TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『ダディ・ロング・レッグズ』

2014年の感想
http://d.hatena.ne.jp/trois_reve/touch/201403



2017年版を観て、現段階で感じたこと。

ジルーシャの好きなところ。わからない、知りたいという好奇心、想像力を握りしめ、世の中に「?」をぶすぶすと突き刺し切り取るさま。日常の困難に立ち向かっていく精神力。
出会う物事すべてを吸収しながら、自分をどんどんと獲得していく「激しくて愛嬌のある生き物」女の子相手に、気むずかし屋で、本当の自分を押し殺すことが処世術と世間を斜めに見ていた男が魅了され、最終的にまるはだかになった心で愛を乞う。
茨木のり子の『汲む』を思い出す。大人になるというのはすれっからしになることだと思い込んでいた少女の頃…からはじまるあの詩)

再々演から今回の上演までの間にかなりCDを聞き込んでいたから、変更点以外で目新しく思うことはないかなと思っていた。観劇した今は、この作品の(変わらず)好きなところ、素敵なところって歌はもちろんだけど、音源に残っていない台詞、表情のついた芝居によるところがとても大きかったんだと思い直している。心の映写機がかたかた回るような場面の連続。「観劇」の醍醐味に今更気づくなんて大ばかだ。変わってしまったところにへえ!と驚きながら一方でしゅんとし、変わらない部分には初めて観たときみたいにじんとする。

「しゅん」の内訳
A. 好きなものが「変わらない」でいてほしい自分の思い入れの押しつけ。

B.ジャーヴィスの変化(ジャーヴィスがダディとしてジルーシャの手紙を読み上げ歌う曲の一部削除、彼の視点の追加による)
ダディとしての思いをストレートに現す言葉や歌は抑えめに、でもジルーシャの手紙を読み上げるジャーヴィスの声の抑揚や表情によって彼女への気持ちがじわじわと伝わる、あるいはあまり描かれずに観客の想像力に委ねられていた部分が、具体的な台詞、歌詞の追加・歌の差し替え(様変わりした曲調)によって、その感情の振れ幅がより客席に届きやすくなったように感じた。ジャーヴィーぼっちゃまがジルーシャの手紙に揺さぶられる姿のなさけなさ、彼の「実年齢の殻に隠れた」心のやわらかさがより露わになっている。輪郭がくっきりするのとだめだめ度上昇は比例。観劇中は彼のジルーシャへの一挙一動のぶきっちょさに(ほんとうにばかなジャーヴィス!(ダディ!)と愛おしさゆえの悪態(脳内にて)をつくのに忙しかった。でも、「あなたに愛を贈ります」直後の曲で前回まで描かれていた、紙に書かれた文学だけに真の価値を見出す、こじらせ文学少年を内包したまま大人になったような彼の愛すべき意固地さが薄まって、「愛」ということばに動揺するさまがよりわかりやすい歌詞、アップテンポな曲調になったこと。それからあくまでジルーシャの手紙の内容だったニューヨークの歌が、ジャーヴィスの視点が盛り込まれていたこと。彼が自分のホームを案内し、案内されたジルーシャが街の様子に感動・動揺(ちょっと大きすぎやしません?!)する歌になったことで、ジャーヴィーぼっちゃまの本来の性質がわりと早い段階でオープンになってしまっているきらいはあると思う。
口の端をちょっとだけ上げる最高におかしい含み笑い、みためは完璧にペンドルトン家の人間なのに、打ち解けて話しているうちに少年のようなところをジルーシャに垣間見せてしまう。見せてしまったことに動揺して「実年齢の殻にこもってしまう」ぶきっちょさが彼の芯で、そういう頑なな雰囲気がやや薄れてしまった感じがするのが気に掛かる。でもいままで明確に描かれていなかった部分が描かれたのであって、それは彼の本質をねじ曲げるものとも言い切れないのかもしれない。そんなに開示してくれなくてもこっちで想像しますので!という豊かな余白が少し狭まったのは確かなんだけど。曖昧さ、「わからない」部分は書き込みの薄さでなくあえてのこと、観客への信頼、想像の余地だと思っていたので。
一人芝居でない時点で、原作の「地の文も一人称の手紙」のみでの進行を貫くことは難しいし、する必要もない。表現方法を変えて、でも大事なエッセンスを逃さないやり方があることを私たちは知っている。ジルーシャ固定視点を崩せば、他の舞台と同様、主人公が知り得ないことを観客が知っているということはふつうにあり得る。その配分あってこそのミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ」ですし。私たちに見えているジャーヴィスがイコールジルーシャが知っているジャーヴィスでなくてもいい、ということ。でもジルーシャの手紙を通した、彼女の目で見える範囲のジャーヴィス、想像を膨らませるダディという形式を愛していたからこそ、バランスが絶妙だった(と感じていた)以前までの演出を崩さずにいてほしかったというのも事実。
加えて、そのことによってジャーヴィスのもやもや内訳の「恋敵(ジミー)への嫉妬」パーセンテージが増しているように思えること。ダディとして私がジャーヴィスだというべきか、ジャーヴィスとして私がダディだというべきか、という台詞があるように、ジャーヴィス自身もどちらの立場で物事を考え、彼女に接せばいいのか、どんどん混乱していくところがある。2014年の観劇で、最後の場面の「嫉妬していた 誰だかわかるか」という問いかけの正解は、ジルーシャのいう「どうしてジミー・マクブライドなんかと!」だけじゃない、ジャーヴィスとして、「ジルーシャの絶対的信頼を得ているダディ」に嫉妬していた部分もあるのでは?という友達の鋭い指摘をきいてはっとしたけど、今回は「ジャーヴィスが頼んでもダディでも聞く耳を持たない……ジミーがいるから〜〜〜!(悲痛な叫び)」と固有名詞が追加されたことによって、対象がばしっと明示されてしまった。
ジミーという名前はジルーシャの手紙のなかの登場人物として読み上げることはあっても、ジャーヴィス自身の言葉として口に出されることは前回まで確かなかったはず(うろおぼえにつき…)。まあ名前を出さずとも(嫉妬対象の)第一候補はジミーだというヒント?はたくさん転がっているので、ここで露骨に名前を出してしまうのはちょっとジャーヴィスというひとの男としての動揺がわかりやすすぎる、蛇足かなと思う。ほんの些細なことだけども。男として、といえば卒業式の場面も「ここにいる、ここにいる、(なぜか初見後の思い出しで「ぼくを見て!」だと思っていた。意味としてはわりとぶれていないのか)」とあまりにもジャーヴィス個人の思いを素直に叫ぶ姿には、ジルーシャが誰に一番来て欲しいかもっと考えたらどうだ!?と肩を掴んで揺さぶりたくなった。ジルーシャが作家になったことをダディに報告する手紙への反応も、「ダディ」に誇らしく思って欲しい彼女の気持ちを知ったことがなぜ「ジャーヴィス」としてプロポーズする後押しになるの!?とはき違えぶりに情けないやらいとおしいやらがっくりする。一人二役をつとめる彼のしんどさについて、思いの馳せ方が足りなかったのかもとも思いつつも。等身大の青年ぶり。誰かに見られていないときのなりふりかまわなさってこんなものか?と思えば、彼の性格上のぞき見られるなんて耐えがたい場面の連続だろうな……という謎の同情心もわいてくる。
しかし前回から変わらずの二度目のプロポーズ、胸につかえたものを全部はき出すような愛の告白。椅子に座った自分より視線が低いジルーシャへ、執務室の机に手をついて、叱られた子どもみたいな彼女の機嫌を伺う上目遣い。最後の最後に、差しだした手を握り返され、目線を合わせてもらえる。ジルーシャの手が上から被されて、これは本当のことかとおずおず視線を落とすときの、終始自分が手に入れたものへの自信なさげな態度。二人の間に分かち合うものが愛しかないとき……と胸がじんじんとする瞬間をまた目撃してしまった。心がたわむのは二人の愛の重みゆえだ!

C. Bの追加によって削られたもの
ジャーヴィスというひとの輪郭をくっきりさせる、感情表現をより豊かにするために削られたとおぼしきジルーシャパートへの思い入れから、ジルーシャ独特の感性が光る表現や、彼女が「世界から与えられていない」ことに気づく些細な出来事にしゅんとする場面が少し削られたことがさみしい。たとえばニューヨークの歌、ダディ視点が入ることによって値段を確認せずに帽子を買えるジュリアの裕福さをうらやんだり、使うナイフを間違えたことを恥じる歌詞がなくなってしまったこと。(待っているのではなく)ダディを迎えに行く、と口にする歌詞も。でも彼女のそうした資質は他の場面で十分に表現されている、損なわれていないように感じたので、ジルーシャの芯は一本ぴしりと通っているとは思う。

今まで誰からも目をかけてもらうことがなかった「わたし」に興味を持ってくれた人、その人のことが知りたい、名前や顔、瞳の色、その人にわたしを誇りに思って欲しい、という強い感情が彼女を突き動かしたということ。ジャーヴィスが与えたものは当たり前だけど、やっぱりお金だけじゃない。自分以外の誰かが自分を気にかけている、という一本の糸が垂れてきて、懸命にのぼったのは彼女だけど、糸を垂らしたのも発奮させたのもやっぱり彼だ。どちらが欠けても成り立たなかった。それでも施された側の感謝は高い壁を作って、それを乗り越えるのは作った側にしかできない。という構造のやりきれなさ、たまらなさ。

ダディへの愛とジャーヴィスへの愛はもちろんぴったり一緒ではなくて、そのふたつを注ぐ対象がこの世にたった一人、同じ人だったとわかったとき、ある意味大きな失恋(恋?ではないか)と愛の成就を同時に味わったことになったんじゃないのか。ふたつが溶け合う部分ももちろんありつつも。
問題はジミーではなく、ジョングリアホームと伝えるのは恐ろしいことではないですか?と唇を震わせるジルーシャの、ジャーヴィスを思うばかりではない、卑屈さからの固辞ではない、彼女のプライドを示す言葉もとてもとても好きだ。
ジルーシャがうちまくる金言は、道徳的なものももちろん素晴らしいけど「その物質的雰囲気に押しつぶされそう」とか、誰かへ放たれる皮肉においても、むしろ、そういったときのほうがより生き生きして見える気がする。悪い子でいるほうの楽しさ。



好きな台詞覚え書き

ブロンテ姉妹には魅了させられます。
想像力は手立てになります。
彼らを動かすのは義務ではない、いつだって、愛なのよ。
あなたは我慢しなくてはならないのよ。誰だって、クリスマスには誰かを愛さずにはいられないものですもの。
ダディ、ひどい、ひどい、ひどいお知らせです。世界は雪の重さにたわんでいます。私の心は悲しみにたわんでいます。
滝に身を打たせつつ!
その物質的雰囲気に押しつぶされそうです。
完璧にやな日!来る日も来る日も意味のない会話
でも頂上まで登ると、すこし、息が切れます(ふぅー)
あなたからの返事をもらうための手は尽くした
僕を見て!(ここにいる、ここにいる、だった)
一緒にいるときは幸せで、離れているときはさみしいなら
彼がいない世界はいたましいわ
原稿を散歩に連れ出しました。たったひとりの我が子を火葬にした気分だったわ!
あなたが想像するような賢明な人間ではないのです。