TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

2013年に入ってから観たもの 


ウィトくんのおかげかせいか、現在言葉にとどめておきたい週間です。
語り得ないものが語る、場合もあるので全部が全部言葉に押し込めるべきではないと思いつつ。







1/26(土)『組曲虐殺』
今年初の遠征はこれでした。昨年末に観た時とはまたいろいろ変わっていたような。長生きをして申し訳ない、CDのすすり泣くような歌い方に耳をなじませてたからからっとした歌い方にあれっと思って、そのあとのひきしぼるような声にはっとしてしまった。「指先やからだの一部だけではなくて全身で書物にぶつかっていくと心の映写機に残っている思い出が目の前に銀のように燃え上がる、そういうふうにしてしか、僕はものが書けません」書きたくない、のではなく多喜二さんはほんとうにそういうやり方でしか「書けない」ひとだったのだろうなあと思って、その言葉に背筋が正されます。したくないとかそういう段階じゃなくやろうとしてもできないんです、というふうにきこえた。そういうかたくなさはひどく愛おしいものだ。
なにかおいしそうだな、かわいいな、すてきだなってものにであったときに、これはあのこが、あのひとが好きそうだから教えたいな、贈りたいな、っていう誰かの心の動きのあらわれがしみじみ好きで、だから母ちゃん!と手に握ったみかんを目の前につきだす多喜二さんの笑顔がしみじみすてきだなと思い、その思いやりが結ばれないのが窒息しそうなほど苦しく無念でならない。それでもきっと彼は「絶望するな!」と最期の瞬間まで唱え続けるのでしょう。
「後に続くものを信じて走れ!」



2/9マチネ、10マチネ、17、23ソワレ、24マチネ『教授』
社会問題の内容として取り扱いがむつかしい時代を背景に普遍的な男女の恋愛もようが展開されるこの作品、この時代でこの二人の話をやる必要が?まではいかないけれど、話の主軸であるキタジマ先生とルミとの関係性は興味深くはあってもなかなか深く分け入っていけるまでに気持ちが至らなかったのはなぜだろうなあと思い返しています。中でうごめく人の気持ちの泥臭さと演出の洒落た感じがやや乖離していたような気もする。でも個々の人物造型についてはとても気になりました。誰かに期待するのをやめた変わりに自分にもなにかを求めてほしくないとそばにいるひとにむけてのうのうと口にする、構ってほしさの言葉でなければそうとうさみしいひとのキタジマ先生、彼を愛するルミさんは、あたし全然重くないんだから!ってさばさばしてるように見せかけて、最後の最後に「もう先生に寄生しちゃったんだから」と言い放ってしまう、一皮むけば情念のひとで、どことなく身につまされ、自分を臆病者と自虐的に口にするウエハラは他人から批判されるのが怖いので先手を打っているようにしか思えないよくいるタイプで、彼の長々とした言い訳をきいてると苦しくなる。
共同幻想が崩れたのよ!」
そんなキタジマ先生とルミが常時いる、おそらく時々妙な空気(にならないようつとめるから結局なる)であろう研究室に、助教授として身を置いて、ウエハラ厚生省くんまで混じったもやもや感を生かさず殺さず(語弊)確信に触れないけれど気を遣うとこはつかって、でもあんまり考えすぎずときにはスルーするめんどくさポジションの岡田さん演じるジンボ先生は、見えないところで話の主軸に絡んでいる役だな、と途中から気づきました。教授とルミお似合いなんじゃない?の言葉に笑みを深くしたり、ウエハラはルミ狙いなんじゃ、と囃し立てられているときに難しそうな顔をしたり、なにより最後のウエハラの結婚の報告のときに一番に反応しそうにも関わらず真顔になっていて、他のひとよりワンテンポ遅れての「おめでとう」 ルミの「ウエハラくんは個人主義だから」にむつかしい顔で首を傾げるジンボ先生の意味はきっとそういうことなんだろう。重箱の隅をえぐるような感想。
しかしジンボ先生が出てくるのは他二人のユアサ先生、ノノミヤ先生と一緒の緩急の「緩」のパートだったので、基本は他パートでのぴりぴりぐあいにとがった神経をやすませる和み場面でした。テレビが欲しいけど部屋を間借りしている身では三種の神器を置く場所もない、あの時代の平均的生活水準の平均的男性思考を持ったジンボ先生。そんな彼がなぜ寄生虫の研究室を選んでしまったのかがそれなりに気になるところではありましたが、要領があんまりよくなさそうなので人気のあるゼミに入りはぐれた可能性があるな、と友人らと話しておりました。テレビを買ってあげたい系助教授はよく笑い、ひとの歌を聞きながら楽しげにリズムにのって身体を動かしそれ以外にもよく動く軽やかさ担当。
ユアサ先生の話から逃げ回っていたように、小難しい話はちょっと苦手で、すなおに屈託なくそのことを当人に伝えられて、さらにそのことが嫌味にならぬひと。久々にふつうに幸せになる役を観たな、と思いながら百面相をとりこぼさず見守っていました。

お洒落さが、とは言いましたが、中村中さんが劇中で歌われるアレンジされた昭和歌謡はどれもほんとうに素敵で、ずっと耳を傾けていたいなと毎回きくたびに思いました。冒頭の『アカシヤの雨がやむとき』はひたひたとしみいるように、キタジマ先生にルミの心がかたむき出す初対面の場面での、グリッサンドではじまる恋のバカンスはどきどきするようななにかのはじまりを予感させて、『傘がない』の鋭くとがった、胸に迫る切実さ、名前をあげなかった曲もどれもとても好きです。お名前しか知らず、歌声は今回初めてきいたのですが、泉からこんこんとわき出でてくるような声をおもちの方だなと思いました。
中さんが司会進行をつとめられてのアフターライブも、普段なら絶対生できくことがないようなシンガーの方々の歌声をきけて、ミニコンサートにきたような満足感が味わえました。岡田さんの『五番街のマリーへ』もあいかわらず1曲の中の人生を生ききるような、すべてを注ぎ込む歌い方をされるかただなあと思ったのですが、ノノミヤ先生を演じられた楽日の上條さんの『生きているということは』に、なぜなんてことない素朴な歌詞なのにあのお声で歌われると含蓄のある説得力に満ち満ちた言葉に聞こえるのだろう、というくらい歌の力ってきっとこういうことなのだろう、というものを感じました。また、上條さんの粋な計らいで突如歌うことになった中さんがこれをきいてシンガーを目指すと決意したという『泣かせて』にも、違った意味合いでぐらぐらと揺すぶられました。「あなたの言葉よりいまは安い流行歌のほうがまし 悲しいことはどんな化粧したって悲しいのです」
最後に中さんが仰っていた、流行歌の時代の歌ももちろん素敵だけど、今生み出されている歌にも魅力的な部分はたくさんある、というようなお言葉に、なにか先へつながってゆくものの存在を感じたのを覚えています。



2/23(土)マチネ ミュージカル『アトム』
メッセージがストレートだとストレートに胸にくるのかな、と観終わった後胸があつくなるような素敵な作品でした。以前良知くんが主役で上演された際の話はちらほら目にしていたので、ようやく観ることができた!という喜びもあり。以前のトキオくんとはまた違うトキオくんであるとは思うのですが。
WIZに引き続き奇しくもロボット役(むこうはブリキ男さんですが)が続いた良知くんのトキオくんは、彼の年齢を重ねる、ということを感じさせぬ容姿だけでなく、中身の「永遠の少年」ぽさもいきているのだろうなあと思わせるピーターパンぶり。コールドチキンをなぜ食べなければいけないの?大きくなれないって、おおきくならなければいけないの?って真顔でききそうな、そのイノセントな表情に心を打たれそうな、トキオくんの姿に眼を奪われました。神楽坂先生への「せんせい、好き、大好き!」でチュッて投げキスするシーン、ぴょんととびはねているところに息をのんでしまった。彼はたぶん好きの種類をひとつしか知らない。
神楽坂先生のお屋敷で働いてるという設定のようだけど、きっと先生の話し相手くらいのことしかしてないと思う。自由にのびのびさせすぎで、「先生との守らなければならない約束はただ一つ嘘をつかないこと」という劇中の台詞に、学校から帰ってきた小学生がご飯作ってるお母さんの背中見ながら今日は○○ちゃんと遊んでねーとその日あったこと全部もらさず話してるような光景しか浮かびませんでした。机に腰掛けている時の浮いた足がぷらぷらしてたり、犬と一緒に並んでしゃがみこんでる様子がただのこいぬ二匹が戯れるさまだったり、いちいち妖精めいている。どこまでも素直でまっすぐで、たぶん他のやり方を知らないトキオくんが、たとえ100万馬力のアトムの身体に戻っても、僕はアトムの姿で自分の好きな歌を歌うよ、という台詞を口にするあの説得力。
わらび座の皆さんもすごくすてきだったのですが、人間とロボットの境界線の溝を深めようとするこの作品の悪者代表!みたいな役どころのスーラ先生が、すごくいいお声で曲も格好良くてしびれておりました。