負ける、と決定的な言葉を口にすればどちらかに針がびんと振れて、それは真実になってしまうのを恐れているような曖昧な表現が引っかかります。目の前にある問題を片づけることだけを考え、背後に控えているもののことは考えない、見ぬふりをしているような隊長は、頼りがいがあるようでいて、決断をしたくない、つまり重責を負いたくないひとなのかなと思ってしまう。そのことを責めるわけではなく、ただただ彼もまた等身大の人間だなあとうなずくだけなのですが。ウィトくんと隊長より、おそらく隊長とカミルのあいだに通うものを考えるべき。隊長は、ウィトくんが持っていて自分が持っていないものを、そのままそういうものだ、だから何が悪い?とうけいれているけれど、カミルはうけいれていない、というあたり。



あのあと10時間歩いた隊の皆は会話しただろうかミヒャエルとウィトくんはなにか言葉を交わしただろうか、隊長が皆を鼓舞するような言葉をひとりで声高に投げかけているだけだろうか。ベルナルドはウィトくんの家に無事に招待されて、あのあと友好をあたためるようになればいいのに しばらくしてほかに彼を知る相手のいないウィトくんは、デイヴィッドの思い出話をベルナルドにぽつぽつするようなことがあればいいと思います。

大学の頃一時期通い詰めていた劇団で上演されていた作品が、小劇場の空間だからこそいきるような、狭い空間に押し込められた空気、すぐ目の前の舞台で息をするひとたちの生々しさを肌でひしひし感じて息苦しくなるようなお芝居でした。今回『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが(略)』を観劇した際に、その当時、彼らの芝居を観た時にかいだにおいと近しいものを感じて、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインというひとの名前すら寡聞にも初めてきいた身でありながら、懐かしい気持ちになってしまったのはそのせいだと思います。
重なるはずのなかった場所やひとやものと一瞬でも交差して、なにかひそみに触れたような錯覚に陥るふしぎについて、時々考えます。


二度も三度もいいます、こまばアゴラ劇場でたっといものを観ました。