TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組『ファントム』初日を観て

思い入れ分の書き連ねの多い文、時々見たものの感想。

 

 

 

演者に入れ込んでしまったファンにとって「宝塚」の物語構造はやっかいだ。

ファントムならば、クリスティーヌからエリックに歌い継ぐHomeを聞いたときに大きく動く心は、舞台上で起こっていることだけでなく、同時に、演じている中の人たちの思いを二重写しに感じ取って揺れている。演者がその役として生きていようとお構いなしにかってに記憶がひっぱりだされてしまう。

クリスティーヌの、夢が叶いかける喜びをいっぱいに溢れさせた歌声が、オペラ座の地下でファントムとして生きてきたエリックのもとに、流れ星のように降ってくるとき、その声がどんな思いを呼び起こさせたか。驚きと歓喜、とまどいがじわじわと伝わるのと同時に、スカイステージの番組内で望海さんやきほちゃんがその役を演じたいと口にしたときのことや、花組時代にふたりがその曲をデュエットしたことを思い出す。夢が叶う人たちを見ることで夢を叶える私たち。

舞台上のひとたちの思いとその人たちを見て夢が叶ったお裾分けをもらう客席のひとたちの思い、劇場内を占める気持ちの重たさで、舞台、客席両方の床が抜け落ちてしまうのではと思った初日の記録です。

 


前述の物語構造に完全に翻弄されることに抵抗しつつ、一方で、もうそんなの抗っても仕方がないじゃないか、と思ってしまってもいる。結局危惧しているのは、舞台上で役として生きているひとたちを見ながら舞台の上にのっていない情報をひっ被せて、気持ちを増幅させなが見てしまうことへのかってな後ろめたさだ。でも宝塚ではそれって推奨されてるし、もう知っていることを知らないふりして見ることはどうがんばっても無理。だからこの物語をまっさらな頭で見ることは一生できないんだけど、じゃあ演じている中のひとを常に意識しながら舞台を見ているかというとそういうわけでもないので、結局ふいにあらわれる記憶と絡みついてる思い入れをうまく飼い慣らしていくバランス感覚なんだと思う(ややこしくしている)。再演ものにはやっぱりいろんな意味でおばけが棲んでるんじゃないかなと思いながら(ファントムとかけているわけではない)そんなの当たり前なんだけど、客観性がない、ということを自覚しながら観劇をしたい。

 

観劇前に友人にこれくらいの時期のトップスターさんを満足させたらダメだって話を聞かされていた。理由は推して知るべしとしか書けないけど、でも幕が上がって展開されている光景を目にしたらその熱量や凄み、全身全霊を注いでいるさまにこんなの演じてる人も観たひとも満足してしまうわ、といま自分自身がものすごく充実した気持ちだと自覚したら、ひとところに一生はとどめ置けないたくさんのものがしのばれてならなくて目から水分がたくさん出た。こういう身を切られるような思いの連続が積み重なって振り返ったときにまぶしい思い出になるのだと知ってはいるので、ただしゅくしゅくとメモをとり続けるほかはないのですが。

 

 

 

-----ここから本編感想-----

 

 

 

重ためなことを人払いの置き石のように書いた上で記憶を掘り起こす。
母の愛を好きになった女性に見出すのって、ほかの作品だったらかなりきびしい目で見てしまうし受け入れがたいなと思う。でもエリックが知っている、誰かを慕う気持ちの種類が生きてきた環境によってかなり限定されているのがわかるので、自分の中のコードにギリギリで触れていない感(母の愛は我が子が生まれ出でた瞬間から全てをいつくしみ許すもので、父はあとから受け入れるもの、というテンプレートが織り込まれている話とは思いたくない)。

そしてそれはもちろん望海さんのエリックというひとのつくり方もある。制作発表時の髪型をみたときは、前髪アップの秀でたおでこがあらわなおとなっぽいおねえさん…ですね…?!とどきっとしたけれど、本番は仮面でおでこがほとんど隠れているという見た目だけでなく、台詞や振る舞いのいとけない様子に年齢がぐっと下がって見えた。切れ長の目で鼻筋も通った、おとなっぽい、大人の男の役が似合う顔立ちの人だと思うのに、たよりなげな顔や、こちらの庇護欲をそそる表情をひんぱんに出してくる人でもあるから不思議だ。そもそもの役どころとして、見た目年齢と精神年齢が乖離していそうなアンバランスさがいいのかも。


眠っているクリスティーヌの頬にキスしたあと、両手を目の前に掲げて(いまぼくはなにを…?!)(これがひとのぬくもり…)みたいにぶるぶるしているエリックの、かってにしたくせに初めてのことに動揺してる様子がいじらしいのとあやういのとでたまらない場面も、その一例だと思った。ベッドに恐る恐る近寄ってゆく念のこもった背中と、隣にある肖像画という構図。そもそも合意なしに眠ってる人にそういうことするのやめて怖いよ ! (それ以前に誘拐しているが)と思う冷静さはあったけど、一般的な宝塚の男役が強引にするキスと違ってなにもかも経験値の不足さが先立っているように描かれているのと、それでもやっぱり情状酌量の余地があるのかわからないいびつな光景に行為のありなしをジャッジする段階を横に置いて、ぐっと引き寄せられてしまう。また、オペラ座の怪人と違って、こちらのファントムがクリスティーヌに注ぐ思いは男女の肉欲を含む恋愛としては描かれていない。ひととのふれあいに乏しいまま成長したエリックの精神年齢に合わせてか、むしろ通常の宝塚と比べてもすすんでいない淡い恋程度の描かれ方だから、行為のマッチョさが薄くて受け止められるってのはある。

ある人の初々しいさまを毎日演じるけど、それを伝える技術は初々しいどころかむしろ手練れ、しかし初々しさはいま自然に沸き起こったもののように見える。そういうことを体現できる人をみながら、毎回こんなにも新鮮に驚いてしまう。

エリックを演じているのがマクシムと同じ人なのはわかるけど、ボリスさんと同じ人なのは振れ幅がでかすぎて驚きしかない。私が生で見られた演目内ではのぞみ村の末っ子の座まったなしの役どころだと思う (げんちゃん幼少期を除く) 。


エリックかわいいエピソード(?)のひとつとして、生き延びるために必要な仕掛けなのはわかってるのだけど、キャリエール解任・新支配人への交代に際しての「そいつは幽霊を信じるかな?」「いや、信じないだろう」「それじゃぼくは〜」みたいなやりとりをしてる親子の姿が「ゆうれい」ってことばの響きもあってか、ちょっと世間ずれしたぽやんとした話をしているようで、やってることはかわいくないのにかわいく思えてしまうアンバランスさ(もしかしたら脚本段階の台詞チョイスのうまくなさかもしれない可能性は横に置いておく)。


そんなエリックに対峙するさきちゃん演じるキャリエールもとてもすてきで好きなキャリエールだった(といってもほかのキャリエールのことを知らないので比較してではない)。すてきなおじさま風で、でもかっこよさだけじゃなく慈しみ深さも備えているようなたたずまい。過去の思い出話を聞かされても、もちろん彼だって利己的なところもある人間なんだよなと知りつつ、カソリックだったら仕方ないよね(うんうん)と、ベラドーヴァとのあれこれも納得させられてしまうような。

過去の映像で、象徴的な場面や銀橋でのやりとりをピンポイントで見てしまったせいか、えっここでこの二人で歌を歌うことはほんとうにいい父と息子の場面になるのか…?あんまり理解できてなかったのが、今回初めてこの演目をなまで観てふたりのやりとりがすとんとおちてきた。映像に私が集中し切れていなかったせいで、過去に演じられていた方がどうこうではないと思うのだけど、通しで逃れられない空間で見るのはやっぱり全然違うなと。この場面に来るまでのやりとりで、キャリエールがエリックへの態度ににじませていた情のようなものが少しずつ漏れ出ててもう十分に伝わっていたから、ふたりともお互い薄々感づいていた思いを再度確かめ合うような、本当に寝耳に水の衝撃の告白ではなく、親子の両片思いが判明する場面だったのか、と思いながら見た。

完璧な親子像なんて幻想なんだろうから、第三者から見たらいびつかもしれないけれど、お互いが最後に理解し合えていると確認できたことはひとつの幸せのかたちだったのかもしれない。子どもに責任を持つということの範囲について悩みつつ、見ていると彼らの選択を選択としてただ受け止められるような、ふたりの間にたしかな信頼関係が築かれているんだなと思えた。


エリックを愛すことは彼の傷を見ることとキャリエールはいうけれど、誰かを愛して受け入れることはその人のすべてを知り尽くすことじゃないし、隠しておきたいことは隠しておくべきときもあると思う。でもエリックは見ないでと言いつつ知って受け入れて欲しかったひとだから、キャリエールのことばはエリックを理解しているあかしであるとともに、彼を愛するという人に覚悟を問うことばでもある。

キャリエールとのやりとりで、彼女が逃げたことをエリックが受け止めているのがわかって、深く内省するひとなのだと思える場面がある反面、愛している人やものを傷つける相手には容赦なく刃をむく残酷さ、最期の場面直前の、誘蛾灯に後先考えず引き寄せられるようなクリスティーヌへ手をのばす姿を思い出す。私はもう疑いなく受け止めてしまっているけれど、その振れ幅をシームレスなものとして見せられるかどうかが演者に委ねられている演目かもとも思った(宝塚的にいうと行間を埋める芝居)。


母の愛≒クリスティーヌの愛、母=クリスティーヌとはエリックも初めから思っていなかったとは思うけど、一度自分の顔をみたクリスティーヌが逃げることで、両者の愛の形は違うものと作り手が観客に示す意味もあったのだろうか。

ベラドーヴァが母の無償の愛でエリックのことを美しいと思っていたというふうに見せたいのか、人間としての徳の高さか、いや薬草が頭をくるわせていたからと思わせたいのか、薬草エピソードがどれくらいの伏線かあんまりピンときてないんだけど、彼女の精神がどうであれベラドーヴァの愛を糧にエリックが生きのびられた事実はあって、でもやっぱりキャリエールという父の存在もなくてはならないものだった、とそれぞれの発する愛を否定も肯定もせず、受け止めた側がどう動いたかで見ればいいのかなとも思う。

 

望海さんのエリックが、ひそやかに歌う時も激しい時もあんまりにも心のひだの震えが露わになっている声だったから、ミュージカルの楽曲って歌詞だけじゃなく、音符の連なりそのものに意味が込められていて、それを歌って起すこと自体がその役を舞台上で表現することなんだなと、考えるのでなく身体にズドンと打ち込まれて倒れ伏したい気持ち。極端な話、こんなにメロディに気持ちを乗せられる歌声ならば、自分が完全には理解できない言語で歌われても、ことばの意味を理解できたのと同じくらいの重みで受け止められるのでは、なんてことまで考えてしまう。

 

 

フィナーレで銀橋でメロディアレンジverを歌いながらウインク流してた人はさっきまで本当にエリックだったのか?!とか、男役群舞が手首を意識してアクセントをおく系の小粋でチャラ方遊び心ある男役です(ウインク)みたいな振付ですごくすごくすごく好きで好きだった話もしたいと思いつつ……