TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

負傷者16人−SIXTEEN WOUNDED− 5/20 千穐楽



年始くらいにふと我らがよしお先輩(敬愛の意をこめて)のお仕事情報を検索していた際にこの演目のタイトルと内容を知り、ちょうどアルター繋がりで(というには大ざっぱな括りではあるのですが)人種、宗教をテーマとした作品に興味を持ち始めていた頃だったので、タイミングがあればぜひ観劇したいなと思っていたのですが、この度運よくご縁があり、本日千秋楽を観劇してまいりました。

目を背けられない問題ながらも、遠い国のそれでなく、隣人の話のように胸に迫る、たくさんのものを訴えかけてくる舞台でした。

以下、扱うテーマ、政治情勢についての知識のなさゆえの拙い感想になってしまいましたが、ご容赦ください。












舞台はオランダはアムステルダムパレスチナ人であるマフムードが通りでフーリガンに刺されたところにパン職人のハンスが偶然遭遇し、彼を病院に連れてゆくところから話は展開してゆきます。入院中の自分への見舞いの対応、職がないのなら退院後はうちのパン屋で働けばいいというハンスの、見返りを求めない、マフムードがいうところの「施し」に最初は戸惑い反発するのですが、それでもだんだんとハンスの寛容な心、接し方に心を開いていき、結局彼はパン屋で働く事を決意します。
イスラエルで自分達パレスチナ人が受けた扱いからユダヤ人を憎み、それゆえにハンスがユダヤ人と知った時は激昂し「ユダヤ人の下で働くことはできない!」とエプロンを投げ捨てて店を飛び出してしまうのですが、パン屋で出会ったノラにその言動を、ばっかみたい!と批判されたのをきっかけに頭を冷やして考え、「あんたはユダヤ人ではなくパン屋だ(ハンスの言葉を引いて)。あんたには借りがある。あんたはいい人だ、あんなことを言ってすまなかった」と翌朝ハンスに謝りに行きます。マフムードのたどたどしさ、まっすぐさに、こんなに言葉を尽されてはハンスも許さざるをえないだろうなあと観ていて思わず微笑んでしまいそうになりました。頑固で、でも「忍耐」を知らず、どこまでも直情型であるがゆえに、怒りを爆発させる時も、喜びを表す時も相手にまっすぐ向かってゆく様。
時が巡り、ハンスとマフムードは単なる雇い主と雇われ側という関係以上の親交を深め、ノラとマフムードは恋人同士になります。しかし、恋人同士なのに出会う前の事をなんにも話してくれない、というノラの問いかけを拒み続けるも、とうとうマフムードが打ち明けた秘密は、イスラエルでバスに爆弾をしかけ、殺人を犯してしまった、という重苦しいものでした。告白に耐えきれなくなったノラが深夜ハンスのパン屋に忍び込み、その姿を見つけたハンスにノラが秘密を話してしまう場面は、個人的にひとつめに印象深いシーンです。その前の、ノラが新聞でロシアで老女が無残な死に方をしたという記事を読みあげるシーンで、そんな話はやめてくれ、とハンスが声を荒げていたことも伏線の一つであったのですが、「ここはパン屋だ!ここにそんな話を持ち込まないでくれ」という、今までマフムードにも広い心でもって接してきたハンスの、突然きっぱりと遮断するような言葉は、彼がこのパン屋に自分の目の前で起こっている以外の、関わり様がない惨い話を持ち込まないでほしいという意志のあらわれであり、彼自身の「こう生きたい、生きている」という方向性をよく表している言葉だと思います。それでも遠い場所での見知らぬ人が起こした事件ならば「関係がない」ですっぱり切り落とせても、ハンスにとって、今回ばかりはなかったことにできない。一緒に日々を過ごし、信頼している相手がかつて殺人者であったという事実を知りたい人なんているのかという意味でもハンスの反応は至極人間らしいものであると思うのですが、それ以上に、後からソーニャに、マフムードに語る、ハンスがパン職人になる前にユダヤ人としてどういった仕打ちを強制収容所でうけてきたか、自分の身を守るためにどういったことをしてしまったか、その過去を知った後だと、ハンスはマフムードと自分を重ねてしまって、必要以上の衝撃を受けてしまったのではないかとも捉えられます。だからといって、ノラがひとりで背負いこめずにマフムードとの約束を破って秘密を話してしまったという行動も非難できるものではなく、十分理解できることだなと思いました。目の前にいるその人が愛おしくて、今まで一緒に暮らして愛おしいと感じた時間は消せず、気持ちはは確かなもので、でも彼が犯した罪、過去はぬぐいきれるものではなくて、その日から今まで彼の生はずっと切れ目なく続いているものだと気づいてしまった。話を聞いてしまった以上、まるごと受け入れる事は不可能に近い、しかしおなかの中には彼の子どもがいる、というノラの立場。どうしていいかわからない、と泣くノラの横で立ちつくすハンスの姿は、観ているこちら側もどうしようもなさに頭を抱えたくなりました。あまりにもノラひとりで受け止めるには重すぎるもの。

上記シーンでも観ていて胸が苦しくなったのですが、翌朝出勤した、ノラが自分の子どもを身ごもったときかされたマフムードが「息子が生まれたら耳元でアザーンを囁いてほしい。これは大事な役目で誰にでも任せられるものじゃないんだ」と喜びのあまり、ハンスの両頬にキスを繰り返した後依頼をするシーンでは、あの頑なだった、周囲全てが敵のような目をしていたマフムードがどれほどにハンスに信頼を寄せているか、大切な存在になったのか、そして彼にとって自分の血を分けた家族ができることがどんなに嬉しいことかがひしひしと伝わってきて、先ほどとは違ってかなしいシーンではない筈なのに、気がついたらこみ上げるものを必死でこらえていました。休憩を挟んで2幕頭の、いやいやながら頼みを受けいれたハンスが、他国の宗教の祈りを「クッキーのレシピじゃないんだからさ」とマフムードに呆れられながらもぶつぶつと唱え一生懸命練習する姿と、それを笑って見ているノラの図、そして「ノラのお腹に向かって早く生まれてこいってアザーンを唱えるんだ」とマフムードに言われ、跪くのを拒んでいたハンスが恐る恐るお腹に触れる様、抗いつつも気がつけば自然に屈みこんでたどたどしい口調でアザーンを唱える姿は、ノラの後ろに立つ笑顔のマフムードも含めて、一枚の絵みたいに幸せな風景で、神々しくすらありました。全く血の繋がらない、生まれも国も宗教も違うひとたちが、初めは反発しあい、次第に寄り添いあって、家族を形成しようとする様がもう奇跡のようにうつくしく得難いものに見えて、揺すぶられたのかもしれません。その後のソーニャとハンスの後の会話で、ハンスの気持ちが吐露されることで、そんなにうつくしいものばかりに溢れた光景ではなかったと思い知らされるのですが。

ユダヤ人として祈りの際に跪いてはならないと父に教え込まれ、頑なに拒んでいたのに、ノラの腹に触れ、胎児の動きを感じたときに自然に膝は折れていた。その子に向かってアザーンを唱えている時はまるで自分の息子への行いをしているかのように幸せな気持ちだったのに、ふと顔を上にやって勝ち誇った顔のマフムードを見た瞬間、俺はあいつを憎み、あいつは俺を憎んでいると知った、と。口にした瞬間、はっとし「今日はマフムードの話をしにきたのではなかった」とうろたえるハンスに、それでもあの瞬間、そんなに互いを憎み合っていたはずがないでしょう?友人のように、息子のように思っている男の子ども、孫に対峙していると錯覚するような、幸せな気持ちで満たされていた部分もあったでしょう?と訴えかけたくなりました。あの瞬間を幸せに思えていなかったとしたら、それではハンス自身も報われないと。けれど同時に、ハンスが聖人のようにどこまでも懐の広い男ではなく、人としての欲求を思わず表に晒すような地に足のついた人間である事がわかるシーンとして、納得がゆくなと思える場面でもありました。
毎週日曜日に行く娼婦、ソーニャのところへこのとき金曜日に訪ねたハンスが、必死に彼女に求婚し、結婚後どうしたいか夢を語るシーンで、「ごめんなさい、キスするんじゃなかったわ」と愛してはいるけれどハンスの望みには応えられるような愛は与えられないと、そっと彼を拒むシーンも、前述のシーンとどこかリンクして、胸に迫って印象深かったです。
普段涙腺をぎゅっとかためにしめている人間がおかしいなと思うくらい、この場面でも、この後の場面でも事あるごとにぼろぼろ泣いてしまっていたのはなぜなのか、いまもこれを打ちながら考えています。

こうした彼らの幸せな光景が、マフムードの兄の出現により、一気に侵されてゆくであろうこと、これからこのままのかたちで続くことはないということを予感させるのが、観ていてとても苦しかったです。パレスチナ人として、パレスチナ人の為にテロを遂行しろ、さもなくばお前の弟や家族の命は保証できないという兄の要求を受け、マフムードは悩んだ挙句、深夜にハンスのパン屋に爆弾を持ち込み、そこをハンスに見つかってしまいます。彼らのそこでの口論の場面が、今までの二人の生き方の違いや重なる部分を全て晒した、目を覆い、耳を塞ぎたくなるような生々しいぶつかり合い、ハイライトだと思うのですが、「俺たちの問題だ」「俺の問題だ」「俺たちはこれからどうしよう」「俺がどうするかだろ」とハンスがひとりかかえこもうとするマフムードの重荷を一緒に持とうとしても、マフムードは頑なに拒む、というやりとりがとても印象的でした。こんなにも分かり合いたいと思っている二人が、どうしてここまでも噛み合わないのか。生きていくためにユダヤ人の両親から逃げ、パン職人として生きてきた、既にそれ以前の過去は捨てているようなハンス、マフムードの為ならユダヤ人であることをやめる、と両親のかたみを投げ捨てまでするハンスの姿に、あんたは卑怯だ!と、自分自身の民族を誇りに思ってそれをまっとうしろ!と激昂するマフムードの姿に、もう根本的な相いれなさ、断絶を感じて呆然としてしまいました。戦意喪失しナイフを投げ捨てて握手をしようと差し出した相手の手に、拾い上げたナイフを再度握らせて「それで俺を刺せ、最後まで戦え!」というような。このひとは何を言っているんだ、それでは永遠に分かり合うことを拒んでいるのと同じじゃないかと思いつつも、パレスチナ人として生をまっとうしなければいけないと頑なに信じ込んでいるマフムードにとって、ハンスの行いはアイデンティティを自ら放り投げてしまうようなことであって、それこそ理解できないことだったのだと考えれば仕方がないのだろうかと。マフムードにとって、足元を脅かすような、自分はどうすればいいんだ、何者として生きていけばいいんだと、自我の崩壊にも繋がってしまう様な出来事だったのだと思います。だからこそ、様々な思いがこみ上げないまぜになったなかで必死にマフムードがしぼりだした、ハンスへの「あんたの息子になりたかった」は本当に一気に胸に染み入ってしまい、もうすでにマフムードとハンスは友達だし、あなたは彼の息子だよ、だからハンスにすべてを任して行ったりするなって声をあげて叫べない代わりに声を押し殺して泣いてしまいました。彼らの胸がひりひり痛んでいるのが明らかで、きっと見ているうちにその痛みが移ってきてしまったのだと……「明日の朝になれば、」とマフムードを送りだすハンスは、これが最後の別れだとどこかでわかっていて、それでも祈るような気持ちでそれを口にしたのではないでしょうか。
生まれ育ちで全部決まってしまってやり直したり生まれ変わるのは困難で、一度大きな間違いを起こしたらもう一度チャンスをもらうのはむつかしくて、全部忘れてまっさらになれないということ。忘れたつもりでいても過去はしっかり皮膚の下に息づいていて、それを引きむしったら自分でなくなってしまう。そういう人もいるという事実、もしかしたら自分も切実さの大小はあれ、どこかで同じような局面に誰かとぶつかることがあるのかもしれないということを目の前に突きつけられたような気持ちで、息が詰まるような心地でした。
それでも、別にまるっきり善人でもなんでもない、いまはなんとか市井の人として生きるハンスが、かつてチョコレートケーキを盗もうと店に忍び込んだ自分を許し、更に匿った人への借りからマフムードを救ったという事実は、マフムードの未だ断ち切れない負の連鎖に対抗するにはかかった時間と影響を及ぼす範囲としてささやかなものだとしても、結局自爆テロを犯したマフムード自身のことは救えなかったとしても、なにかに繋がるヒントの芽のようなものを含んではいないだろうかと信じたくなります。もちろんそれは受け取り手である私たちに投げかけているものであって、この作品中の彼らを救えるものではないのですが。ラジオから流れる「負傷者は16名」という放送に、呆然と立ちつくすハンスと、不安で泣き叫ぶノラの背後の黒い染みが、ゆっくりと大きく広がって、彼らをのみ込み光景が目に焼き付いて離れません。

かつてのハンスを救ったパン屋の主人は司教様のようなひとで、ハンスはバルジャンだったのかとも、そうではなくごくごく普通の人で、もしかしたらハンスと同じように「借り」があったのかもしれないとも考えられるなあと。

マフムードの「我が友」という言い方が、そこに対象への尊敬の念やそんなひとと友人でいられることへの誇らしさが詰まっているように感じられてすごく好きでした。




トルコはイスタンブールを舞台にしたお話なのですが、この『負傷者16人』を見て、多様な文化、宗教、歴史、政治がテーマとなっているという点がリンクしたのか、私の大好きな作家梨木香歩さんの『村田エフェンディ滞土録』という作品のある台詞(古代ローマの劇作家の作品に出てくる言葉だそうですが)が浮かんだので記しておきます。

「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」