TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『ドン・ジュアン』2

最初の走り書きと同じことを言い換えたり、ぐだぐだと。

ドン・ジュアンはヒーローじゃないから、相手の気持ちを慮ることが必須じゃない。彼は基本的に自分以外守るものがない。そこがある意味清々しい。真実の愛を得て、正しい人として目覚めて、信念のために死んでいく話とは少し違う。

決闘の場面も、ラファエルがジュアンを手にかけた人殺しになることや、マリアが愛する人を喪って悲しむことについても、そこまで深く考えていないように見える。後者については考えていたかもしれないけどそれも、自分の死をもって刻みつけて相手に永遠の愛を乞う、という「愛とは解き放つこと 愛とは離れてあげること」と歌っていた某ミュージカルとは対照的なむちゃくちゃダメなやり方、利己的な愛。でも彼は正義のヒーローじゃないから、お手本と掲げられるような、誰からも認められるような愛を示さなくてもいい。

「あいつらがおれたちを許さなくても、おれはあいつらを許してやるよ」というような台詞があったけれど、彼の呆れるほどの不遜さと傲慢さと同時に、自暴自棄な頃とは変わって、生きることへの余裕も感じとれる。彼は変われたんだろうか、changerと歌っていたけれど、これから変わるんだ、変わりたい、変わるのよ、という気持ちを示す曲で、結局変われないのが彼への罰だったんだろうか。
決闘なんてしなけりゃよかったのに、身体を繋げる前に、きちんと心を通わせてゆく方法についてはまったくの初心者だったジュアン。もうマリアから告げられた事実にただ驚いてぶわっと噴き出す感情にさらわれてしまったように見えた。必然性がない決闘を自ら選択して、破滅の淵に向かってしまうのは、ものものしい呪いが理由というより、ただ自分の感情をコントロールできない、愚かさゆえだなと思うのだけど、どうすればいいんだ、と騎士団長に怒鳴り散らしながらも助けを求めて懇願するようなオロオロした姿は、本当に最後までバカだね、あんたは…(イザベル声)とあわれみの言葉を投げかけたくなるような愛おしさがある。

愛おしさといえば、マリアが1幕終わりにジュアンを自分から抱きしめるのも、いままで女から奪う側だった男が初めて受け取る側にまわるという転換がありがちだけど、わかりやすくて鮮やかで好き。奪ってゆくような方法で得る愛しか知らなかった男が、女から抱きしめられることにひどく動揺する姿。

ちゃぶ台ひっくり返したいと思うような出来事があっても、実際は実現不可能なのが現実で、でも自分ができないことを、たとえば理性の綱を断ち切って欲望に身を任せるような刹那的な生き方をしている人を見るのは、安全圏にいながらにしてある種の爽快感を味わえて、楽しい。

最後の最後でもうこれしかない、という覚悟は彼にあったのか、迷いながらの消去法の選択だったのか、次回確認事項。