TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『GOLD〜カミーユとロダン〜』12/10マチネ

12/10マチネに観劇してきた『GOLD〜カミーユロダン〜』の感想です。
カミーユロダンの二人の関係性、女性の彫刻家が名を成すのはまだ厳しかった時代にカミーユはどのように生きたのかその描かれ方が気になって、そして公式HPで公開されていたナンバー3つとも、特にかなさんが演じるカミーユの弟・ポールの「天使の園」という曲に心惹かれての観劇でした。
一つの楽曲だけ抜き取って聴くのも楽しみのひとつではあっても、それはどういう作品のどのような展開のなかに組み込まれているかを知っているという前提あってこその味わい方であって、やはりストーリーの中にぴたりとおさめられている状態を知らぬままではその曲の意図するところを理解することはできないだろうと、私は思います。その一曲だけ抜き取っても楽しめる、直接ストーリーの本筋に絡まない曲というのももちろんたくさんあると思いますし、もとより楽しみ方などひとそれぞれであるからして、と言いだすときりがないのですが、公式にあがっていた3曲に関しては物語の軸、あるいは押さえるポイントとなるべき場面での曲だろうと思ったので。
生の声の素晴らしさ、物語に組み込まれてこその輝きという意味ではもちろん3曲ともが、うっすらと予想してはいつつも、曲調の溢れる多幸感から推測される光景との相反するぐあいでは「天使の園」がいちばん、観劇し終わってからもぐるぐると頭の中をめぐるものであったなと。

客席に足を踏み入れた瞬間に舞台美術に目を奪われる幸せは、”もの”はもちろんまったく異なるとはいえ、つい先日も東京グローブ座で味わったのと同種のものでした。舞台上に雑然と見える様計算されてぽつぽつと配置された彫刻が帯びる淡い、深い白。白ければ白いほど、登場する主要人物たちが纏う服の黒や赤にはっとするほど目をひかれます。
ロダンカミーユの個展に訪れる人々の、あの時代の婦人、紳士が着る洋装も好みでしたが、アトリエで働く人々としてや、彫刻作品を移動する際の、顔を出したままの黒子としての役割を担いつつもあの舞台の雰囲気を損なわせない、服の上に纏う、エプロンというにはワンピースめいた作業着が素敵でした。役者さんとしては立ち振る舞いは意識の上でかとは思いますが、役柄として、作業にいそしむ人としては意識しないまま、彼女らが動くたびに砕かれてはまたつくられるスカートのひだのうつくしさ。それこそ以前ヴァチカン美術館を訪ねた際に古代ギリシャ人を彫った彫刻の、そのキトンのドレープのあまりのうつくしさに「これが石でできているだなんて信じられない!」と思ったのをふと思い出しました。


1幕前半部分のまだフランスの田舎町に暮らしている場面からして、弟ポールへの対応からしてもう新妻さん演じるそのカミーユのはねっかえりぶりが一目瞭然なのですが、パリへ出ていくまで〜パリへ移住した当初くらいのクローデル一家の様子はまだ、頑固な母親の芸術への理解の無さは最初から露呈されているとしても、そんな母を宥めて子どもふたりの、特に娘の肩を持つ父のおかげか、どこにでもいる4人家族の幸せなあり様に思えて、終演後に改めて思い返すとその眩しさにため息が出るようです。
カミーユロダン二人の関係性に重きを置いて描かれたストーリーだとは思うのですが、最後までカミーユの持つ才能を認めようとしなかった、そもそもにそういった芸術を忌み嫌っていた母とカミーユの確執、カミーユの才能を見出しあたたかく応援し支えようとした父とカミーユの関係、ふたつの対比もはっきりとしていたなと。カミーユが「女性の個展などありえない!」と芸術家協会から願いを取り下げられ意気消沈している際に(「女だからだめだ!」という当時の世相、真実を反映しているとはいえ、あの歌詞を生の歌声として耳にした際の衝撃たるや)あの、娘を慰めようと「外で猫が鳴いているよ、連れてこよう」とやさしく声をかけるクローデル氏の姿は、降りしきる雪の視覚的効果と反するようになんともいえずあたたかくなるような思いで見ていたので、そんな数少ない、最大の理解者である父の死に立ち会えずにカミーユが取り乱す場面では、ただただ胸が詰まるようでした。

かなさんはこのころの無邪気な姉に振り回されて少々とばっちりを受ける、けれど姉の事が大好きな様子が端々に見える少年ポールから、姉を弔った後にロダン美術館に彼女の作品を展示する際の老紳士姿まで、全く違和感なく演じられていたなあと思ったのですが、ストーリー中で、冒頭にも記した「天使の園」が挿入される箇所の、メロディの多幸感と相反する様といったら。歌われている内容は確かに祝福に満ちていることに変わりはないのですけれど、歌詞の内容を呼び掛けられている側と歌い手側の相いれなさ、といったほうが正しいのでしょうか。カソリックで熱心な信仰者のポールにとって、姉の、内縁とはいえ、妻ある男との不倫、そして身ごもった子どもを堕胎するという行為は、もう決して許し難いものでしょうし、そんな姉でも愛おしい存在であることに変わりはないから改心すれば姉さんも救われるんだ、と疑わない気持ちも彼の立場になってみれば納得がゆくものなのですが、それでも姉と自分自身が信じるところの隔たりを彼は理解していなかったのだろうなと。それゆえの「天使の園」であり、だからこそあの内容を切々と説くポールに感じてしまうかなしさ。ふたりとも互いの事を大事に思っていない筈がないのに。ポールからカミーユに向けられる執着心が露わなのはいうまでもなく、カミーユからポールに向けられるそれも幼少期の仲の良い様子だけでなく、ちょっとしたスキンシップからもわかるものなのですが、それでも懸命に歌い語りかける弟の頬をやさしく叩きながら交わす、彼女のやさしいけれどきっぱりとした意志から出た拒絶にふたりの相いれなさを強く感じました。どちらが悪いなどという話ではもちろんなく、信条が異なろうと互いに理解し通じ合える関係性もないわけではないだろうに、それでもそれぞれの軸となる部分の譲れなさからくる差異は、物理的な距離ではなくおそろしく隔たった道を歩くより他なくさせてしまうのだろうなと。ポールとカミーユを繋いでいたのもある意味で芸術で、そして生きている限り切り離せない「血」というもの。ポールにとって「至福のキスをくれた」天使はカミーユそのひとではないかとも少し思ってしまいました。

放り投げるのはよくないのですけれど、新妻さんと石丸さんおふたりの歌声のうつくしさをあらゆる意味でど素人の私の持つ言葉で讃えられようものか…と後じさりしてしまうので、順序を間違えてしまった気がしつつ、お歌というのではなくカミーユロダンについて触れたいです。
男だからとか女だからとかそういうことにとらわれるということについて、とてもとても考えてしまうたちなのでカミーユロダンの関係性であるとか、ロダンの女性への扱いであるとか、価値観を否定するなと怒り、僕のミューズと讃え、離れてゆけば罵り、懇願し帰ってくれば喜び、迎え入れるのかと思えば己の下に置きたがる、同じものを目指している芸術が僕たちを繋いでいるといったのと同じ口で呪詛の言葉を吐く、というこういったどうしようもなさをもつという意味で類似の文豪を片手は名前をあげられそうだし、絶対に添いたくない嫌悪感とそれを上回るか否か絶妙なラインで拮抗する魅力を放つ偉人、ってどの国でもどうもこうして、と頭を抱えたのですが、あまりにそこを抉るときっと穿ち過ぎだし無粋だと言われてしまうのでしょうね。しかし”そういった役”を演じられている石丸さんのロダンは、癇に障るほどに強欲で我儘で魅力的でした。カミーユというあの我の強い、自信に満ち満ちかつそれを裏付けするような「天才」を持った、それこそひどく魅力的な彼女が惹かれる相手としては疑いの余地もなかったです。「芸術が僕たちを繋いでいる」と言いながら肉体関係を持ち、けれどカミーユに子を持つことを許さず、そして内縁の妻とも別れずその為にカミーユと結婚もせず、というロダンのどっちつかずさは理解したくなくとも、ただそういうひとが遠い存在として”そこにいる”ことについては受け入れざるを得ない。
カミーユに去られた際のロダンの彼女や己に向けられた呪詛とも捉えられる「震える男」はほんとうにどうしようもないながらも、石丸さんの声で歌われるからこその説得力。ミュージカルのうつくしいメロディで、うつくしい声を持つ人によって歌われてしまえば呪いの言葉さえも人の心を揺り動かすのだなと。ふとジャベールのミミズうじ虫を思いました。
新妻さんのカミーユは冒頭の家族内での立ち位置、パリにこしてきたばかりの、ロダンも恐れぬ物言いをする際のはねっかえりぶりが胸がすくように気持ちよく、まっすぐさ、強さを感じさせる様子だったので、そんな彼女がロダンと恋愛関係に陥ってから作品を作らなくなるようになり、彼のもとを去ってどんどんと落ちぶれていく様は目を覆いたくなるようでした。それでもロダンの援助を受けない、毅然とした態度から感じさせる矜持、生活が立ちゆかないレベルで苦しくとも、弟の助けに手をのばしても「これで大理石が買えるわ…!」とあくまでも作品を作り続ける、そちらが第一の、軸を一本貫く姿勢は、たとえ外見はどんなに変わろうとも彼女の譲らないところなのだろうなと。そこを受けての最後に歌われる「GOLD」は胸にしみいるよう、というよりも全身で受け取らねばならない歌のようで、それはあの曲自体の素晴らしさもさることながら「新妻さん演じるカミーユ」が歌ったからこそのものなのだと思います。
こちらの公演レポいちばん最後に記されている、新妻さんからのメッセージ部分を観劇後改めて読んで得心したような気分になったので、URLを記載させていただいたく。
http://omoshii.com/interview/1247/
実存するカミーユロダンふたりの心の機微などほんとうのところはわからないですし、史実のふたりとポールのことについて知りたくはなったけど、それはそれ、これはこれでここで描かれた人物の姿と捉えた際に、新妻さんのカミーユは、史実とはまた別の「もうひとりのカミーユ」として舞台の上のフランスの田舎町で、パリで、ブリュッセルの個展で、人々の目を魅了していたのだと。

ロダンにとってカミーユが単なる芸術のアイデアを与えてくれるミューズであるならまだしも、彼は同時にカミーユを「女」として求めてしまったし、アトリエでカミーユの膝に当然のように頭を乗せるロダンは彼女に、母親としてのすべてを受け容れる愛を求めているようにも感じたし(自分の子をなす存在ではなく、「自分の母」としての)、ひとときは「自分の所有物」であった彼女にそれぞれを同時に求めることは彼の中では矛盾はなかったのだろうけれど(戻ってこいといったんは言いつつも、それが叶わぬと知れば彼女の才能を支援したいと、方々に援助するよう手紙を送りつつ、という一見筋が通らぬようで通る行動をとるのは人間味、と呼ぶべきなのか)、当然カミーユにとっては我慢ならないものだったでしょうから、芸術以外のものが絡んできてしまったからこそ、ああいった結果になってしまったのだとは思います。二人を繋ぐものが芸術”のみ”、と言い切られればそれは詭弁だ、と言わざるを得ないです。ifは潔くないとしても、だからといって「芸術のみ」であれば彼らがうまくいったかといえばそうではないかと。ロダンカミーユ、二人を繋ぐ一番に大きい存在が芸術である限り、やはり寄り添って並び立つ形での愛の成立はもう最初から不可能なことだったのだろうなと思います。


もう一度観たらなにか発見が、と思いながらも年末スケジュールのタイトさに、はたしてその余裕はあるのか…