TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

7〜8月観劇その1


とてもいまさらながらに。
インプット>>>アウトプットになっております……。
あとでひっそりつけ足す予定







ベルサイユのばら フェルゼン編 7/9(火)
ちがうよ!って教えてもらってたのにやっぱり池田先生画のフェルゼン肖像画がバーンと階段上に据えられているのを見て、あすこを突き破って壮さんがでてくるのかと思ってしまったり、チュッパチャプス配色のわっかのドレスにブルボン王朝の危機を感じたり(あるいは史実準拠なのか)舞台装置だけでなく、展開に、あまりにざっくりした言い回しに1幕は首をひねっていたにも関わらず、2幕の牢屋の場面でのあゆさんのアントワネットさまの矜恃にどうしようもないくらい胸をうたれてしまった。追いすがろうとするフェルゼンを庇うために片手で制止をしてにっこりと笑んで、そうして踵を返す彼女の美学。「わたくしがお人形で、お人形がわたくしだったのです」の間や、断頭台に進む背中にも。
演出や脚本を超えて、なのか、役者さんの熱量なのか、あるいは私の思い入れやたくさんの要素があわさって、なのかわからないけれど、いろいろ思うところだらけだったのに、ここでこんな気持ちがこみ上げるなんて、ってことはたぶん初めてではない。
ゆけゆけフェルゼンも楽しみにしてたのとは違った意味で、眼光鋭い壮さんのフェルゼンかっこいい…としびれていた。スターブーツのおみ足だけではなくて、鞭だけでもなくて、その前からの気迫と額に浮かぶ汗。あのフェルゼンの格好良さは、その前に国王さまの死と、王妃さまも危ういという報せを受けての、壮さんの俯いて佇む姿があってこそのもののように思える。
もちろんロザリーたちはそばにいたけど、それでも誰もかれも、自分さえもが生きる望みを見放してしまって、そんななかでただひとり思いあっていた人だけ が、自分が生きることをひたすらになりふりかまわず望んでくれる、というただその事実だけあれば王妃さまはよかったのではと、気丈な王妃様のお姿を見て思いました。潔さ、気高さ。


○象 7/12(金)19時
「静かに死んでしまいたいとは思いませんか?」
「思わないね。俺はむしろ、死ぬ前に殺されたいと思っている」
「何故?」
「知らん。情熱的に生きたいのさ」
途中でぴくりとも動けなくなって固まったまま見ていた。
三鈴さんのふわっとやわらかくて芯はつよそうなところとか、あなた、って呼びかけてほしい奥さんランク上位なとことかあらゆる意味で理想なのだけど『それ を言ったらおしまいよ』@よしながふみ、の旦那さんの煙草の灰を掌で受け止める奥さん役が凄く似合いそうなあのかんじはなんなのだろうと思う。部屋とYシャツと私を歌ってほしい非実在妻。
おにぎり頬張ってから大杉さんの肩にこてん、って頭をあずけるところを、じたばたしたいのをこらえながら見ていた。

○クリエフェス 7/14マチネ、15ソワレ、17ソワレ
見どころもりだくさんの真夏の祭典。
主に岡田アルバン禅ジョルジュ、岡田ルーシーについて。


○春琴 8/6ソワレ
余韻を大事に大事に掌からこぼれないように捧げもって帰りたい作品。
初めて雲雀を空に放す場面、籠をもった春琴を後ろから支えるようにして立つ佐助、ふたりの姿、背景の空に舞う雲雀 の画がいちばん最初にぱきっと残った。春琴の手のひらに乗るくらいの足から、足袋をするすると脱がせて開いた胸元でぬくめる佐助の姿も。
佐助をひたすらに打ち据えて打ち据えて打ち据える春琴は常闇にぽっかり咲いた真っ赤な花で、縋り付いてわが身を打ち据えられることを乞う利太郎にみんななって、慄く春琴が佐助を呼ぶ悲鳴をきいてるのだろう。
三味線の撥で、掌で何度も打ち据えられて平伏しながら震える背中に立ち現れてくる怯えだけではない感情や、もろ肌を抜いで自ら撥の先を腕に押し当ててゆくときの表情に、針を目に刺すところまでソンハさんで通して見てみたいなと思った。
これでようやくこいさんと二人っきり、などと思う余裕が佐助の中にあったかわからないし、たぶん刺した時はただ無我夢中だったのだと思う。愛ってなに?と思うけど、盲いた二人が身を寄せ合う姿に当てはめるものは見た人それぞれの心のうちにある。痛くはなかったかときいたり「ほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもおまえにだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました」という春琴の佐助へのおもい、そして「此の世が極楽浄土にでもなったように思われお師匠様と唯二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした」という佐助のおもいについて、原作を読み返して改めて考えました。


二都物語 8/22ソワレ、25ソワレ
考えてみれば、4〜11月で一生分のトリコロールを見る気がしているし、みんなあの時代に生まれると妻子ある親しいひとを身をていして逃がしてじぶんは無実の罪で監獄にぶち込まれて、愛するひとのために入れ替わって断頭台の露と消えたりするんだ、と1幕ラストにばさっと降りてきたトリコロールを見ながら呆然としていたのにも関わらず、だからこそ、革命側のひとの思いよりも、ルーシーとチャールズとシドニー、彼ら家族へ焦点を当ててみていました。様々な立場のひとの思いが絡み合っていて、たぶんもっと回数を見ないとそれぞれの思いに気持ちを寄せて考えることはできなかった。
歳を重ねるごとに涙もろくなるのは、それだけじぶんの内側に、見聞きすることによって喚起し、共鳴するような景色や音やにおいや手ざわりが増えていくからだなと、二都みるときはハンカチ用意しろって誰か教えてくれてた気もするけど、完全に忘れてたあほうゆえ、シドニーがチャールズとルーシーのちいさな子を愛おしげに抱き上げたときに大変なことになりました。2幕はチャールズの、彼女は幸せにならなきゃいけないんだ、で、こみ上げてきてしまった。誰にとってもきっ と、このひとは幸せにならなきゃいけない、というひとがいるし、そういうひとがひとりいることを思い出すだけでやさしい気持ちになれることを、彼が改めて教えてくれたような気に。
ルーシーへのチャールズの、またお目にかかれますか、に、なんてうつくしく再開を希う言葉だろう、と思ったけど、全体的にきいていてはっとする印象深い台詞が多かったです。劇的なものじゃないのだけれど、日常良く耳にする別の言い方もあって、でもあえてこっちを選んでいる、と感じるような言葉の選び方。
曲としても、がつんと盛り上げるのも好きだけど、最初にあっ好きだ、と思ったのはルーシーがパパにうちに帰りましょう、と語りかける曲。遠き山に日は落ちて星は空を散りばめぬ、じゃないけれど、家路につきたくなるような、やさしい郷愁をそそるメロディが他にも何曲かあって、染み入るようだった。

そして改めてずるいひとシドニーについて。床にだらしなく転がってるところもだけれど、ぱたぱたしていたコートの前をルーシーにしっかりあわせられて、そっと頬にふれられたときの、身じろぎもできぬまま、俯いて呆然と立ち尽くすシドニーの横顔がお母さんに叱られた小さなこどもみたいと思ったり、もし君が受け取ってくれるなら、って遠慮がちな言葉にも、よしおさんのシドニー…と呟いて、ゆっくりソファに沈みこみたくなる。「このひとはあなたにじぶんのことはお祈りしないと思うから」とちいさなルーシーに言われてしまうひと。「人生はこんなに美しい」と思わせてくれたひとと出会えたよろこびだけで生きていけると、いつからか確信したシドニー。お針子さんを勇気付けて、頬に手を添えてキスするシーンも、いままで僕がした中でいちばんいいことなんだ、もただ誰かを救うという言葉の陶酔のうちに身を 投げ出して、じぶんを粗末にする意図じゃなくて、もっと腹の据わったものだったり、そこでぷつんと途切れるのでないなにかを感じる。受け渡していくこと。彼らは僕に家族をくれた、という言葉だけで胸をおさえてしまう。混じりようもない血を持つ人々と密接に触れ合って、心底愛おしいって思えるところまで達した彼の心に、とても憧れます。

また、2度目に見た時は、パパに、ルーシーを愛していますと伝える時のチャールズの、あのひとの夢をいつも見ています、という言葉も旋律も透明なものがすうっと浸透してゆくようにうつくしくて、うらいくんははたして質感を持った存在なのか疑わしくなるほどに、こういう人間っているのだなあと思ってしまう様な神々しさがありました。この子が神様に愛されますように、とチャールズが祈っている大事なリトルルーシーは、もうじぶんだけじゃなくて周りの人も、シドニーのことも、この人は自分のことをあなた様に祈らないと思うので、と言い添えるくらい口が達者なさとい子に育っていますよ、と思う。

初見、シドニーとチャールズが並んだところが双子みたいと思っていたけれど、どなたかの感想でもお見かけしつつ、二度目で、ルーシーとチャールズも、魂の近しさという意味でどうしても結びつかなきゃならない二人だったのかなと、すとんと落ちてきました。ルーシーの、そういう言葉選びふつうしないような、という言い回しが、すみれさんのあの感じにぴたりとあっている。生命の象徴みたいなルーシー。
しゃがみこんでるシドニーに話しかけるときに、同じ目線あわせしようと屈みこむルーシーがすっぽりケープにくるまれてている場面もかわいくてすきだった。これをみにつけているあなたはじぶんの信条に反することになるのかしら、これを身につけているときあなたは自分を大事にしていることになるでしょう? で青いスカーフをシドニーに贈るルーシーの、ふたりの謎かけみたいなやさしい言葉のやり取りも。