TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚雪組 『壬生義士伝』

壬生義士伝、ここが好きじゃなかった、という楽しくない話をします。

観劇後しばらく経つと、いやそんなに悪くないのでは…?と思い、再度観劇すると(そんなことはなかった…!)と新鮮におののく、というのを繰り返しているこの頃です。

メインテーマの美しさ、みよの「ふんっ」八木のおじさまの「これっ」、好きだった場面の話はまた気力があれば…

 


大前提として、私は義を貫くためには自死も辞さない武士を主人公として設定した物語を、トップスターの生き方を批判的に描く、観客が俯瞰して見る・捉えるのが難しい宝塚の作品として、あまり見たくありません。なぜ見たくないのかというと、この時代はこんなこともあったんだよね、と現代から遠い時代の出来事として切り離すには「武士道、侍の精神まで海外に売り渡しておらぬ」という価値観がいまだ古びていないような社会で生きている不安があるからです。この物語の系譜を好む層が多くいる、という事実を宝塚を観にきてまで突きつけられたくない…!

 


壬生義士伝は義イコール「妻子を養うこと」としているようなので(その割には途中主人公がぶれた振る舞いをすることへのフォローがないが)、そこを主眼として宝塚で上演する際にうまく書けば自死という選択を安易に尊んでいるように見えない作品になったのかな?と思います。しかしそれはそれで、他作品で描かれてきた皆がイメージする「死ぬことと見つけたり」な武士像こそフィクション内での主流と考えた時、イレギュラーな武士であるはずの吉村貫一郎という人を「あいつこそが真の侍!」と讃える物語として回収し、主流の武士像を書き換えようとする試みにも思えて、歴史修正のようで微妙だなと思いますが。


原作は物語として好みではないが、多くの人に読ませる力があるとわかる作品、宝塚版は浅田次郎氏は寛容だなとびっくりする作品、と捉えています。

 

好き嫌いの話をはじめにしたのは、好きではないと一言でいっても、物語としては一貫性があるし場面を設定した意味もわかる作品と、表現したかったことはわかる、でも一見して作り手が意図したようには受け取れない場面や説明なく挿入することで話の軸がぶれぶれになる場面が混在している作品があり、宝塚の壬生義士伝は後者だと思ったという話がしたかったからです。

家族を養う、生きるためにひとを斬る吉村が負け戦に突然突っ込んで行く場面のフォローが何もない、金に執心する様子を面白い場面として据えてしまうこの作品は、物語の軸がぶれぶれで、それにもかかわらず個々の場面で役として質量を感じる演技をする舞台の上の方々は凄いなと思います。思いつつ、集中力をぶつ切れさせるような場面が挟まれるなかでは、作品全体を通じての印象に引きずられ、やっぱり「すごいなぁ」というひいた感想しか出てこない。

その都度の場面を目撃して、チャンスの神様の前髪をひっつかむように瞬時に応じて泣いたり笑ったり出来る、この物語をポジティブに味わい尽くす力について考えたくもあります。


先日隣の席の方がこくり…こくり…としていて(疲れているんだな…)と思っていたら、いつのまにか復活していた上にすすり泣きが聞こえてきて(疲れているんだな?!)とびっくりした鬼です。

(しかしさすがの鬼も、嘉一郎とみつのあまりのけなげさにはここ最近心をほだされつつある…)

 


鹿鳴館

本作の作・演出家の他作品を見ると、物語の外枠に解説役を設置して、解説役の場面と物語本編を行ったり来たりしながら進行させるタイプの物語が多いという印象があります。と、書いていて気づきましたが、宝塚にも、宝塚でなくてもそういった構造の作品はたくさんあるし、あのエリザベートも(宝塚でも上演しているけど)言わずもがな、ルキーニが解説役に当たる作品。作品の作り方として解説役を立てることが悪いわけじゃない。でもこの解説パートいる?と思ってしまう理由は、解説パートの人たちが作品の進行にうまく作用しているとは思えない会話を繰り広げていること、途中で説明なしに人数の増減があることです。

このパート自体の意味をよいように解釈するとしたら本編の苦しさを和らげる、閑話休題の役割を果たす場面かなと思うのですが、鹿鳴館パートに入るたびに人ががやがや出てきて喋り出す、なぜ彼らが歩いているのか特に理由が見つからない(そこに銀橋があり、動きがあったほうが舞台として映えるから、以外の)という芝居では、ただ本編の内容に水を差すだけかと思います。


宝塚のお芝居はスターの役を作ることでこの人はスターですよ、とファンに示す役割も果たさないといけないので、解説パートを作ればその分スターが演じる役を増やせるというのはわかります。しかしそのために原作にも存在しない、物語本編にも名前しか出てこない、主人公吉村に一切関与していない松本良順を登場させ、又聞きした話と新撰組・幕末トリビアをくどくどと喋らせる場面をあのボリュームで追加する必要性を、物語の展開上、私はあまり感じませんでした。役を作らなければならないという宝塚の制約があるのだとしても、もう少し物語として、鹿鳴館にたまたま居合わせる用事があったという以外に彼が登場することの必要性を観客に感じさせる設定が欲しかった。そしてその設定をただ言葉で説明するのでなく、演出として納得いく形で見せて欲しかった。現地で実際観劇しての感想かと思ってよく読んだら、ツイッター上で他人のレポをかってにまとめて自分の言葉のようにつぶやいている人のような信用ならない役回りになってしまっていて、演者が気の毒だなと思います。さっきまでいた斎藤がいなくなった途端に当人の噂話(斎藤は自分も他人も愛せない男だった)をするのも、池波がいない間に池波から聞いた話を自分の手柄のようにするのも、あまりに役者の出捌けの都合、スターの立ち位置確保のための台詞の水増しの意図が透けて見えてうんざりしてしまうし、そういった物語自体に関わらない要素を頭を打って忘れたとしても、このお医者さん、守秘義務をペラペラ他人に話そうだな…という印象しか与えない。口が軽い話が長い軽率な人間として松本を描きたいなら話は別ですが。


また、解説パートの会話の中に「リストラ」「玉の輿」など、現代人(?)がわかるように置き換えた言葉の解説が入るところ、歴史小説で時々地の文でこの手の解説が入ることがあるのはわかるのですが、壬生義士伝という物語の主軸が何か考えた時、この解説に時間を割く必要はあったのでしょうか。百歩譲って「リストラ」は「武家社会」に関係のある解説として必要だと捉えても、後者「玉の輿」はどうでしょうか。「物語の必要性」としては、舞踏会に参加させるためという名目で集められた芸者・女学生たちがレッスンへの参加を渋る、という話の決着をつける意味があるのだと解釈はできます。しかしそもそも「玉の輿」に乗ることができると説明して舞踏会への参加を承諾する女性たちを描くことと、壬生義士伝に何の関係があるのか。娘役の出番が少ないからきれいな洋装をする娘役を大勢出せる場面を作った、という意図はわかります。でもその意図を読み取ることと物語の中にある場面として必要がある1ピースとして認識しながら楽しむことは別です。

乱暴に作られた場面を乱暴に物語の意味に引き寄せるとすれば、武家社会の貧富の差で亡くなった人の辛さを描いた話で「玉の輿」を持ち出すことは、大政奉還後、武士がいなくなった時代であっても身分制度は残ったまま、貧富の差は大きいので、豊かな暮らしをしたい女性は玉の輿に乗れるよう頑張ろうね!のれなかった人はごめんなさい!という話に読み取ってしまっていいのか。あるいは大店の娘のみよと結婚しなかった吉村への皮肉? 


物語の中に登場する人物の言葉をそのまま、作家の普段の思考から生まれた言葉と捉えることはとても危険かつ短絡的な発想です。でも女性がかなりの割合を占める宝塚歌劇の客層を熟知していて、壬生義士伝という作品の最後に物語の必然性なしにこういった台詞をオチとして用意してくる作家やその作品を、信頼しながら鑑賞することを求められても正直困る。年配男性の性的なジョーク、セクシャルハラスメントに追従笑いをすることをマナーとして求められていた時代の名残で笑っている人もいるような空気は感じていますが、単純にこの手の台詞を不快と捉える層がこれから観客に増えていくことを実感していないって、ものを作る人として致命的ではと思いました。


また、その会話に参加していた一人のビショップ夫人ですが、日本の文化に知識がない、好奇心旺盛の場の空気を読まないキャラとして、解説の導入のための質問を投げかけるキャラとして配置されているはずにもかかわらず、鳥羽伏見の戦い後の会話で「ボスの幕府がなくなっても、新撰組は、忠義に生きたのですね」と武士である彼らの判断に寄り添ってしまっていて「オー日本人ファナティックですねー!?」くらい驚愕してほしいと切実に思いました。現代に生きている私でも新選組や武士の組織の描かれ方の恐ろしさに驚きっぱなしなのに、異国の文化として接する彼女にとって見たら信じられないことも多々だと思うのですが…ステレオタイプのカタコト日本語を話す、物語の展開にあまりに都合のいい「外国人」役を配置することへのためらいなさに、国外進出を目指している宝塚、という話はもう潰えていたのかな?と思いました。

会話の内容以外にも、過去回想(本編)に登場する人たちの登場場面が解説パートに隣接する場合、解説の場から唐突にいなくなるのも特に説明がなく、とても不自然です。鹿鳴館の廊下はあまりに長いので歩いていると人がどんどん消えるのか、はたまたみんなトイレに行ってしまったのか…そうして誰もいなくなった、にさせないために本編に登場しない、松本・登喜・ビショップ夫人・鍋島侯爵夫人・みつ(成人)という役があるのかなと思うのですが、みつは夫がいないのに残っていると会話に不具合が生じるからか、最少決行人数4人になっている場面(鳥羽伏見の戦い後の説明)もあるので、こんなに不自然な人数構成になることを前提として解説パートを作る、という発想段階からもううまくなかったのだと思ってしまいます。

 


・おもさげながんすの扱い

「お手当」のことを尋ねた吉村が「40俵」の重みに頭をさげ、その様子を新撰組の隊士たちが笑う場面、初日観劇した際は彼を笑う隊士らの浅はかさを見てハッとする場面だと思っていました。でも笑い声が起きることに首を傾げながら、友人と話し合い、あれは和やかな場面として作っているのではと気がつきました。

冒頭、斎藤一が吉村について「誰からも好かれ愛され」と口にします。直後に吉村がせり上がるというタイミングでの台詞であること、感動を盛り上げるBGMを考慮すると(トップ初登場のBGMと言われたらそれまでですが)、これは斎藤一だけが思い込んでいることとして限定して語られていることではないと推測されます。これから始まる物語を読み解く助けとなる言葉、観客にその前提で物語を追ってほしいと印象付けるための台詞だと思います。それを踏まえて読み解くと、隊士たちの吉村への「いじり」(おもさげながんす)は全て好意的なものという演出の意図があることは明らかです。

そんなことを舞台上から読み取ろうとしていたのに、戯曲にはっきり「和やかな雰囲気で溶暗」と書いてあってがっくりしました…。


吉村が故郷の妻子に送金しているという事実は、自分だけでなく、家族の命をも明日へ明日へと繋いでゆく行為にも思えます。今日この日分の命しかないかもしれないと思って人を斬って生きている新撰組の隊士にとって、吉村の行為は自分たちの置かれている状況とちぐはぐで、腰のすわりが悪い行為で、だからそのことを知ったある隊士が居心地が悪くなる、という場面が原作では効果的に描かれていたのですが、そんな新選組隊士たちの心の機微を、おもさげながんす和やかムードの場面は一切すくえていないように見えます。


初日で抱いた印象の通り、私は「いじめ」の場面としてしか捉えていなかったので、この場面には毎回びっくりし続けているのですが「クビと言ったのは場を和ませるため」(関西の某お笑い企業のトップ)と類似の発想からきているのだと仮定したら納得しかありませんでした。いわゆるパワーハラスメントか。


気にくわないという理由で簡単に人を斬る、誰かの面子を保つためだけに隊員に腹を切らせるなど、人の命が関わる度を超えたパワハラが横行する野蛮な組織において、皆と違う行動をとる人間をからかうことで仲間に引き入れる儀式を執り行う、というのは組織のマッチョな体質を考えるとある意味とても一貫性があるなと思います。宝塚の壬生義士伝における新選組は「俺たちは一体何のために戦っているんでしょうか」という池波の言葉にこちらが聞かせてほしい、とツッコミを即時入れたくなるくらい、内輪もめに徹している組織なので(「お手当はいかほど」の場面くらいしか「ボス」の話が出てこないのにいきなり「忠義」の話をされても困る)。でもこの場面は、新選組の和やかな一面(?)を描くと同時に、吉村の「お手当」への執着を描く大事な場面でもあります。

私がこの作品でレポートを書くならタイトルは「金の扱いに見る壬生義士伝」にするなと思いました。武士たちのお金の扱いと命の扱い、重さが連動していて、でも軽く扱う側が重く扱う側を「笑う」という表現だけでその差を示すと、原作で描いていたような武士の存在の複雑さが描けません。吉村が家族に送金していることを知った隊士たちが、その姿におのれをかえりみて彼の行為を見てはいけないもののように慄く心に、武士という存在のややこしさが見えてくるエピソードだと思うので、吉村の姿をおもしろがってしまうと話の軸自体がぶれるだけでなく、お金によって繋がれる命も軽く見えてしまいます。こんなに肝となる場面の意味を変更されて、原作者は腹を立てたりしなかったのか、気になります。

同じ理由で、介錯代を追加で土方に無心する場面、谷の死因を他言しない条件で斎藤に金を無心する場面も、面白くしてしまったらいけないことがなぜわからないのか。前者は客席から自発的に上がっている笑いかもしれないけど、その前に「おもさげながんす」をすでに笑いのネタとして使っていたらそういう場面として捉えるのが自然だし、後者はもっと積極的にBGMで笑わせにかかっている。武士は食わねど高楊枝、な新選組隊士に守銭奴として蔑まれる場面があるのはわかる。でも吉村が金を必要な理由を描くこと自体が彼の義を描くことにも繋がるのに、その義を他の隊士が理解できないものとして描いたとしても、隊士たちが軽い意味づけでからかっているように受け取れる場面を作る人は、この物語のテーマを全く理解していないか、さもなくば突発的に笑う・泣ける場面を作って最初と終わりにテーマを現すような場面を挿入すれば、観客は騙されるだろうと思っている、観客の読解力を低く見積もっている人です。

 


・ろくでもない新選組

華やかな登場に騙されてはいけない人たち。彼らがかっこいいのは演じている人たちが雪組が誇る美男子だからであって、彼らの生き方がかっこいいわけじゃない。あとあの場面の照明、切り替えが素早すぎて全体を見ると目がちかちかしてつらい。

「おもさげながんす」の扱いでも書きましたが、御旗の場面で池波くんに「俺たちはなんのために〜」と苦悩されても、もっと身内でよく話し合ってくれと問いを突き返したいほどに、この壬生義士伝の中での新選組の描かれ方って内輪揉めばっかりしてるろくでもない集団ですよね。彼らの義とは? ろくでもない印象だけを植えつけたいなら大成功していると思われるのですが、ろくでもないなりに一応目指す組織のプランはあって、それを達成したから幕臣に取り立てられたんじゃないの? 仲間割れしているところを買われたのか? 大政奉還後に「親をなくした」「天下の孤児になってしまった」と歌われても、親の存在が「幕臣に抱えられた」という言葉以外できちんと描かれていた記憶がないので、別に親がいなくてものびのび暮らしてたよね? 放蕩ドラ息子? 知識で補うにしても、もう少し時間を割けなかったのか。誰に仕えていたかを描かないと彼らの忠義のありかがわからないし、この物語のテーマの吉村の義「妻子を養うこと」=「妻子に仕えること」との対比にまったくならない。彼らの存在意義がぼやける。


ろくでもなさが辛い筆頭は無念腹で切腹させられる小川の場面だと思うのですが「3人揃って切腹しましょうか!?」までは土方の命令を反故にする流れでもしかしてまともな人達かなと思わせておいて、斎藤登場の段階で完全に気にくわない谷に一杯食わせるためには涙をのんで腹を切ってもらおうという話にすり替わっていて、悪巧みのスピード感についていけなくなりました。あいつを肥溜めに落としてやろうぜー(古)というレベル感で人の命を奪う人たち。

また、ろくでもない人の残虐な行為を笑う場面として描く際、笑う場面として作りつつ笑った側に笑ってしまったことへの違和感を残すことで、作品のテーマを浮かび上がらせる方法もあったと思うのですが、そこは宝塚歌劇なので気楽な笑いを観客に提供しなければならないんですね、とばかりに谷を私怨で斬る場面の一連の流れが、笑った人にまったく何も違和感を残さない、すっきりおもしろ場面として扱われていること、その描き方の雑さにとても驚きました。ホラーの中でゾッとしつつもなぜか笑えてくるというような描き方でもなく、斬り合いをしていたのに突然「はいここで笑う!」と号令をかけられる。友人がドラえもんみたいなBGM流れてなかった?と憤慨していて、確かにホワンホワンほわ〜ん、みたいな音がなっていたことを思い出した。私刑という行為としてはひどすぎて本来は笑えないところを、大根演技と面白いBGMを指定することで力技で笑う場面としている。それって演出と呼んでいいんでしょうか。宝塚の演出はこれくらいわかりやすい、幼稚なものでいいと演出家は認識していて、実際笑う観客はいるから許される範囲と思っているのか。高度なギャグとしては描いていない自覚はあるだろうけど。条件反射で笑う人の笑い声を耳にして、前後の文脈をまったく考えていなそうなそのほがらかさに寒気がしたのですが、客席内での断絶を浮き立たせる意図があったのだろうか。

新選組をろくでもない組織として描いている以上、その組織に所属する人間はこういうことをするのかな、という意味での登場人物の行動の一貫性と、彼らの行為を観客にどう受け止めてもらいたいかを考えて演出することは別だと思います。


吉村に無心され、土方に咎められた斎藤ですが、土方はあくまで組織のルールを破った、ということに重きを置いている。彼らへの20両の意味を考えると、谷を殺すという行為自体は土方の計画の範疇として収められているのだと推測されます。飲み代として使われる20両と故郷の妻子へ送られる20両、もしかしたら何か対比して読み解くべきなのかもしれません。


誠の群像とまったく同じ手法だと思うのですが、おれたちはワルだからヨォ、と肩で風を切る男たちは、腹を切らせる、他人を斬る、頬を張る、といった行為を、目には見えない男のメンツを守りあったり、回復させあうための儀式として扱っていて、彼らはワルぶっているつもりでいても、結局男子中高生が先輩の顔色を伺って万引きする、たばこを吸うレベルと同じ程度のワルさじゃん、空気の読み合いでしょ、と思えるレベルの軽さで、私にはまったく格好よく見えないです。男役さんたちが演じる役の型、所作をかっこいいと思ってしまうのと、作・演出家が定めた物語での役の描かれ方がかっこいいかどうかはまた別。

同調圧力を感じ、空気を読み合うのって辛くないのかな。そんな「男らしさの檻」に入っている苦しさを斎藤一のような「自分も他人も愛せない男」みたいな描き方でなく、もっと真正面から描いたら、かっこいいかは別として、作品としておもしろいんじゃないかなと思います。誰に仕えていたかを描かないと彼らの忠義のありかがわからない、とはじめの方に書きましたが、武士らしさ、男らしさに仕えていた人たち、と言えるかもしれない。

 


・吉村はなぜ突っ込んで行ったのか

初日、この場面で誠の群像のラストシーンを思い出して「新選組隊士には無茶な相手に立ち向かっていって華々しく散る場面を描いてこそ花道の精神」をこの作品にも適用したのか?!と慄いたのですが、原作を読んだら普通にある場面で、そこはごめんなさいと思い直しました。

しかしこの場面、原作でも該当場面の吉村の胸の内は書かれていません。第三者、2人の視点で、吉村の様子が語られている場面なので、そのとき彼が何を考えていたかは実のところ永遠にわからない。でも解説パートに当たるくらいの間隔で切腹を言い渡された吉村の死にたくないモノローグが挟まれ、第三者へのインタビュー部分で語られる他人から見た吉村像と彼の本音とを交互に読んでいるうちに、彼の妻子へ送金したいという気持ちは妻子を養えるような武士としての立場への出世と紐ついていて、妻子に忠義を尽くしつつも、やっぱり世間一般でいう武士として大人物と思われたい名誉欲もくすぶっており、それがでっかい花火を上げられそうな局面にぶち当たって、忠義の定義が混乱した…?と読み取れなくはない構成になっていると思っています。死んだら元も子もないだろ!と思うけど、本音と建て前が渦巻いて、突っ込む直前に心の中のバランスがいつもとは違ってきてしまったのかもしれない。

とても曖昧な物言いになってしまうのは、それくらい「お前も武士の気持ちになって察せよ」という奥歯に物が挟まった構成の作品だから…。

しかしそういうことを想像できるだけの情報量が原作にはあるのですが、舞台上でその伏線はほとんど読み取れないと思う。妻子に送金、守銭奴キャラの吉村貫一郎、死にたくないと言き巻いていたのに、いきなり「勝つための戦ではござらぬ」などと御託を抜かして、自分から死ぬために突っ込んだ人にしか見えません。

周りの新選組隊士、もっとびっくりしていいと思う。直前に「死ぬな!」とか肩を揺さぶってた斎藤が一番びっくりしているはず。土方は左右を確かめてから一番最後にはけていて、冷静だな…と思いました。心象表現場面への転換なのはわかっているんですけど、それにしても一人であの人数と戦っているのも変だし、あんなに必死な場面で舞のひとさし、みたいな軽やかな剣舞を舞っているのも変。仁・礼・智・信を司るコロスも何を表しているのかよくわからない…。吉村が「義」なので、五行が揃っている、のその先を教えてください。そういう心の動きもあったかもな、と思わせるようなサインが欲しい。ここで討ち死にするならまだわかるけれど、このあと大石のもとへ助けを求めに行く場面につなげるなら、なおさら何かフォローが必要だったと思う。主人公が死に際に何を考えたかにあれだけの分量を割いている原作を舞台化するとき、物語の核にもなる部分をこれだけぎゅっと短縮させるなら、その切腹にいたるまでをもっと丁寧に描く必要があったんじゃないか。

この場面を前後の吉村の人格を考えて乖離させないように描くのはかなり難しくて、場面だけ華々しく描くことにして、物語としての一貫性は放り投げてしまったんだろうなと想像しています。

原作の、とある隊士の昔語りで、鳥羽伏見の戦い後に消息が途絶えた吉村をようやく見つけて帰参するよう声をかけたら、自分はもうあんなところへは戻らない、賊軍とみなされたいま戦うことになんの意味があるのか、と激昂されたエピソードを入れればよかったのでは? 物語を単純化する意図で削ったのかもしれないけど、すでに吉村の義が描ききれていないのは明らかな展開が繰り広げられているのだから、この場面があれば観客に、彼という人の本音と建て前の入り混じりよう、複雑さについて考えるヒントを与える場面になったんじゃないのかなと思います。戦場での吉村の突飛な行動への説明がほとんどないのに、松本に沖田が牛乳を吐き出した豆知識を披露させている場合じゃない。


本作の演出家の演出可能な範囲でわかりやすくする方法ってなにかあるかなと考えたのですが、錦旗に向かってゆく吉村の心の声(死にたくねぇ…!)を流せばいいのかな? 想像してみたけど全然やってほしくありませんでした。

 

なぜ吉村が死を恐れず錦旗に向かっていったか、そこが壬生義士伝の一番の謎かつ、一番面白いところでもあると思うから、勇敢に敵に向かうお決まり場面としてなんとなく流してしまうのは単純に作品としてもったいないのでは、トップスターの役どころの輪郭を濃く深くして人間ドラマにしたいならなおさら、と追記してひとまずペンを置きます。