TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

雪組公演 『ひかりふる路(みち) 〜革命家、マクシミリアン・ロベスピエール〜』おかわり

最終的に、いますべてのものに感謝のポーズ、という気持ちになった作品の感想。

ムラ初日に観劇した時はうーんこの作品どうかなはまらないかもなと思っていたのに、ムラ楽を観たときは(3回目にして)このあと東京公演があるなんて信じられないくらいしみじみ満足した気持ちになっていたくせに、2月10日のソワレを無理やりねじ込んだあとに残ったのは、悔いがないどころか10回は追加できるし、せめてライビュが観たい(仕事だった)という気持ちでした。 すべてが私の中でぶつかりあってる……愚かな女なの、と手すりを掴んでずるずるとしゃがみ込みたい(あそこのきほちゃん細すぎていつか牢屋の隙間をすり抜けられるのでは!?と思って見ていた)。 自由であることをやめることはできない、と輝く笑顔で歌っていた人がどんどん孤独に追い詰められていく苦悩の横顔が美しくてたまらなくて、好きな役者が転がり落ちるさま、感情の振れ幅をこんなにあまさず描いて味わえる作品もなかろうと、生田先生に感謝のポーズで念を送っています。私は私の死を望む、のマクシムの表情を見ながら、背負っていた重荷が一気になだれ落ちてきた苦しさと、もう背負い続けなくていいことへの安堵の気持ちがないまぜになっているうつろな微笑みに胸がぎゅっとなるけど、同時に、追い詰められる望海さんがほんとうに大好物だなと毎回ぞくぞくしていた。

後半日程のチケットを怒涛の勢いで駆けずり回って追加して、ほぼ一日置きに観劇していたことと、楽間際の演者の熱量の増幅もあわさってか、毎回違って見えるってこういうかんじなんだ、と宝塚の大劇場公演でこんなに自分の目で見て、実感したのは初めてかもしれないです。話の大枠が変わるわけじゃないし、ひかりふる路を歌ったマクシムくんは、毎回彼が背中に守ろうとした民衆の、一つの心と一つの声が重ねあった結果として断頭台に送られる。でも息を詰めて見つめていた今日だけは、もしかしてダントンの説得が成功するのでは?と思える瞬間があったりする。
「今日は立海が勝つんじゃないかと思って観てた」みたいなことを言っていた友人のことをふと思い出した。私は自分の推し学校(ルドルフ)が勝つと思って観たことは一度もなかったですが、という脱線。

私が感じていた「違い」は今日は調子が良かった、とかそういう演者のパフォーマンス、作品としてのできの話ではなく、ある到達点へのアプローチの方法、山の頂上に旗を立てることは決まってるけどそこまでの道のりが毎回ちょっとずつ違う、というような「違い」です。適切なたとえが難しい。

この作品で、初めはあんまり納得できないなと思いながら見ていたのに、毎回ちょっとずつ違っていって、最終的に一番受け止め方が変わったのはダントンというキャラクターだったかもしれません。いきなりダントンの話をする。受け止め方がわからなくて、ある意味一番この人についてぐるぐると考えてしまっていた。メモを見返したら同じ場面の受け取り方について何度も同じ気持ちを若干言葉やたとえを変えて書いていたり、気持ちに変化が見られておもしろい(私だけが)。

▼1月前半~半ば
ダントンみたいな性格の人だったら、もっと前からマクシムの革命への傾倒ぶりを危ぶんで「お前は自分の喜びのために生きていい」をやんわり伝えていそうだし、その段階のマクシムなら「革命に身を投じて新しい世の中を切り開くことこそが私の喜びだ」くらいのやりとりがあってもよかったと思っていた。そもそも「革命」ということばばかり先行して具体的な中身がまるで見えてこない感はあるのだけれど。「どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」の「どういうわけか」に前からダントンがマクシムのやり方に疑問を持って、革命こそわが命、みたいなのは建前で本当は何か自分の楽しみを押し殺しているのだろうと疑っていたというニュアンスが含まれているように感じたのですが、 マクシムくんは建前=本音人間なので、友だちにそのことに気づいてもらえてなかったのって、相当さみしいよなと。そういうすれ違いって、ないことではないとは思うけれど。

▼1月半ば~後半
会食の場面で語りかけるダントンに「不幸な人民が1人でもいる限り!」と声を荒げるマクシムを見ていると、全ての人間を愛さない人は敵だ!(ジーザスを模す少年が口にする皮肉な台詞)や、愛するって人を分け隔てることじゃない、と気付いて修道女になった『愛すべき娘たち』の彼女の言葉が浮かぶ。 目の前にいるダントンもまた、友と仲違いした「不幸な人民」の1人なんだよなと思う、広い意味では。 マクシムくんはハイパー無私の人だから見ていて不安になるし、そういう意味での、おまえにとっての人生の喜び(欲望)ってなんだ?と問いかけるダントンならわかるかもと思った。どろっとした欲望という意味での自分の幸せを追求しない人間なんて信用できないよ、という彼の語りかけ。

▼2月
健全な男にとっての人生の喜びは一律酒と女と食い物だろ!みたいな前提は受けいれがたくとも、俺にとっての人生の喜びはこれだけど、おまえにとっての喜びはたぶん違うんだろう、でも俺はそれがなんなのかわからないんだ、だから教えてくれよ、ってことならわかる。人間として話し合いはできる。
量の大きい男ダントンと、大事を成すにはあまりに力がないマクシムという構図のほうが対比としてスッキリして見えるけど、ダントンだっておまえたちは現実が見えていないって年の功のおじさんにいわれて、チックショーって走り去る悩める青臭い若造のひとりなんですきっと。
そうやってタレーランに言われたことをマクシムに繰り返しているんだと気づいたら、現実の前では無力、のダントンがマクシムをなじる比重よりも自分のふがいなさを自嘲しているようにも思えて、そういうかっこわるくて人間くさいダントンは人として魅力的だなと一瞬考えてしまった。 ラスト一週間にして、ダントンにほだされかけたのはわたしです。
「血と、生首と、恐怖だァ~~~!」がいままで「おまえんち、おっばけやーしき!」みたいなおもしろ節をつけてるなあと冷静に見てしまっていたけれど、2月最後の週のソワレでは「血と、生首と、恐怖だ」と噛んでいい含めるような言い方に変わっていて、他の台詞も真剣勝負感が増している気がして、大仰でガンガン押しより私はこっちのぐっと踏ん張った引き算の方が好きだなと思った。だからこそ2人とも諦めないで!もうちょっとだよ!!みたいなかなしい気持ちにもなったけれど。マクシムくん的には100パー本気で本音だけど、ダントンから言わせたらそれは民衆にはちょっと意識高すぎる言葉だし具体性がないように思えてしまう、身近に引き寄せられない理想だから、もう少しおれたち俗世を生きる人間にもわかる言葉でオーケーな???ご飯の話とかにたとえてみようぜ!=前略はるかに有徳だ!という言葉になるのがわかってきた。

▼ラスト観劇間際
「お前はどういうわけか、喜びを遠ざける」が、マクシム、なんでなんだ?って「どういうわけか」わからない、苦悩しているひとの弱り切った声で、彼の人間としての真摯さが見えるようで好きだった。説得を、信じていた道を諦めたから、そこで試合終了になった、みたいな人が多い話だから、信念を貫くことの困難さを噛みしめるし、同時に別れたくないひとに粘り強くぶつかってゆくことこそがひととしての誠実さで、そこにはかっこつけてる余地なんかない、いかにみっともなくなれるかだよダントン!そういう斜に構えない本音の説得ができるのがあなたの本当の格好よさだと私は思うよ!!みたいな気持ちになりました。おこがましい上にもはや立ち位置が不明でした。
この日の処刑直前のダントンの笑い方が、片方の口の端をくっとあげるやつじゃなくて、がばって大きく四角く開く快活系だったのになんだかぐっときてしまった。
あくまで自分の心の中の処理の問題ではあるのですが、ダントンというひとの落としどころがつけられてよかった、という話です。

マクシムくんたちの話に戻ります。
もちろんマクシムくんのことを一番凝視していたので、彼の変化を一番記憶しているはずなのですが、熱量ではなく、台詞のニュアンスが変わったなあと思ったのは、彼が自分の理想や願いを初めてマリーアンヌに話す場面でした。彼女への「きみがそう望むなら」がムラのときはもっとほがらかな口調だった記憶があるけれど、東京に来て「そう望んでくれるだろうか…」みたいな期待と不安まじりのトーンに聞こえるようになった。のぞみさんには相手が自分を愛してくれるかどうかわからなくて怯える、愛に焦がれてる人の表情が似合う。

また、あの場面に焦点を当てて見ていて、最後にマクシムとマリーアンヌが歌う曲がひかりふる路ではなく「今」なのがストンと落ちた日がありました。きみの笑顔だけでいい、と初めて歌ったマクシムが小さく口を開けて自分の言葉に驚くのは、恋愛感情の芽生えというだけじゃなく、民衆や国のことを考えなければいけない自分が目の前の1人の人間の笑顔だけで他に何もいらないという気持ちになってしまうことへの驚きだと思う。それがマクシム自身の「人生の喜び」につながり、そういうささやかなひとの幸せが積み重なっていくことが、本来の革命の目的や達成じゃないだろうか。マクシムが見据える高い理想の第一歩、足元に立ち返らせてくれた人がマリーアンヌだったのかなと。だから最後に「今」を歌うことは、今までの彼の方針と矛盾しているようで、本当は深掘りの結果で、彼の心のなかで起こった小さな革命の表れのような気がします。 それは自ら死を選ぶことを安易に肯定することとは違う。

ここのマリーアンヌとマクシムの台詞の応酬が、最初の方は言葉として硬く聞こえて、気持ちを寄り添わすのが難しい台詞を時々書くよね生田先生…と思って見ていたのですが、ふたりの、特にきほちゃんのマリーアンヌの台詞が湛える情感が回を重ねるごとに増して、どんどん「生」の言葉に聞こえてきて、定型気味で気になるなと思っていた「すべてが私の中でぶつかりあってる…愚かな女なの」のところもすっと受け取ることができるようになりました。 彼女のマリーアンヌを見ていると「あなたのためには死ねない、でも生きてゆくならあなたとがいいな」(神風怪盗ジャンヌ)を思い出す。どんなに泣いていても、伝わってくるのは生命力の強さ。

牢屋どうなったんだよ!?抱き合ってキスもしちゃうの?とか思われる方は思われるのかもしれないけれど、宝塚的様式美、ということだけでなく、あすこでぎゅっと抱き合って、それからマリーアンヌの背をぐっと押し出すマクシムが描かれているのがいい。ゆく道が違う、互いの表情は目にすることはできないけれど、階段を上る直前のマクシム、牢屋から出ようとするマリーアンヌ、ふたりのそれぞれの泣き笑いの顔、というラストが好きだなと思う。

ひかりふる路を生で観られてよかった。きほちゃんと望海さんがトップコンビとして活躍する時代に間に合ってよかった。ただただありがたさを噛みしめています。もう劇場のあの空間に身を置いてひかりふる路が観られない、という実感が楽翌日、起きた瞬間ドドーッと心に打ち寄せてきてすごくさみしかったけれど、これからのふたりがどんな光景を劇場の舞台上に見せてくれるか、それを楽しみにして過ごしたいです。