TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

演劇『1984』

『BADDY』での「怒り」は生きることと分かち難く結びついていた。それは人間が個人として生きるための表現のひとつでもあったと思うけれど、1984の世界に登場する大きな怒りは、他者から強引に引き出され、同時に制御されるものだ。そこに生きる人たちを「非個人化」し、全体主義へと結わえつける。みんなと同じように怒り、みんなと同じように喜ぶこと、それは幸福のあり方や人の絆の示し方?

 

上演が発表されたとき以上に、改ざんされた公的文書が正しい歴史に塗り替えられていく社会の物語が、まったくもって他人事でなくなってしまった恐ろしくタイムリーな演劇『1984

演劇の感想を書くたびに、立体的に作品をとらえきれずに、物語をどう表現するかより、物語自体の感想が多めになってしまう、自分の視野の固定っぷりについて考えてしまうことが多い。今回もご多分にもれず、ではあった。でも、見る/見られるの構造を使った演出が多かったこと、自分がどこにいると思う? と主人公が常に問い続けられることで、その様子を外枠からみているこちら側も、自分たちが「いる」場所を意識せざるを得ないつくりになっていたこと。演劇の構造自体がこの物語を立体化するのに適していたことも、舞台上で表現することについて、いつもより深く考えるきっかけとなった(たぶん…)。

 


▼『1984』の恐ろしさ

演出についての前評判から、視覚面で物凄くショックを受けるだろうなと身構えていたけれど、暴力による抑圧の表現より、それによって思考の自由を人はどうやって手放すか(奪われるというよりも手放すように仕向けられる)、それを手放した人はどうなるか、の描き方により恐怖を感じた。 絶対的な悪から受ける大仰な加害ではなく、もっと静かにひたひたと迫る存在に内側から侵されて、気がついたらつるんと捲れているような、原作を読んだときの気持ちを思い返した。 

舞台によってビジュアル化される、人間が演じることで立ち上がっていく演劇の力を信じている人間だけど、紙面で読む物語としての1984のほうがわたしには恐ろしくなまなましく感じて、1984という物語の凄みを味わいたいなら本のほうがいいかなとも思った。自分が演劇で人間が痛めつけられる描写に慣れて、擦れてしまったとは思っていないし、もっと視覚的に、よりセンセーショナルなものが観たい、とかではない。テレスクリーンによる監視社会の構造より、ダブルシンクやニュースピークの扱われ方が、この物語の核だと思っているので。

 (単純な監視カメラではなく「見られている」という意識が人にもたらすもの、という意味ではすごく興味がある)

けれど、視覚的に恐ろしい拷問のさらにその先に位置付けられていることで「ありがとう」の境地の恐ろしさが観客に強く刻み付けられる、ということはあると思った。拷問は見ている側も受けている側もそれぞれの恐怖が自分のものとして、身のうちに確かに存在する。でも「ありがとう」と口にするとき、既にその人の内に恐怖はない。その状況を恐怖するのは、「ありがとう」以前の自分や、「ありがとう」にいたった様子を客観的に観察できる第三者のほうだ。そうだとしたら、それって本人にとってそんなに悲惨な状況かな? と思えてしまうこと自体が恐ろしい。(ある意味、死ぬのが怖い、と同じようなこと?)


ニュースピークにより奪われたものを示すある場面では、うすぼんやりとした喪失の先にやってくる思考の不自由さが、激しく可視化された抑圧以上に、実感として迫ってきた。ジュリアが赤いドレスを着た姿を目にして、抱いた感情を言葉にすることができないウィンストン。その様子に、ニュースピークがオールドスピークにとってかわろうとする社会を、生身の人間が目の前で表現する説得力を感じた。失われたのは言葉だけではなく、それに紐付いていたもっと豊かな感情のうねり、思考の自由だ、と感じさせるウィンストンの喪失感。 でもそれまで、ない、と気づく地点に立つことすら難しかった彼には、ない、という感覚すらあわあわとしているのだろうなと思う。はっとするような美しいものを見たとき、人が言葉を失って立ち尽くして、それからしばらくして失ったものがなんだったか手繰るさまと、第三者の手によって失われた言葉のありかを探して途方に暮れている彼の様子、似ているけれども似て非なるもの、というのは皮肉かもしれない。

1984』原作では感じなかった淡い空気をそこに見たような気がした。小川洋子の『密やかな結晶』を読んだときの、何かを失うときのもの悲しさ、甘やかさが漂っている場面だった。井上さんの、ふっと手をのばした先に掴めるような、肌感覚のある感情表現、表情に心のやわらかい部分を握られてしまうときがあるので、そのせいかもしれません。


脱線ついでに、井上さんはプリンスの人と思えないくらい"THEちっぽけなひとりの人間"の役も似合う人だ、という印象が今回さらに強まった(『負傷者十六人』からぐっと前のめりになった人間の意見)ことも書き記す。見えない何かに終始おびえたり、拷問されて泣き叫ぶ姿が哀れを誘う。ジュリアに宥めすかされてよしよしされる男のダメさも、ひとかけのチョコレートを口に唐突に含めさせられて目を白黒させる表情も、「もう一回殺して」のくだりも異様にかわいげがある。しっくりきてしまう。過去回想、チョコレート強奪事件のときの甲高い少年声の違和感の無さにとてもつらい気持ちになった。

そして英雄になりたかった男を彼のような経歴の人がやる皮肉さも。

(好きな役者のいろんな表情がみられる喜びと、物語を掘り下げてみることの面白さを味わうこととは喧嘩しない)


▼信念を貫くためにはどれだけのものを犠牲にできるのか、という怖さ

ウィンストンがおのれの倫理観に向き合わされる場面で、『ひかりふる路』のマクシムのことを思い出していた。信念の名のもとであれば、どれほど残酷なことができるか、それをやる覚悟ができてしまうか、ということ。 

高い志を実現させるために自らや他者を犠牲にしてまでも、ときに倫理に背いても、と思って行動すること自体が、結局、自分が忌み嫌っている相手が社会を抑圧するときに取る手段とほぼイコールになってしまう、その証拠を目の前に突きつけられる恐ろしさ。 

人がもっとも残酷になれるのは、恐怖に駆られているときと、自分が正しいと信じているとき、という昔読んだ本の言葉を思い出す(出典を書きたいが記憶が曖昧…)。

 

そしてだれの心にも分量は違えど少しはあるような、英雄願望を粉々に打ち砕いたあと、個人レベルの人間同士の信頼、愛すら打ちくだく徹底ぶりの恐ろしさ。ここまでの極限状況に身を置いたときに抗える人間なんているのか、だからウィンストンは特別な人間ではないかわりに、特別卑怯な人間でもないだろうという彼の不遇さへの反抗心と同時に、絶対に起こらない同じ状況を想像しない人はいるだろうか。自分も同じ、と足もとの地面が抜ける感覚。誰しもが一度は頭に浮かべてしまうけど、倫理観ゆえに口にしないような考えや感情を、目の前に突きつけられることは、疑いもしなかった自分の人間としての形がなくなるような怖さがある。

 

▼「演劇」としてこの作品に出会ったときに高まる当事者性

テレスクリーンの見る/見られるの関係性を第三者にわかりやすく可視化するために、演劇の見る/見られるの構造って当たり前だけれどすごく効果的だなと感じた。ウィンストンの語りかけ、オブライエンの語りかけ、ウィンストンとジュリアの密会をテレスクリーンのこちら側で監視しているようなわたしたち観客。1984の世界をじっと観ているわたしたち。

そしてこの演劇で外枠として描かれている2050年の世界が、1984の世界が完璧に打ち砕かれた後の平和なものとも思えないのは、1984を読む彼らの様子の、本に描かれている世界との距離感によるものかもしれない。これが存在して安全に手に取れる私たちの世界は平和よね?と顔を見合わせる姿に、観客のわたしたちは自分たちをそこに投影してしまう。 最後に女性がねえ?と気づきかけて、まとまらない思考に首を振って立ち去るという余韻がリアルだった。1984から66年後の世界のビックブラザーが、当時と全く同じやり口であの人たちに忍び寄っているとは限らないということ。それは私たちの世界でも同じ。


ニュースピークの素晴らしさについて訳知り顔な男の口調が、ネット上で聞きかじったソースのない知識をもとに差別的な発言をする、よくいるひとの雰囲気にすごく似ているなと面白おかしく観察する気分で眺めていた。でも、政府に対して批判的な目を養えるような教育をうけていないとすれば、ウィンストンのような考えが浮かぶこと自体が極めてまれなはず。そもそも1984の世界に存在した自分を想像するとき、ウィンストンのように中間層に属して悩むことができる立場である、と思うこと自体が傲慢で、あの舞台の上に影すら登場しない、娯楽を与えられて飼い殺されている、圧倒的多数の被支配者階級なんじゃないの、とも思う。


▼おんなってもしかしてすでに「非個人化」されている?と感じてしまうとき

「反体制は下半身だけ」「"母"に対して、神秘的な畏怖の念を感じる」「子どもを産んで働いて、一生ずっと苦労して、横幅が一メートルになった女」

嫌悪される女、崇められる女。1984の世界における自分の立ち位置を考えるとき、原作を読んだ際に、こんな名作に対して不遜かつ浅い考えかもしれないけど、この世界って人間is男性の書いたディストピアでは、という考えが浮かんだことを思い出す。男性も男性で別に強くてりっぱな生き物とは描かれていないので、それぞれ”平等”にひどい扱いをされているのかもしれないけれど、でも、誘惑者としてのジュリア、男が抱く高い理想を解さずしたたかに日常を生き抜く者、あるいは全てを許す聖母としての女性、という描き方はステレオタイプのそれではないんだろうか。当時の価値観を考えれば普通なのかもしれないけれど、これが現在までなまなましく立ち上がる物語である、とするときに、そこにひっかかりをおぼえるのは私が穿ちすぎなのだろうか。(この描きかたが「ふつう」の社会に生きていることは否定できない腹立たしさはあるけれど)

人間全部にかかわる話だ、わたしは人間だ、と思って読んだり見たりしていた物語の、そこに出てくる女性の扱いで(ここでいう人間って男限定か…)と気づいて、すーっと線引きされること、それでも男性らが、これは人間の話だ! と息まいて、なんの疑問もなく讃えている様子を、冷めた目で見つめてしまうときはままある。1984がそういった物語の型に完璧に当てはまるとは思っていないけど、物語自体の重みは重みとしてとらえつつ、そういうことについての話をすることはできないのだろうか。

この演劇でのジュリアの生き方自体は、あの世界に生きる人の知恵としてばかにできるものじゃない、と感じた。"戦争に反対する唯一の手段は、 各自の生活を美しくして、それに執着することである"を思い出したりもし、それは小川さんの演出と、ともさかさんのジュリアの理知的な佇まい、演技によるものだったのかもと思う。原作のジュリアの生き方に対して、そんな、ある種「尊敬の念」のような思いは抱かなかった記憶がある。

彼女の考えはやっぱり無駄なあがきだしすぐに見つかってしまう、ふたりの自由はお目こぼし、ビックブラザーの観察期間として束の間与えられたもので、救世主願望も無意味だよ、と徹底的に毟られる作品ではある。一枚のチョコレート、コーヒー、紅茶、赤いドレス。それでも作品内では無意味なものとして描かれていても、舞台を見て受けとめるこちら側の心持ちとして、個人が個人として生きるすべがなにか見出せるような気がした。

 

 

 

色々な人の色々な選択を当たり前にうけとめたいのに、私の中の偏見がその流れを阻もうと働きかけることがある。偏見は大した理由もない思い込みや、ずっと前からの誤った知識に寄っていることが多い。そんな自分の中の色眼鏡を一つ一つ取り除いていきたい。どういう情報源が信用できるか、知識を更新し続けたい。批判的思考を養い続けたい。虫干しを定期的にしたい。それは全部生きることと直結している。

ものすごく気を張った決意表明のようになってしまったけど、あくまで気負わず、自分が面白く感じることのなかから取り入れて落とし込みたい。

読書と観劇は、そういう意味で同じ線上にあるということについて、改めて考えた観劇だった。