TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

陥没


同演出家作品を観劇するのはキネマと恋人に続き2作目。

前回がとても幸せな観劇体験だったので、今回も、とわくわくしながら臨んだのですが、観劇後の感想としては今まで見た舞台作品内で堂々のワースト1ランクイン!でした。

お芝居をおもしろく感じるポイントなんて人それぞれです。
冒頭の、舞台装置と映像をあわせたお得意の手法には前回以上に眼を奪われて、ここからお話がどう展開するのだろうと期待をさらに膨らませました。幽霊になった瞳の父と神様2人により引き起こされるドタバタや、七つ道具のチープさ、テレビの中で一生を終えた未確認生物のミイラ(メス)のくだり等々、大小ちりばめられたモチーフに笑う瞬間もありました。

けれどそれ以上に、話のそこここにちりばめられた、笑いを引き起こす意図で描かれている登場人物たちの言動の多くに、全くもって笑えないどころか終始不快感をおぼえました。途中で飽きたとか退屈したとかいうことは全くなく、終始テンポよい観客を引きつけて離さない展開で、でもその中に席を立って帰りたくなるくらいの光景がテンポよく挟み込まれる悪夢。

つまらないという意味での時間とお金を返せ!のほうがまだマシ。今後この人の作る作品は遠慮しておこうかな、と思うような、作り手のものの見方が合わないと感じる作品だった。だからこれからするのは演出としてうまくない、という話ではないです。

初めて会った女性に、一目惚れと称してセクハラにまみれた言動を繰り返しながら執拗に迫る男のしつこさが実を結んでしまう、肯定的に描かれる世界(社会科教師は肯定され大門は否定されているけれど、この両者の女性たちへの執着具合は紙一重と思う)
好きな女に偏執的な好意を寄せる男に憤慨して、正義の鉄槌ならぬ暴力を振るう男にときめく女たち(念入りに2パターンご用意)(殴って解決できたシンプルな時代の話)
厳しい物言いをして拳を振るう男に急に従順になるわがまま娘(神様も昭和)
結婚していない女に夫のことを執拗にたずねる女(を、年配女性の物忘れとして落として笑う)
スタイル抜群の女優さんに「どうせあたしはおっぱいが大きいだけの女よ」と拗ねさせる(彼女にあのボディコンシャスな制服を着せるだけで十分では?)
身体的にハンデのある弟・清春をなにかと笑いのオチに持っていくやり方
その弟をかばいながら「こいつは誰よりも心のきれいなやつなんだ!」と叫ぶ兄・是春
(肯定的な偏見というレッテルを貼り付けるテンプレ価値観にまみれた台詞)

この時代設定にしなくても、こういう人たちいますよね?でも恐らく、作品内で普遍的なものとして問題提起する意図はないですよね?上司からセクハラを受ける部下を皆で笑って見ている宴会会場に紛れ込んだ気分だった。

オリンピックの需要を見込んだホテルやそこへ集う人々が語る未来への希望・不安以上に、これを描いても許容される時代を選んだら昭和設定になったのかな?とたずねたくなる旧態依然とした人々の価値観や定型の振る舞い。上記に連ねた内容も、普段は見過ごしてしまう可能性がある下世話な中吊り広告レベルから、倫理観を疑うレベルのものまで様々だったけれど、切り分けるのもばからしいくらいに多発する光景にうんざりしてしまったのでまとめて置いておく。

ポリティカル・コレクトネスを遵守した作品なんて期待してなかったけれど、どうしても前述の内容を含む芝居を描きたいというのなら、目指すのはみんな笑えるまっすぐな意味でのコメディ作品ではなく、昭和から現在にいたるまでなお続く差別や偏見にまみれた社会へのまなざしを切り取ったブラックコメディでは?

客席で聞き取った多くの爆発的な笑い声は、そうしたひねりある笑いを受け取った人たちのものにはどうやっても捉えられなかった。この光景を許容して「心あたたまる作品だった」と称している多くのお客さんにも首をひねりました。ということは、この作品は驚くべきことにまっすぐな意味での明るいコメディとして作られているみたい。こうした客層が多いことを見込んで作られたからこそ、高い評価を受けて成功している作品なんでしょうか。

自分と違う意見を認めない、なんてそんな意味合いではなくて。何を楽しむかは自由です、自由なんですけれど。

私も冒頭or巻末に「この本には差別表現が含まれてるけど当時の状況を鑑みて作者にはそのような意図がないと判断しママ掲載以下略」みたいな昭和に生まれた作家の随筆や小説をそれなりに読んではきたけれど、作中には現代においてはどうやっても通用しない価値観も多く登場するし、この立場の人に人権は与えられていなかったのだな……と暗澹たる気持ちになることも多くありました。

現代にそうした価値観を含む物語を新しく生み出すのだったら、それなりの理由が必要だと思う。作り手の差別や偏見まみれの意識を前面に押し出した問題提起作品?としてではなく、この作品が、恐らく何の配慮もなく入れ込まれた差別や偏見込みでハートフルな物語として作られ、消費されているという事実に疑問符を突きつけたい。

特に最後にあげた清春の扱いについては、いくら家族が彼を大事にしている描写があったとしても、終始違和感をおぼえた。彼が彼の事情ゆえにできないこと、他の人とのズレを客席側におもしろいでしょ?と提示して笑いを誘うのはあまりにも作り手側にセンスがない。(皆が成長する過程で培う「個性」と同様に扱っている、特異な振る舞いをする人を笑いのネタに使うのはよくあることだ、みたいな言い訳には、その「個性」を笑うってどういうことなの?「違い」を誰かを悲しませない笑いに昇華するには相当なセンスがいるけどこれ、できてなくないか?と返す)こういう状況っておもしろいけど、今の配慮が進んできた世の中だとなかなか大声出して笑うの難しいよね。でもここでは笑っていいよ、そういうふうに描いてるから。という作り手の声が聞こえてきた気がしました。

兄・是春が大門に激昂するきっかけになった清春に対する台詞も、元夫と現夫のキャラクタの対比をそこまで露悪的に強調する必要がどこにあるのか、と思わせるくらい唾棄すべき内容。惚れ薬の効果で穏やかにフェードアウトさせる温情を与えるキャラクタに言わせる台詞ではないと思う。

しんどい境遇に育った人が常に人に感謝する人間になるわけじゃない、というのを体現するような結のいやあな感じには一周回って好感をおぼえなくもなかったけれど、あの玉露の温度や修学旅行費のくだりのブラックさも、最終着地点の爽やかさを見るにあまり意図されているものではない? はとさんが少し呟いていた、皆が豊かになった時代と取り残された人たちの格差が広がるばくぜんとした不安、みたいなものは、いかにも育ちの良い、借金をチャラにした瞳と未来有望そうな是春の再婚をにおわせるラスト=富の再生産によって見事成就したのでした?くらいの深読みをしてしまったけれど、これもたぶん別に意図されてはいない。

映像と舞台装置とテンポの良さにごまかされた、驚くほどださい、センスのない作品を見てしまった。自分が何をいいと思ってなにに拒否反応を起こすか再確認できただけ、無駄ではない約3時間半だったと思いたい。

役者さんはそれぞれの役を生きていて、見事だからこそ、それが逆にもやもやを抱え込むはめにもなったりしたのだけれど、キネマに引き続き拝見した緒川たまきさんは役どころとしてもこの作品の良心のような存在で、舞台上での佇まいからしてもう、たまらないくらい素敵でした。

本作を見るきっかけになった芳雄さんは、皮肉なほどの当て書きだったなと。脚が長くてスタイルがよくてストライプのスーツが似合うとか、そういうところは問題じゃない。いつも大きい方のハンバーグをくれる、再婚相手をかわいそうな子なんだよと口にする、女にちょっとだらしない、浮気の末にバツイチった「いい人」という役のニンっぷり。惚れた女の複雑な境遇をさして、だからおれにしか彼女は理解できない守ってやれない、と自惚れてた男が、別のぽっと出の男に「彼女、危なっかしいところがあるから」と、すぐ「理解」されてて目が泳ぐ、みたいな流れはせいせいするし、わかったつもりでいる男もたいそうハマるお人だなあと思いました。皮肉です。チャリティを受け取ってもらえない井上芳雄という新たな境地。
役者に偏りすぎて脱線。

まるで見当外れの方向から言葉を投げつけて、すばらしい作品に泥を塗りたくっているのかもしれないなあと迷いながら、でも感じたことをどうにかして残しておくべく、言語化。