TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ロコへのバラード 11/20、22 ソワレ


一つの舞台に複数回通うのが当たり前になってしまうと、時々「複数回観るのを前提とした見方」をしそうになってあまりよくないなとはっと我にかえることがあります。役者さんは複数回同じものを上演するのが常だとしても、かつ一回一回コンディションが違うのは当たり前だとしても、毎回客席に座る面々は入れ替わると、その時一度きりしか観ないお客様のために、その時ご自分のできるベストの”役としての生き方”を板の上でこちら側に見せてくださっているのですから。実際問題心の持ちようはひとそれぞれであっても、私はそう(勝手に!)信じて客席に座りたいといつも思っています。
もちろん肩の力を入れて眉間に皺を寄せての真剣に、という意味でではなく!

11/19〜22にかけて、NYやアルゼンチンやブタコメトークライブやスリルミー感謝祭と(演目と地名が入り混じる)予定が詰め詰めだったので、頭のなかが世界旅行したようなことになっています。以下は20と22のソワレに観劇した、ロコへのバラード感想です。







アルゼンチンタンゴショーとはいったい…?と思いつつも、中河内くん繋がりで名前を見かけていたこの演目、三銃士とBWMLで拝見した石井さんが出ていらっしゃるのだな、と気になっていたのですが、あらすじを公式で拝見し、アルゼンチンの書店が舞台、ということで本好きとしてこの設定は、といてもたってもいられなくなり、思いきって行ってきました。

姉の最期を看取り、他に身寄りもなくなってしまったマリアは、彼女の一族が19世紀にこの地、ブエノスアイレスに移住してきた頃から枝を張り、葉を茂らせ育んできた家系樹の、最後の一葉となろうとしている。
マリアが働く書店店主のオラシオは、そんな彼女を気にかけて、少し前から自分の書店を提供し、朗読会を開くように提案していた。「本の中でなら君は、僕たちは何にだってなれる!」「イマヒナシオンとファンタシア」
毎週金曜日の夜にオラシオ書店に酔狂にも集まる彼らはマリアの朗読を楽しみにするロカやロコたち。参加メンバーのひとりであり椅子職人であるラロの作った椅子に座り、ランタンの灯りを足元に、ある二人は寄り添いあい、ある二人は並びながらも視線は交わらず。あるひとりは近くから、あるひとりは少し距離を取って朗読主を見守る。マリアの手にはロカやロコのリクエストによって毎週異なる本、ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』からチャールズ・M・シュルツ『ピーナッツ』まで。
「大好きって、誰かの髪をくしゃくしゃにすること」「大好きって、ポップコーンを分けあうこと!」「大好きって、雨の中を一緒に歩くこと」「オラシオはだれと歩くの?」「えっ、……傘と?」
彼、彼女らのリクエスト内容をききマリアの手により本が選ばれ、一節が朗読される。絶妙なぐあいに挟まれるオラシオの解説。そうして本のストーリーと彼らの置かれた状況が交差し、タンゴのメロディにのせてショーが展開されてゆきます。夫が浮気をしているのではないかという疑惑から夢遊病にかかったロミーナとハビエル夫妻、甲斐性なしゆえに彼女の両親に結婚の承諾を得ることが難しいのではないかと悩むミゲルとアメリータカップル、そして互いに好意を寄せつつもなかなか近づくきっかけが生まれないマリアと椅子職人のラロ。

もう、まず最初に会場内に足を踏み入れた時点で組まれたセットの魅力的さかげんに震えておりました。舞台中央には積み重ねられた本で出来た大きく枝を張る木が、舞台上手下手にも本のみっしり詰まった本棚。本、本、本の山!文学なんとか、なんてそんな大層なものではなく、ただもうみっしり詰まった本棚を見ると多幸感で息が詰まりそうになる本フェチなんです。
ストーリーテラーである石井(一孝)さん演じるオラシオの本に対する造詣の深さ、舞台上で台詞としてこぼれ落ちるほんの少しの滴りからも、彼の頭にみっしりと詰まったその知識の豊かさが見えるように思われるのは石井さんご本人をうまくあて書きされているからなのかしらと。本をいとおしむその手つきも大仰なその仕草も、心底楽しんで演じられているなあという様子がひしひしと伝わってきてとても素敵でした。歌い手として登場される際の、スーツを着たびしっと決めたお姿ももちろん格好良かったのですが、あの野暮ったい眼鏡にカーディガン、白シャツ、スラックスのややもっさりとした、いかにも書店員然とした本ばかりに没頭してきたさえない服装がなんともいえず似合っていらしてかわいいなあ、と。大分目上の方にかける言葉ではありませんね。でもほんとうにかわいかったのだもの。
モチーフへの思い入れ所以のわたしのひいき目からかもしれません。だってオラシオ書店で働きたい、もしくは朗読会に参加するロカになりたい、と誰が思わずにいられましょう!マリアさんの朗読されるお声も耳に心地よく染み入るようで、そこがメインでないと知りつつもっと朗読してほしいなあと思ってしまったし。「ヨカナーン、お前のくちに口づけするよ!」
中央の本が詰まれてできた木が途中スクリーンとして使われ、そこに文字が映し出されるのも効果的だなと思いました。ただ1階センターブロックで観た二度目の観劇ではよくその文字が読みとれたのですが、本の積み方がぼこぼこしているゆえに(それが味を出しているのでここは変えてはならないのですが)、1度目の観劇の2階上手側から観たときははっきりと気づけなくて残念だったなと。様々な角度から観ても効果的になるように演出をしなければならないって難しいことだな、と当たり前の事に思いを馳せてしまいました。

タンゴという種類のダンスをそもそもに生で観たことがなかったので、加えて普段の観劇傾向的に、そうか基本二人一組で踊るダンスってこういう感じなんだ、と初歩の初歩、まぬけな感想を初見は抱いてしまったし、そもそもに何度観てもそのものを視覚的に受け容れて、すごい…!と思うほか技術を讃える言葉を持たないのですが、タンゴって足さばきがおそろしく求められるダンスなんだなということはよく理解しました。絡み合っているのか、高速な動きに過ぎて、それさえしていないのかすらわからない、目が追いつかない!先ほど男性の足があった場所に瞬きした次の瞬間にはもう女性の足が置かれている、といったぐあいに。ロミーナ役のCHIZUKOさんとハビエル役のHUGOさんのペアがやはりその道の方であるということで、素人目にも抜きんでて素晴らしいのはわかって、ぽかんとただ観ていることしかできないといったありさまでした。自然に目が吸い寄せられてしまう。HUGOさんやjorgeさんお二人の男性のリードがやはり抜群の安定で、一緒に行った友人と、女性側がどんなに無茶な動きしてもこのひとなら支えてくれる!って安心感があるよね、と話しておりました。男性同士、女性同士でペアを組んで踊るシーンもあって、そこも何とも言えぬ倒錯的(?)な感じでとても好きです。

『存在の耐えられない軽さ』の一組目のロミーナ、ハビエル夫妻のタンゴを観ている時はもう前述したようにただただ技術的にも、溢れてくる色気のようなものもすごいなあという印象だったのですが、対して二組目のミゲルとアメリータカップルの方はとてもかわいらしい感じ。中河内くん、というかマサが今回タンゴを踊るのが初めてということで、ポジション的にも初めからそういった振り分けだったのだろうなと思うのですが、恋人同士が二人で踊る喜びに満ち満ちている様子が伝わってきて、観ていてこちら側もにこにこしてしまいました。アメリータに「いくつになるか知ってるの?」って問われて「33!」って言いながら彼女の鼻先指でちょん!って触る28歳独身バツ2の甲斐性なしカフェ店員ミゲルかわいい。ミゲルとアメリータカップルは『コレラの時代の愛』という10代で出会った男女がいったんは分かれるものの、半世紀を経たのちに再び結ばれるという相当な忍耐を必要とする恋愛小説との交差で、10代にはじまり確か70代まで順繰りに曲と共に二人のあり方が描かれてゆきます。「ママ、やさしいママ!叱らないで泣かないで」の『Mama yo quiero un novio〜ママ恋人が欲しいの〜』も中央に据えられた造花の花壇を越えて出会う初々しい二人がかわいかったし、その次の『Flores del alma〜心の花〜』も「腕を組んでワルツを踊る様に暮らしましょう いつまでもまわり続けるよこの庭で」の、白いお家に白い犬、子どもは男の子と女の子がひとりずつ、的な”ファンタシア”がふと浮かぶようなふわふわとした幸福感も。しかし一番好きなのは『In Einer Kleinen Konditorei〜小さな喫茶店〜』でした。年をとって老夫婦(もしかしたら夫婦ではないかもしれない)となったふたりが、彼らが歌う歌詞のように「そばでラジオがあまい歌をやさしくうたってたが 二人はただだまってむきあっていたっけね」といったように、少し震えた手でポットを手にとってカタカタと音を鳴らしながら彩吹さん演じる老婦人のカップに紅茶を注ぐ石井さんの老紳士(というにはすこしくたびれた風だったかも)。その二人を微笑ましく見つめながら2番を継いで歌うミゲルとアメリータカップルの2組の男女の構図が、絵に描いたような「幸せのあり方」に見えてため息をつきました。椅子から立ち上がって2番あたりから身を寄せ合って軽く揺れるように踊る二人の老夫婦、最初老紳士のほうから手をのべたものの、そっちじゃないですよ、という風にやさしく逆の手をとる老婦人と、寄り添いあうことにおっかなびっくり、初めて想いが結ばれてどうしていいかわからない、といった様子にすら見える石井さんの表情がかわいくてここでもにこにこしてしまいました。その曲の後の朗読会メンバーの皆の前で祝福されるミゲルとアメリータもかわいいし、タンゴショーという意味ではメインディッシュはそこではないのかもしれませんが、組み合わせとしては一番好きなふたりです。

一幕はここで終わり、休憩をはさんで二幕からは椅子職人のラロとマリアさんがメインでした。
これまたタンゴがメインでない、ラロ演じる西島さんの、バレエといったほうが正しい振付だったのですが、ロミジュリの周さんの死が好きな身としてはところどころあの軽やかな動きを彷彿させる振りがあって懐かしく思い出してしまったりも。またそれとは関係なく、ここの踊りもとても好みでした。月明かりの下で密やかに行われるダンスゆえに「静」ながらも「生」ののびやかな躍動感にあふれているといった様子。
後ほどの二人の会話でですが「僕は夜の散歩が好きなんだ。石畳に月の光が反射してキラキラするのが見られて」でも堪能できる西島さんのラロの飾らない笑顔が本当に素敵でして。口数は少ない職人気質な人間ではあれど、こう見た目からとっつきにくいといった感じはなく、大きな相槌を特に打つわけでないながらもいつも聞き手にまわって、時々混じりっけないはっと人の目をひく無垢な笑顔を見せる、ご本人がどこか透けているのかしら、と思わせるような役どころ。ご本人が王子と呼ばれているというお話は伺っておりましたが、なんというかもう眩しすぎてきらきらとしているのはあなたの笑顔ですよ、と。天使なのかしら?とオーバーでなく思ってしまいました。

そんなラロにマリアさんが惹かれるのはよくわかるので、オラシオさん残念だったね…と端々から見てとれる彼からも向けられていたマリアさんへの好意に、実らなかった思いにも、肩を落とすオラシオの背中を叩いてやりたいような遠くから見つめていたいような思いに駆られるのですが、そんなオラシオがマリアさんに捧げる表題曲『ロコへのバラード』は石井さんの歌声がいかんなく発揮されていて、狂ってる、狂ってる、狂ってる!と椅子に崩れ落ちる彼を見ながら映像に残らなくともこの舞台のCDが出ればいいのに、と強く思いました。そう、三銃士の時はアラミスという役柄的に歌うシーンがあまりなく、その次に行ったBWMLでラテンノリの曲を楽しげに歌われているお姿を見てもっと石井さんの歌をききたい!と思っていたので、今回はその願いが叶えられて、そういった意味でもすごく満足を得られた演目だったのです。
表題でもある『ロコへのバラード』の衣裳路線がああいったものになるとは、と初見で目を見開きつつも、歌詞のシュールさ的にもマッチしていたのかしらと。ヴィーバヴィーバ!(ブラボーの意?)とマリアさんが両手を広げて叫ぶところや「月が大通りを転がっていく」という不思議な世界観もなんともいえず好きでした。
それから欠かしてはならない全員が椅子を一列に並べて座ったり立ったり椅子取りゲームのように位置を取り替えて歌い踊る『Che,Tango,che〜チェ・タンゴ・チェ』も。これはカテコの際にもマイクなしで歌われていました。思わず終演後も口ずさみたくなるノリの良い曲。

舞台とする場所が定められ、そこで繰り広げられるふたりの、あるいはひとりのストーリー。解決に導かれ、結ばれたふたりと、実質なにも変わることがないひとりと。ショーとしてタンゴを楽しむだけにとどめることもでき、それでも楽しめますし、読み解こうとすれば軸とするものはきっとあると思います。「家系樹の最後の一葉」というのはまだ実感とするには早すぎるとも、将来を見据えた際にあながち身に降りかかってこない、無視できる言葉ではないなあと、既にじわじわきている部分もあるのですが、ラロとマリアさんが結ばれる様な終わり方をしつつも、「最後の一葉になる」という部分をこの物語は否定的に描いているわけではないなと思うので。ある角度から見ればオラシオが彼の家系におけるその一葉かもしれない、語り手である彼はもうひとりの主人公ともいえるのではないかなと思います。男女の濃密な恋愛の物語、と銘打ちながらも、想いが実らなくとも、そこから零れ落ちようとも、オラシオ書店が、ロカやロコであるどこか世間一般的にははみだしものの彼ら彼女らを気軽に迎え入れる場所であるように、同じくいわゆる”一般の”営みから外れた人たちにもやさしい場所であるのではないか、そこまで描かれている作品だったらいいなあと思うんです。男女の、「家族」の物語、と明言はされていたけれど、たとえばこの先マリアとラロが家庭を築いたとしても、マリアとオラシオは互いにもう家族ともいえる存在ではないのか、等々。

本は彼らの歴史であり、生きてきた証である。そこには生命が宿っている。本をそのモチーフとする物語の、冒頭と最後の、人々の手から手へ大切に大切に本が受け渡されていく光景を浮かべつつ。