TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』

ポーの一族を観てきました。

 

原作ファン観点から、この演出家はなぜこの作品を自分の手で舞台化できると思ったの…?と目の前が真っ暗になるような光景が次々と目の前で展開されて憤死しそうになったけれど、私は幸いなことにヅカヲタでもあったので、フィナーレで息を吹き返しました。そしてポーの演出家の一本もののフィナーレ男役群舞で宝塚に落ちた記憶を思い出してしまった(過去記事オーシャンズ11参照)。
ヅカヲタであるがゆえに舞台化したものを観たいという欲求を抑えることができず、しかしヅカヲタであることによって同時に救われた観劇でもあった。

 

という調子の感想です。ツボだった場面ももちろんいくつかあったけれど、大半はなぜこういう演出・キャラ改変をしたの?という恨み節でいきます。開演前、隣席のヅカヲタ古参ふうの方がお友だちと、シメさんやりかちゃんのあれも全部これ(ポー)のためだったのよ、と諦念か期待か曖昧なニュアンスで会話をしていて感想がとても気になったけど、幕間はそちらの反応を伺うどころではなかったことをいまさら思い出している。

 

宝塚版・ポーの一族の演出を手がけた人は、既存の固定観念、家族観(家制度)や恋愛観(男女限定のそれ、ロマンチック・ラブ・イデオロギー)を疑うことなく生きている、その枠のなかで作品をつくろうとする、そして観客の想像力を信用せずに、すべてを言葉や演出で語ろうとする人だ、というのが過去のオリジナル作品や演出のみの海外ミュージカル作品を観てきたうえでの認識です。でもよりによって同じ手法を、萩尾先生のような既存の価値観を疑って揺さぶって崩すことで作品を生み出し続けている、読み手の想像力を信用し、引き出す作家の、その作品内で展開してしまうことにとても驚いてしまった。原作に寄り添って演出を考えるのではなく、自分のいつもの得手をつかってメスを入れることで、作品の世界観が損なわれてしまう危険性を、この人はまったく理解していないのだなと思った。ゆきちゃんをシーラに据えることが決まったときや(トップコンビの関係性を推したいヅカオタとしては悲しかったけど)、公開されたポスターにエドガーアランが並び立っているのを目にしたときは、いままでつくってきた一大スペクタクルものとはまた別のコンセプトでいくのかな?と一瞬期待はしていたのに。
演出の合わなかった部分を「宝塚化だから仕方ない」と諦めている、宝塚をあまり観ない方、初めて観る方の感想をちらほら見かけては、あれは宝塚化じゃなくて小池化であって、もっと奥行きがある世界観、宝塚であっても男女の愛一種類だけではない、恋愛だけではない、人と人とが交わす感情の深い描き方、見せ方をする作家はいるんですよ、宝塚にも…!と画面の前で届かない声で叫んでいる。舞台化する上で仕方がない改変ももちろんあるとは思うけれど、それ以前のところで、こういうふうに設定を捻じ曲げるなら、なぜ原作がポーの一族である必要があった?うつくしい姿の吸血鬼ものなら、同演出家は過去にオリジナルで数作上演しているでしょう?時満ちるまで何十年もぼんやり過ごしていただけですか?  各紙の公演評が絶賛の嵐なのをみなくても、みりおさんのエドガーのビジュアルについてはもう全幅の信頼を置いていたし、実際途方もなく美しかったけど、でも演者のビジュアル力に頼りすぎていませんか?

 

観劇前に5巻全部と春の夢を一巡後、再度「ポーの村」~「グレンスミスの日記」を読み返しました。ポーの一族は、エドガーやアラン、パンパネラ視点の物語もあれば、彼らに焦がれる人間側の物語もある。実際にポーとして長い時をすごしている側からしたら、有限の時を生きる人間からは計り知れないほどの苦悩があると思う、思うのだけど、父の日記として断片的にポーの存在を知った少女が、人生の劇的な節目節目で彼らや村のことを思って「この世界のどこかに許される場所があるという」(by金色の砂漠)みたいに、 もの思いにふけり、涙する、そういう人間の立場からみた、彼らの実態とはかけ離れた捉え方をされる、アルカディアの住人のような憧れをそそがれる存在としてのポーにも、やっぱりグッとくるなあと原点に立ち返った再読だった。エドガー視点の話ももちろん大好きだけれど、特に好きな話をあげろといわれると、人間視点の「リデル・森の中」(「わたしは毎夜 窓を開けて眠りました」「成長を止めるには死ぬしかなく でもわたしは死ねやせず それでも 彼らがとつぜん 訪れやしないかと」「そして いつか窓を閉じたのでした」「でも時に そんな日びの中で どうしようもなくせつなく 昔のわたしが浮かんでくる」)あるいは「はるかな国の花や小鳥」(「あなたの愛 あなたの妹の愛 行き場があるのはいいわ バラをうけとってくれる人がいるのはいいわ」)をあげてしまう人間なので。

そんな思いを抱きつつ、劇場で観た宝塚版ポーの一族をむりやり咀嚼するとすれば、出版されたグレンスミスの日記を読んだ縁もゆかりもない人間が、断片的な情報をつなぎ合わせて、よくわかっていないエドガー、ポーの一族についての妄想をむくむく膨らませてつくった作品だから、劇中のバンパネラ観も彼らの想像でしかなく、それゆえにとんちんかんなことになった、ということにするしかないのだと思った。実際原作にも登場したキャラクタが、外枠の語り手として存在するストーリーの追い方になっているのは確かなのだけど、それにしたっていたるところで情緒の欠けに落胆してしまうような演出はなんなんだろう。
まあその程度の認識でよく思い入れを語れましたねバンパネラハンターさん?と首をかしげたくなる、パンパネラという存在の根底を揺るがす「消滅」についての改変、大老ポーの出張り方から見える「一族」の認識、人間の家族じみた絆の推し方、愛の描き方の奥行きのなさ、霊能力者の扱い、 メリーベル像、アランの母との関係から見るトワイライト家の家族親族模様、哀しみのパンパネラ~ヒットチャートリミックス~、ほかにもたくさんの驚くような場面の連続に、観ていて思わずから笑いが出てしまった。 エドガーに「おぼえているよ魔法使い」と言われて涙をこぼすオービンになるのが、エドガーやポーの一族をどこまでも追いかけたい人間勢の本懐かと思っていたけれど、1964年フランクフルトメンバー・バイク4世らの台詞を考えると、演出家の人のポーの一族エドガーへの想いってそういうねちっこさもない、たぶんかなり明るいもののようだ。原作内で描かれていた、人間側からポーの一族に向けられる憧れややっかみ、じりじりと焦がれるような眼差しがまるで登場してこない。この宝塚版において一番濃く描かれている、人間からパンパネラに向けられた感情は恐れのように思えた。本作用に抜き取ったエピソードでは人間側の事情はそこまで描かなくていい?パンパネラたちに焦がれるのは、観ている観客だけでいい? でもそのまなざしをそそぐことに専念するには、現実にはっと引き戻されるような場面があまりに多い。みりおさんのエドガーやゆきちゃんのシーラのうつくしさだけでは、心を全部さらわれることはできなかった。
その一例として、とにかく明るくエドガーやポーの一族を追いかけている、1964年フランクフルトメンバーのドン・マーシャルが、物語の終盤で口にしていた説明台詞「家族が消滅したエドガーと、家庭が崩壊したアラン。理解し合えたんじゃないのか?」その、"登場人物の行動理由に理解が及ばない観客に、あまりにも親切なことば"から推測されるのは、先ほども言及したように、演出家が観客の想像力をまったく信用していないということだ。いままでじぶんが見せてきた光景をすべてまとめたことば、こういうふうに現代人にも伝わるよう一般化して懇切丁寧に説明すれば観客はアランに心を寄せられるし、 アランを媒介にしてエドガーにも感情移入できますよね?という作り手のしたり顔が浮かんでくるような台詞。ひいては役者の表現力への不信、自分自身が構築した場面が物語るものへの自信のなさを露わにしてしまってはいませんか。物語の根幹をなす重要人物ふたりの関係性を台詞で語らせる野暮さに加え、そもそもそんなに簡単にまとめられるような単純な話でもないのですが……とすさまじく脱力した場面。その場面の1964年メンバー、特に中心であるバイク4世の、よぉ~し、これからもエドガーたちを追っかけてくぞ~~~!(なぜなら彼ら不死だからのんびり追っかけてもへいき!ライフワークにしよ!間に自分の人生もエンジョイ!)みたいなノリの明るさに、オービンなんか人生を棒にふってるんですけども…?!と膝の上でかたくこぶしを握りしめた。

上記の場面以外にも、具体的にどんな演出・原作エピソードやキャラクタの改変にびっくり・がっかりしたかをこれから書きたい。

 

▼この世界におけるバンパネラの認識全般
①どうやってバンパネラになるか
この演出家は、人がパンパネラになるときに、本人がパンパネラになるぞ!という意思が必須というルールで話を展開させている。そこを明確に描かなければ!という確固たる意思を感じる。でも、エドガーがバンパネラになった経緯がむりやりだったのはもちろんのこと、アランの意思は原作ではぼかして描写されている。そこがあの「ぼくはいくけど…」「どこ…へ」「遠くへ」「きみはどうする?…くるかい?」の情感に結びつくのに、なんで宝塚版ではかなり早い段階でエドガーからアランにパンパネラであることを告白させるんだろう。そして一族になじめない存在であるエドガーがアランを連れ去る際に「ポーの一族に加わるんだ」なんて言うだろうか。彼が自分のことに絡めて「一族」や「バンパネラ」と口にするとき、そこにはかなりの割合で自嘲的なニュアンスが含まれている。でもこの場面の彼には、そうした皮肉まじりのことばはそぐわないように思う。その誘いに「行くよ。未練はない」とアランは口にするだろうか。この台詞はホテルにきたアランを仲間にひきいれようとするエドガーに対してのメリーベルの「この人まだ未練があるわ」へのこたえなのだろうけど、前述のふたつの台詞を書いたときに演出家の頭には絶対「死は逃げ場ではない」(エリザベートのトート)があったんだろうな、ということが透けて見えた。自分が手掛けたエリザベートで描いている「死」の解釈がこちらにも流用できる?と思いついちゃったのかもしれないけど、「霊魂」という概念がないバンパネラに当てはめるって、かなり考えなしではないか。その考えなしの帳尻を合わせるためにか、なんとこの宝塚版のバンパネラは、消滅しても霊魂は残って、あの世にただよっているようなのです(!)
霊魂の話は後々書くとして、シシィとトートの関係性のごとき、バンパネラに選ばれた/選んだ、という構図を前述の台詞や場面挿入によってくっきりさせることは、大老ポーの出番数や、ひいては「ポーの一族」という集団のあり方自体にも関わってきます。 

 

ポーの一族という集団の在り方
ポーの一族に加わる時に、一族の合意が必要というのは確かだけれど(アランやメリーベルは、だからイレギュラーな存在だ)「一番」偉いバンパネラの承認を受ける必要がある、という描写は原作にどこにもない。本来、エドガーの儀式の段階で初めて起き上がってくる大老ポーがシーラの儀式の段階で出てきてしまったのも、物語の速巻き効果に加え、演出家が思う一番偉いバンパネラ大老ポーにエドガーを一族の後継者、選ばれし者と認識させる、という場面を作りたいからなのだろう。確かにポーは「一族」を名乗っている集団だ。「一族のいい血をふやす」ことについては大老ポーも口にしてはいる。けれどそんなふうに「一番偉い」社長がいて、上長の承認を取り付けなければなにもできないヒラ社員がいて、社員を集めるために採用活動をして、みたいな規則正しい企業じみたルールでは動いていない、もう少し世俗からは離れた(でも枠の縛りはあってそこからエドガーは浮いた存在である)集団であるとわたしは認識していた。なぜここで一般社会のルールに沿っているような集団にポーの一族を押し込めてしまうんだろう? エドガーが「後継者」を担うことは、トップ男役にハクをつける目的もありますか?  でもエドガーがその存在を一族から重要視されるのは、彼がもらった大老ポーの濃い血が貴重だからであって、一族の後継者として皆が彼を認識しているわけじゃない。一族郎党ずらりなオープニングにも、美しさの圧で観客を制して内容をぼやかすつもりか、エリザベートでならした腕をそのまま流用しただけではないかと思ったこと以上に、そもそもエドガーは「後継者」でないし、バンパネラにも人間にもまじわれずひとりで孤独を抱える存在なのに、彼がセンターに立って「一族」をひきいている者のように見えてしまう構図自体やめてほしいと思ってしまった。しかしもうそれは宝塚のトップスターの立ち位置全否定の話かもしれない。あくまで舞台化する上での見せ方として、エドガーの立ち位置はわかっているけれどしかたなく、と解釈できるようなエドガー像、バンパネラ像、ポーの一族が描かれていれば、振り返って「あれはあれでよかったのだ」と納得できた。しかし身構えてしまったプロローグの光景が、そのものずばりのエドガー像、バンパネラ像、ポーの一族とわかるような内容がその後展開されたので、ある意味での一貫性に肩を落とすほかなかった。
そもそも不死の一族の長に後継者をたてるのか?と考えたときに、これ以上ない大老ポーの消滅フラグが見えてしまう、信じがたいことに。最新刊「春の夢」まで出てきてめちゃくちゃ重要な役割を担ってますからね大老ポー!? 演出家がこの戯曲を前々から構想していたのだとしても、原作で生死(?)が明らかでないキャラクタを消滅させてしまうほどの理由、消滅によってなにか舞台化に素晴らしい効果を生むような流れはこの後もなかったと認識している。
大老ポーの登場前倒し理由はほかに、大事な儀式に立ち会うのはやはり男役の演じる役のつとめ、という男役を必要以上に立てる悪しき文化、専科さんの出番増やしなどの理由があると思われます)
しかしそもそも、出番を増したり劇的な場面展開に組み込めば役の存在感や威厳が増す、という認識が誤りのもとだ(この発想はこの演出家の演出すべてにいえることだけれど)。儀式に立ち会った上、メリーベルの里親まで男爵に探せと命令する大老ポーって人事部長かなにかですか? 原作の大老ポーは、つれあいの消滅後にふらりと現れる。世俗のゴタゴタなんて意に介さない、すべてを超越した佇まいの持ち主のはずなのに、「一族の危機だ」の血相を変えるさまから、スコッティの村の住人なんかに「ここはワシに任せろ!一族の血を絶やしてはならぬ!!」みたいに無駄に体を張って立ち向かって、結局消滅させられてしまう姿は、序盤ダンジョンの雑魚ボスのようだった。大老ポーの格を著しく下げていたし、大事な儀式の立会人として必ずいなければならないような重要人物をこんな簡単に失う、ポーの一族に所属する人たちのうっかりはちべえ度を物凄く上げていた。演出家としては、なにかあったときは組織のトップが責任をとる、みたいな思考なのかな?(皮肉です)きっかけとなった儀式の盗み見、エドガーは館の子どもとして敷地内に住んでいたのだから、あすこに忍び込めるのもうなずけるし不自然じゃない。でも、完全に外の人間である村の子どもがあんなに大勢忍び込んでいても儀式を続けてしまっていたポーの一族って、もしかしてうっかり太郎の集団なのだろうか? スコッティの村に今まで生息できていたのがマジで奇跡では?? (脳内でやまたいのダンスが始まりました)バンパネラ伝説を恥と思うのは村の人間ではなくて、こんなに簡単に一族郎党消滅させられたポーの一族だと思うのだが…「皆、もういなくなってしまいましたから……」(byジャー@金色の砂漠)

そしてこれは「どうやってバンパネラになるか」カテゴリの話でもあるのだけれど、一族に加わる儀式の時点では、シーラはそれがパンパネラになるということだと理解していなかったと思っている。あくまで一族に加わって、男爵との永遠の愛を手に入れるための儀式に臨んでいるという認識。「じつは…ぼくはバンパネラなんだ」「ま…あ!」「きみも…どうだい?」みたいなやりとりってじっさいとても成立が難しいと思うし、その段階で相手に逃げられたらおしまいだし、皆そのものずばりのスカウトちっくな話は交わしていないと思うんですよね。お察しに委ねるというか、バンパネラになったら、血を欲する自分の身体を自覚して、そうしてゆうるりといろんなことが飲み込めてくる、みたいな流れかなあとかってに思っていた。原作だと薄暗くてぼかされていたあの儀式の場面で、原作にはいない大老ポーが出てきたことによる後々の流れのまずさもさることながら、 まず儀式の会場に棺桶が置かれているのを発見した時点でわたしが何も知らないシーラならやばいところにきちゃったなとおもうし、棺桶から長老みたいな人が出てきてふつうに話しかけてきた段階でダッシュで逃げると思った。 棺桶を直角に置く都合も演出上わからなくはないが、ないけどエリザベーーーート! と言う話を友達としていた。

 

③Q.消滅したバンパネラを霊能力者たちは呼び出せるのか?
A.呼び出せない、というか呼び出してはならないとおもう
演出家は「バンパネラ」をなんだと思っているんだろう。エドガーとアランのやりとり「知ってる?きみは人が生まれるまえにどこからくるか」「知らない…」「ぼくも知らない だからメリーベルがどこへいったかわからない」「…生まれる前に…!?」を読んでいないの? 台詞も場面もきちんと再現されていたからそんなことはありえませんよね?( 台本を読んでいたら、アランの「…生まれる前に…!?」がないことに気づいて、もしかしてこの宝塚版のアランは、バンパネラが消滅するとなんにもなくなっちゃう、ってことを知らないのではないか!?と驚いている。この台詞って単純に、アランがエドガーの台詞を反復しているだけじゃないんだけど、アランがストンとそのことばの意味を理解したってあらわれでもあるとおもうんだけど、演出家のひと、気づいてないのかな。同じことばはいらない!みたいにばっさりしたのかな。それともちゃんと気づいて、これはアランとエドガーの理解の差異をあらわすためのなにか深遠な改変?! でも「理解し合えた」んだよね!?)バンパネラは消滅したらそこでおしまい、生まれる前にかえってしまう。愛している人を見守る天国にもいけなければ、この世にとどまることもできない。そこが彼らの存在の苦しみのひとつなのに、そういう、人間のような霊魂という概念がないバンパネラを、人間の霊能力者ごときに呼び出させる場面をつくる? よりにもよって演出家本人が、バンパネラに迎え入れる儀式を遂行するために欠かせない存在として扱っているあの大老ポーを?「すごいひげのじーさん」!? 大老ポーを持ち上げておいてなぜ地に落とすようなことをするのだろう。なんで演出家自ら、自分が原作に焦がれて宝塚化した、パンパネラという存在の「消滅」の定義自体を揺るがせて、神秘性を失わせるようなことをするんだろう。霊能力者=うさんくさい、いんちき、という認識自体が誤りなのだとしたら、あの、お試し降霊参加者の、婚約者の不義摘発に繋がる展開のコミカルさはなんだったんだろうか。
登場させるならばせめていんちき霊能力者にしてほしかった。ポーの原作の世界観の中では降霊術師のいんちきぶりをエドガーが鼻で笑う、みたいな扱いにとどめている(「ホームズの帽子」(「バカになんてしてないよ 降霊術なんてたいていが自己催眠だって言ったんだ」)。「ほんものの」霊能力者を登場させる必要が話の流れのどこにあったのか。大老ポーのほんものの霊魂(バンパネラの霊魂とは)が呼び出せてしまうのも、あくまで呼び出せているふりをしているだけで実際はいんちきかもしれないって話を友だちとしていたけど、でもそれならこの演出家は観客にいんちきと伝わるよう、うんざりするくらいわかりやすい台詞で説明してくれるはずだ。くみちゃんはブラヴァツキーを娘役の身で(こういう役をあてがわれる娘役はすくない)迫力熱演していたと思うけれど、しかしバンパネラの定義をねじまげるまでして登場させたかった大老ポーのことばが、役に立たないお告げ「海辺の小屋には気をつけろ」(男爵の返答が手短「了解」だけなのが余計に業務連絡ちっくだ)である意味とは……霊能力者の場面自体をバッサリカットして、もう少し原作にもいる既存のキャラクタに厚みを持たせる場面をつくってくれていたらと思った。
勢いのよい脱線かもしれないけれど、男爵が大老ポーに立てたお伺いの内容が「新しい家族を迎えようと思うのですが…」なのは盛大なギャクだったのだろうか。「養子ですか?」のツッコミが入らなければ、突然の家族計画の相談かと勘違いして、その場の全員の椅子が後ろに倒れる案件ですよね。(そばにいる妻に相談してくれ!!)でも大老ポーは人事部長も兼ねてるからこその相談かな?(皮肉です)
(本線に戻る)
さすがに各所で話題沸騰だった、各バンパネラの消滅方法について、萩尾先生の柱トークのパンツ残るか残らないか問題(「エヴァンズの遺言」の柱)(ここでバンパネラの消滅を「異次元のアナに落ち込む」?っておっしゃってたのは読み返してかなり気にかかるところだった。「異次元」とは…)を読んでいたので、老ハンナの消滅を見たとき、服が全部残っちゃうんだ?!ローブだけ残るのではないの?という細かいところが気になった。ポリスター卿(「ピカデリー7時」)がじかに身につけていた地図は、彼の消滅と一緒になくなったのだろう、とエドガーに推測されていた話を思い出しながら、肌に触れる衣は一緒に塵になる認識でいた。でも人ひとり目の前で消すトリックはなかなか難しいとは思うので、これはもう演出上、仕方のないことかなとも思う。初めての妥協点です。
しかし、せり下がっていた大老ポーはそもそも消滅させてはならなかったと思うし、杖から消滅効果スモークの助けになるの?それはなに?みたいな粉を振りまいていたように見えていたのはわたしの目の錯覚か…? そのほか、運ばれて消えていったひとたち。メリーベルや男爵夫妻の最期の演出は、運ばれているところが完全に見えてしまっている、老ハンナができたのだからこの方々もどうにかならなかったのか、という「運ばれている」ことのうまくなさより「誰が運んでゆくか」という点が気になった。あすこに老ハンナや大老ポー、先に消滅したメンバーが現れることで、パンパネラにも死後の世界があるように見えてしまいかねないのでは?というところがとても気になった。あの世に親族がいることもあの世もない存在だよ? 我ら息絶えし者どもはできないよ? 男爵夫妻は消え方もさることながら、大勢の人間に目撃された、というのもポーの一族の世界観として、バンパネラの神秘性を揺るがしてしまいかねない自体で、デリカシーがない演出だなと思った。その後、ブラックプールホテルはバンパネラ消滅の聖地として繁盛しましたか?

 

▼愛の描き方
人間の愛、バンパネラの愛、対比がうむ効果とは
シーラと男爵の夫婦愛を推しすぎている。ふたりの関係性は、百年以上経って愛がなくなったわけじゃないけれど、人間とバンパネラとして出会って結ばれたころのそれとは確実に変化している。「夫婦」や「家族」というかたまりは「狩り」をするのにやりやすい、だから行動を共にしている、家族ごっこを楽しんでいる面もある。そういう原作での、密接さとドライ、独特のバランスが失われていた。夫婦だけでなくエドガーとメリーベルが加わった4人の場面での「そう。私たちには絆がある。離れては生きてはゆけない」も、なぜ一般的な絆や家族のあり方をこのバンパネラの疑似家族に当てはめようとするのか、作り手にポーの「一族」をどう思っているのか問いただしたくなる台詞群のひとつだった。この直前のエドガーの台詞「男爵やシーラも、僕たちは四人で生きてきたんだ」にも、演出家はもしかして彼のことを親に歯向かうだだっこの坊やとでも認識しているのだろうか?と疑問がわいた。もっと深いところに根差した彼の孤独を、反抗期の男の子のそれにすり替えないでほしい。実は家族思いの息子なんです、というようなありきたりの家族の絆を描かないでほしい。 エドガーからシーラへの恋心推し、シーラ呼びの抜けなさへの「お母様と呼びなさい」の繰り返しも、反抗期の息子ぽさを後押ししていた。
宝塚版はシーラの結婚にエドガーが自発的に気づく流れにしたのだから((ああ…)(ああそう…)(…そうなの)がないのは残念)、そして原作は後々まで引きずるほどエドガーからシーラへの思いを描いていないのだから、恋心を膨らませて描く理由もフラグも殆どない。彼のあわい恋心自体を否定するわけじゃないけど、後にアランと恋バナをさせて対等な会話を生み出したかった、トップコンビの関係性の帳尻合わせ、観客にもわかりやすく心を寄せられるような親子関係のずれ表現、男女の恋愛感情はわかりやすい、みたいな演出家の野暮な意図が透けて見える改変に思えてしまった。
加えて、そんな疑似家族のよき母よき妻像にシーラを押し込める脚本・演出をとっておいて、貧血でぐったりしているメリーベル(原作より重症そう)を放っておいてまで遂行したい用事(狩り)がある、と娘を置いてゆく展開が、演出家が自らゆがめたキャラ設定を再びぐらぐらさせている。原作は、シーラが帽子をちょっと取ってくる間、メリーベルはジェインの家で休ませてもらう、という短い時間の出来事だった。 別によき母よき妻像を推してほしいからメリーベルを放っておくなと言いたいのじゃない。演出家の都合で設定したキャラに、自分が決めた設定が通らない、観客が違和感を持つような振る舞いをさせないほうがいいのでは、ということが言いたい。

 

愛を口にするキャラのキャラぶれがそこここに散見されながらも、バンパネラの愛をわかりやすく描こうとしたのは宝塚に必須の改変ではなく、安易に人間との対比をしたかっただけに見えてしまう。こっちの夫婦は愛を保っているけれどアランの家庭は崩壊しているぞ、クリフォードとジェインも初々しい婚約者同士と見せかけてわからんぞ、みたいな対比。アラン周辺の人間模様は、おじさんたちとのうまくいかなさは原作から継続として、母との関係の密さがほとんど描かれていないところが気にかかる。じゅりあさん演じる母がはじめから息子の言動にまゆをひそめている上に、その息子の素行に亡き夫を重ねて拒絶反応を示しているのはおじさんとの不倫のフラグなのか。亡くなっているのにダメ人間だったことに改変されてしまうアラン父……不倫関係が発覚する場面のふたりの会話が増量されていていやになまぐさい雰囲気をかもしていた。 母と確固たる信頼関係を築いていたからこそ、それが偽物だったと気付いたアランの苦しさがはえたのに、彼の細やかな精神の揺れを描いていた原作と違って、はなからすべてを拒絶する姿は、アランをわかりやすく孤独に追い込みたいのだろうなという印象。家庭内不和ものとして一般化させて、観客の感情移入をスムーズにしたいだなあ、安っぽいなあと思ってしまう。 最初から劇的に盛り上げて、ドラマチックな心情を描くためになくはない改変なのかもしれないけど、それがラストの「家庭が崩壊したアラン」という説明台詞に結びつくのだと思うと、わかりやすさがなにより肝心なのだと改めて感じます(皮肉です)。
人間側もう一方の、クリフォード医師とジェインについては、クリフォードがジェインにまっとうに惚れているような台詞を入れて、相思相愛カップルぽさ、彼の誠実さを微妙に描きながら、周囲の女に手当たり次第に粉をかける、来るもの拒まず設定を残しているキャラブレがひっかかった。加えてクリフォード演じるちなっちゃんの色気が誠実な男のそれではないので、粋なキスの仕方も知らない!?百戦錬磨のシティボーイめがなにを!?と一観客として混乱する。ジェインとクリフォードの関係性を緩和させてなにがしたかったんだろう。バンパネラと対比して、人間の愛は信用ならない、というふうにしたいのなら、クリフォード医師の設定を変更する必要は皆無では。また、ジェインを器量よし、としたのはエレン(マーゴット母)の娘への「ごらん、男はああいうタイプに弱いんだよ。お前も純情そうに振る舞わないと」という台詞につなげる効果もあったのだと思う。ジェインの清楚さこそが女性としての正しき道、と光を当てているわけではないけれど、無意味に一方をあげて一方をさげる、そのデリカシーのない追加設定にうすらぼんやりとした嫌悪感をおぼえた。結婚!金!と詰め寄るおじ夫婦対マーゴット、アランの構図はジュリエットがふたりいるようにも思える錯覚効果有り。「結婚だけは好きな人としたい!」


▼メリーベル像改変
リーベルはマドンナに「弱そうに見えて わたしなんかの百倍も我の強いこだわ」「狂信するタイプよ」「あの子が銀のナイフでたち切りたがっているのは なんなの?」って言われるくらいの肝が据わったこだ。でも宝塚版では、彼女がバンパネラになる重要なエピソードが盛り込まれた「メリーベルと銀のばら」が忙しい人のための高速巻き仕様だったせいで、エドガーがユーシスを殺したとメリーベルが勘違いするエピソードも、そのために彼女がエドガーを憎み、忘れようとし、でも結局ついてゆくという流れもなかった。自分が愛するユーシスを殺したかもしれない兄についてゆくのか、というメリーベルの逡巡がなく、メリーベルに憎まれ忘れられるかもしれない哀しみを抱いたエドガーの心の揺れもなく(妹に会えなくなること、忘れられることのかなしみをそれぞれ別々のものとして丁寧に描いていた原作「メリーベルがぼくを忘れないでいてくれる たったそれだけのことがこんなにも 失いたくない思いのすべてだっただなんて」)現れたエドガーに即「どこまでもついていくわ!」(両手差し出しポーズ)だった分、兄妹の関係性の厚みが減っている。この描き方だとエドガーにただ愛玩される、都合よく貧血を起こす妹、くらいの存在に見えてしまって、ほかの場面ほどの乖離はなかったけど、モヤモヤが残った改変だった。「私のためにこの人を苦しめるのはやめて」も確かにエドガーの行動理由を考えれば合っているのだけど、なんでこんなに勘違い女みたいな言い回しを口走らせるのだろう…と感じてしまうのは、うがった捉え方だろうか。
出番量は宝塚の番手システムの限界もあると思うけど、メリーベルという役を彼女のような番手の子に大抜擢したり、トップ娘役も含めて全体的に異例の役振りをしながらも、この扱いの娘役が演じる役はこれくらいの扱いにとどめる。という処理を無難にこなす演出家の冒険しなさも透けて見えた気がした。

 

▼ホテル・ブラックプール
ポーの演出家といえばホテル、というのはヅカオタを数年やっている人はだいたい持っている知識と思います。わたしはオーシャンズ11で洗礼をうけました。るろ剣ではプチ・ガルニエがそれにあたると思います。のぞみさんはロビーや階段に立って来客を歓待する役に縁がある人です。またホテルー!とテンプレートじみた茶化し方をすると、慣れてしまったがゆえのひけらかしと思われて真剣に受け止められない可能性があるので、ちゃんとホテルに向き合って考えてみたい。
わたしも舞台をつくるときに、ホテルという場を使う、という発想自体はきらいじゃないし、それが作品を演出する上で効果的に作用するのならばなんどでも、どんどん使っていただいて構わないと思うんですよね。でもなぜ、ホテルを使うのか。ホテルなら組子全員入ってもダイジョーブ!以外の理由があるのか。セットが省略できるからか。階段を降りてホテルのお披露目する場面をわたしたちは何度見せられればいいのか。そもそも人が集まりすぎる場所とポーの一族の世界観の食い合わせがわるいことになぜ思い当たらないのか。舞台上に人が多すぎる、ごちゃごちゃしすぎると感じた場面がとても多くて、宝塚を見る上でそれって仕方ないこととも思うのだけれど、たくさんいても必要な役割を担っていたり、衣装の色合い調整によって、観ている人にそう感じさせないことはできたと思うんだけどな…
今回のエピソード内で頻出する場所を考えたとき、①エドガーたちの仮住まい屋敷、②アランの屋敷、③クリフォード医師の仕事場、④学校、の①と③をまとめてホテルに押し込んでしまおうとするなんて常人には考えられない簡略化だ!すごい!とおののいた。①も③も結局個々の部屋として見せるので、これらをまとめてしまうのは、話の展開に関わる登場人物の移動、導線確保、①を誰でも訪れることができるひらけた場所にしてポーツネル一家と他の登場人物らの接点を増やす意味合いがある。降霊術を行ったり、婚約披露パーティーのエピソードを増設、登場人物を水増ししようという、下級生に至るまでの生徒たちの出番数を考慮した演出。いやこんなふうに書かなくても、観劇した人は舞台上に人がめちゃめちゃいる時点でだいたいわかったと思うのですが、書き留めておかずにはいられなかった…
コヴェントガーデンでまひろくんのバトントワリングをみたとき、いまめちゃめちゃ宝塚を観てる!!感あった。バトントワリングテクニック自体は素直に感動したし、まひろくんのファンなら嬉しいだろうとヅカオタ視点も保てた。しいちゃんのホテル支配人の歌も、めちゃめちゃ歌ってる…!とヅカオタ目線で感動した。ブラヴァツキーのくみちゃんも同じ。でもポーの一族の舞台化として欲しかった場面かと問われると、ノーと答えるよりほかない。グレート・ギャツビーダンベルを持ち上げる居候たちの場面を不自然に盛り込んだのと、同じ人が手掛けた作品だなと感じた。そういう場面って宝塚である限り必要なのかもしれなけれど、でももっとなじませる、作品内で意味を持たせるやり方はなかったのでしょうか。これは宝塚を観続ける限り、常につきまとってくる問題なのだなと思うけれど。

 

▼その他気になった点
・ 思春期の少年のたわごとと流せばいいのかもしれないけど、全編に散りばめられたデリカシーのない追加台詞のことも考慮すると、アランの「もっといい子が他にいたんだ!」は、ロゼッティに謝れ!!(演出家が)と怒ってもいいよね…
エドガーとアランが転校してくる原作のラストシーンを読んだら、たしかにはやりの曲について他愛ない会話を交わしている生徒がいたけど、その曲を哀しみのパンパネラリミックスにするって、ギャグ、ではないのか…? ぼくにはわからない… ぼくはーーばんぱーねーらーーーー\ジャカジャン‼︎/
・ 孤高の存在のエドガーと同じ格好をしたエドガーダンサーズを出して、心の内を語らせる歌をエドガーに歌わせるのは、THE 無粋にもほどがあると思うのですが…みりおさんはひとりでもエドガーとして舞台を埋められたはず。

 

▼好きだった点
大老ポーの出番数は不服だったけど「あれはいつの日か」と老ハンナとの思い出を歌にしていたのは情緒があって好きだった。
・ゆうるりと、の空間の余白、メロディ、作画。ここは本当に原作の雰囲気を出しているとおもった。人が3人しか出ていないから好きなのか。
・「変ね あの兄妹は少しも成長しない」をメロディにのせたところ
・アランの「願わくばーーー」を歌にしたところ
・メリーベルエドガーがエナジーを分け与えるところの、ふたりの首筋を近づけて抱き合う姿が好きだった。祈る神さまなんていないふたりが、なにかにお祈りをしているみたいにも見える。
・ 「知ってる?きみは人が生まれるまえにどこからくるか」 のみりおさんエドガーが完全にエドガーだった。鳥肌が立った。(しかしその後の追加台詞とクレーンが台無しにした)

 

 

▼ゆきちゃんのシーラが好き
クリフォード医師に手をとられて挨拶した後、下手花道で手袋を外すシーラの表情の色っぽさがたまらなかった。受動的かつ能動的、右手で招いて左手で食らう、みたいな一粒で2度の美味しさ。男爵と駆け落ちするほどの情熱を隠した「永遠の婦人」でありながら、パンパネラになった後の冷徹に狩りをする適度なドライさと同時にあの母ぶりをひとりの人の中に違和感なく共存させる、ゆきちゃんの舞台での佇まいがすごく素敵だった。演出家によるキャラのぶれはあったけれど、役者の舞台での生き方で丸め込まれてしまった事例。 狩りにウキウキ出かけるシーラの捕食者っぽさ、クリフォード医師に海辺の小屋でざっくりやられたところ、盆が回ってゆく暗闇のなかで這いつくばったシーラの、ぴく、ぴくとひきつった僅かな動きがぼんやりと見えて、原作イメージ通りの光景にわたしも震えていた。個人的にいま宝塚で一番、バッスルドレスが似合う娘役認識。首から肩までぐっと下がるなで肩だけど、間を結ぶラインがけっこうもりっとしているのが、デコルテがぐわっとあいたデザインを着こなす秘訣のひとつなのかな、筋肉の存在が感じられる娘役さんって魅力的だなと思う。あんなに歌が素敵なのに、ダンサーとしてもうつくしいゆきちゃん! わたしがむりやり上げて書いているわけではなく、全部事実のすてきさだけど、こんなにしつこく書いてしまうのはのぞみさん花組時代から特に好きな娘役さんだからです…。
ゆきちゃんの、どこを見ているのかわからなくなるときがある、陶然とした目つきがとても好きなので、エルゼリも似合うのではないかとこっそり想像している。

 

 

 

ポーの演出家の人にいちばん感謝しているのは、宝塚に興味のある友だちを増やしてくれたことです。いつも新しい観客(自分を含めて)をひきいれる演目を手掛ける人であることについてはありがたみしかない。
2011年にポーの演出家の人が手掛けたロミジュリを見ていなかったら(過去記事参照)ミュージカルにこんなにはまっていなかったし、エリザベートを見ていなかったらおかださんをすきになってなかったし、銀英伝からのオーシャンズを見ていなければ宝塚も好きになってなかった、のぞみさんにもきほちゃんにも出会えてなかったことを思うと感謝の気持ちもあるのだけど、でもポーについてはちょっといろいろなことを言いたくなってしまった。
この見方が圧倒的に正しいともぜんぜん思っていなくて、でも原作を読んで好きだと思う気持ちをだいじに持って劇場にあしをはこんだら、なんでこういう作品になるのかなぁと思うような光景が目の前で展開されてて、そのことにかってに傷ついてしまった、という恨み節です。 原作ファンでなかったら、小池作品の手癖を知らなければ楽しめただろうか。原作ものの「舞台化」において仕方なしと諦めなければならないラインとは、見続けることによって慣れることが寛容に振れるか、それとも見たものの蓄積をじぶんの功績みたいに勘違いして思い上がった感想を撒き散らすのか、 みたいなことについて、いつも考えるたびに、頭をまっさらにしてしまいたい、毎回知らないことだらけの心で見たい、ともつよく思う。 ポーに限ってはわたしがヅカヲタだからじゃなくて、原作が好き、かつ好きなものへのしつこさを持ってる性格だから、ねちねちと書き記してしまった、ということもあります。一度しか見ていないのに、こんなに覚えていて、こんなに言葉にしたいことが次から次へとあふれてくる演目を見ることも、そんなに多くはないのではないか。

 

今回原作を何度か読み返して、あらためて好きだなと感じたり、年齢を重ねたこともあるかもしれないけれど前よりも強く感情を揺さぶられたように思ったのは、この平成の現代で、宝塚でポーの一族が上演されている、という意識がどこかでいいほうに作用したのかもしれない。どんな舞台化であったとしても、原作の持つものは一ミリも損なわれやしない。これからも私はポーの一族を読み返し続けて、そのときどきで異なるコマや台詞や話に心を揺り動かされるのだと思うし、そのときにふうっと書き記したことを、良い意味で思い返すこともあるかもしれません。