TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

星組『霧深きエルベのほとり/ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』

星組『霧深きエルベのほとり/ESTRELLAS(エストレージャス) ~星たち~』

 

 

 

芝居でもう精も根も尽き果てて、帰る!あたしもう帰ります!という気持ちをなだめてぐったり椅子に身を預けて観たショーもやっぱりすばらしく身にしみて、宝塚フォーエバーをBGMに走り出したくなるのをこらえて帰宅した星組観劇だった。こういう気持ちを見つけに宝塚を観劇しに行ってたんだと初めて気づいて、心が生まれなおしたんです・・・!とカマトトぶりたくなるくらいの心境。

 

久美子先生の作品を観ると(今回は潤色だけれど)いつかどこかでこの景色を観た、よく似た感情を抱いたことがあるような懐かしさや苦しさがじわっとこみ上げてきて、いてもたってもいられない気持ちになることが多い。単に時代設定がふるいから、ということではたぶんなく。優れた物語は体験させる、というような言葉を聞いたことがあるけど、(初めて観たのに)なんでこういうのが観たかったって知ってるの?と感じさせる作品は、握手しようと差し出した相手の手が宙ぶらりんになるいとまを与えない、早撃ちのガンマンみたいな技を使っているのかと思うことがある。

差し出されたコップを見て喉が渇いていたことに気づく。自分の欲求が先にあったのかそれとも相手からの提供ありきの感情か、攪乱させられる。ツボを突かれた、の7文字でけりがつくようでつかない。

霧深きエルベのほとりも例に漏れずそんな思いがじわじわこみあげる作品のひとつだった。実在した著名な人物を扱う歴史ものとはまた違う、いまとの時代設定の乖離や内容を考えて、こういう作品が現代で成り立って、それを生で観劇できるなんて…!という感動。

いやいや流石に古すぎる演目では?と発表時に思った自分の背中を蹴りたい。カールの言葉を自分のものにするべにさんの口跡の鮮やかさに、デコちゃん(高峰秀子)のエッセイの口語のみずみずしさを思い出していた。(そういうの好きじゃんと気づいたという意味)

 

誰かにかわいいや愛おしいを伝えたいときに、自分がつらい苦しいとはき出したいときに、そのまま口に出すだけが人間じゃないし、そのまま口に出されなくても、観ている側が読み取ることができるような話の運び方や会話はつくることが出来る。

あるいは該当箇所だけ切り取れば、あまりに簡潔、そのまんまの物言いに思えても、言葉がぽんと出てくるまでに話し手がどんな人かが場面の積み重ねできちんと描かれているから、まんまじゃん!と興ざめすることなく、ただ飾らない言葉としてしみてくる。お芝居を観ることの楽しさに立ち返る。

 

たくさんの心に残る場面のなかのひとつ、「着物」の話をするふたり。

マルギットの2枚でいいわ、に涙が出るのは、彼女の心ばえのいじらしさかわいさももちろんだけど、直前のぶっきらぼうな物言いから透けるカールという人の心が愛おしいから、そういう彼を愛し愛される彼女までもがよけいにかわいく思えるから。

かわいいって言葉は見た目の形容だけじゃなく、かわいい、愛おしい人たちだなあと思わせる台詞の応酬の巧みさ、その言葉を立ち上がらせる役者の台詞の間の取り方にも比重が置かれている。人間の愛おしさをじっと見つめているような台詞群。

そもそもこのタイミングで着物の話をするのかよ、というおもしろさがあって、そこに男の見栄の話を被せるカールという人の素直でない会話の持っていきかたがある。

女房に着物の1枚や2枚~と、彼はそういう口の利き方をするけど、言葉の裏や態度ににじませた、マルギットが喜ぶことをしたい、良い暮らしを与えてやりたい気持ちをまっすぐに表せない彼の優しさをマルギットがちゃんとうけとるから、観客もカールの、ふたりの思いやりを受け取るし、この物語に身を委ねたくなる。ふたりのやりとりから、彼らが互いに抱いた思いそのものだけでなく、カールとマルギットという人たちの人となりが分かる。

自分がなんでいいと思ったか残しておきたくて書き起こしてみたら、やぼさにうんざりするぐらい、見ていればもう伝わるものだった。

 

あーちゃんのマルギットの目に入れても痛くないような愛らしさをみると、べにさんのカールの相好をくずした、って表現したくなる笑みにもすとんと納得する。回転木馬に乗る場面の二人のかわいさに心がかき乱されて感情がザァーッと地引き網でもっていかれる。

美しい景色をまぶたの裏に浮かべたまま肩寄せ合ってじっとしてるベンチの二人をいつまでもそっとしておきたい。お供え物のように朝ご飯をととのえておきたい。

二人が惚れ合っていさえすればそれだけでもういいじゃねえか!(うろおぼえ)

 

男が女に「可愛がってもらえ」と言葉をかけることにびっくりしないのは(いやほんとはびっくりするけど)、宝塚だからというだけじゃなくて、現代の時間軸ではない設定と、カールという人はこういう言葉の選び方をする人なんだよ、と舞台上と客席とで前提がきちんと共有されたなかで芝居が進んでいくから。「泉をもらっちゃってくれ」と晴興の前で地面に額をこすりつけた源太のことを思い出す。そういう言葉で彼女たちへの愛情を表現する彼らの生き方を2019年からのぞき込む。

そしてドイツのエルベ川のほとりが舞台のはずの物語のなかから聞こえてくる「女房」「着物」「百姓」「文士」。アラゴルンが馳夫さんになる(岩波の指輪物語)翻訳小説の世界に馴染みを持った心も手伝って、久美子先生のインタビューにあったように、人の心の動きはまるっきり昭和の日本人のもの、と考えれば語彙を言い換えずにそのままにした意図も納得がゆく。「おれ」を「おらぁ」に近く発音する「ぼく」(ぼくは、だ、)をうまく口にできないカールの泥くささに、しっくりなじむ言葉。古いけれど、ぜんぜん古くない。彼が話す言葉として生きている。

 

たくさんのお膳立てはもちろん、カール・シュナイダーという人を魅力的に舞台に立ち上がらせているのは、紅さんという役者の魅力によるところがなによりも大きいというのは、観た人全員が感じることだと思う。これ、当て書きですよね?と錯覚するほどの、カールとべにさんのぴったり・しっくり感!!

ロミジュリのラストでひとりぼっちのベンヴォーリオを見たときか、桜華に舞えでお土産いっぱい詰まったトランクを渡せなかった姿を見たときからか覚えていないけど、べにさんには泣いた赤鬼かよだかの星の朗読をしてほしいなとこっそり思っていたのですが(謎の夢)二人は夫婦になる、二人は夫婦になる、のところで目からわーっと涙がしみ出したのはなぜだろうと記憶を反芻していて、これが泣いた赤鬼だったのでは…!といまさら気づいた。

カールのやさしさやさみしさ、彼が懸命に恋をして、自分の身の丈の範囲で相手にしてやれることを精いっぱい考えて実行する姿に、全部差し出す方法の不器用さに、心が勝手にぎゅーっと寄っていく。他に方法はあったでしょう?とあぶくみたいに浮かんだ考えを突きつけられない、仕方なかったんだ、とまるめこまれる。

べにさんがある役を演じているときの、顔いっぱいに浮かべた笑顔・泣き顔がないまぜになってそのままわーっと感情が雪崩れていくところに、いつも巻き込まれてべっしょべしょにされている気がする。たぶん私は望海さん(の演じる男)よりべにさん(の演じる男)のほうにお金を渡して身ぐるみはがされちゃうタイプなんだとあきらめがついた…。(中の人の話はしていません)

あんなにシュッとした風貌で世の中うまく立ち回れそうでいて、一番大事な人と思いを遂げられない、それでも泣くのは性に合わないからへらへらしてる。「真面目に振られて真面目に泣いて~」の台詞は、カールはもちろん、べにさんの男役の魅力をぎゅっと濃縮したような台詞だと思った。(中の人の男役としてのニンとはやや混同している)今その言葉を思いついて口に出したみたいに聞こえる「あ…」とか「え…」とか全部の言葉の間合い、唇や指をなめる、噛むしぐさも、全部が全部カールという人のくせに見える。

 

マルギットを相手取る言葉もしみるけど、別れた相手への心配りの仕方が見えるという意味で、アンゼリカとの場面もたまらない。「おれはもう行くよ」というカールから、夫がいるのに昔の男に会いに来てしまった彼女の、いまの状況を彼なりに慮る様子が伝わる。そういうかっこつけしか出来ない人なんだろう、かってだな、という解釈もあるかなと初めて気づく私は見終わってルサンクで台本を読んでいる私で、見ているときはいっさいさめなかったのは役者の熱量や劇場の空間に飲み込まれていたんだろうか。

かっこつけという言葉とはまったくそりが合わない、酒場でヴェロニカの膝にすがりつくカールの背中をみながら「幸せになれよ!」をあんなに自分への酔いを面に出さずに切実さを讃えた言葉として口に出来るものなんだろうかとも思った。心の中に豊かな相手への思いがあふれているから、その奔流を注ぎ込むことができるんだろうに、その大元をはいどうぞここにありますよと相手に差し示すのが苦手な人なのか。

 

最後にお金を返したら愛想尽かしが嘘だったってバレちゃわない?!とちょっと肩すかしを食らったようになるけど、そこで下司と思われ続けるのは自分が可哀想、っていう、自分に対して「可哀想」という突き放した表現をするおもしろさとかなしさが、真面目なことをへらへらと笑いながら言うカールの魅力なのかもしれない。素直じゃない人の素直じゃないところ、自分の横に立ってたらいらだってしまうかも知れない人を好感度を持って見つめられるのが舞台や物語の本当に面白いところだと思う。

しかし「こんな人だ」(指差し)のところを思い出すと、ねえそうやって真顔とおちゃらけを取り混ぜるのこっちの身がもたないからやめて!と心のなかで悲鳴をあげてしまう。その後の一度目の「ほんとだよ」も「呼吸を止めて一秒あなた~♪」って脳内でBGMが流れ出す錯覚が起こるほどにやさしく穏やかなのに、直後の茶化しとのギャップが浚われた心が迷子になるレベルのひどさで、お、おまえなァ~~!ってとっちめたくなる人間ジェットコースターぶり。

そもそも二人の出会い、酒場での粗野・穏やかさ・おもしろさetc.万華鏡のごとく変化する彼のたくさんの顔がもう、お嬢さんの心を掴んでしまうには十二分にじゅうぶんなのでは?!カールとマルギットが手のひらをそっと合わせたときのサイズ差に打ちのめされ、少しの間をおいてぐっ、と彼女の手をさらっていく様は”たとへば君がさっと落葉すくふように私をさらって行ってはくれぬか”を舞台上に起こした光景みたいだった。

 

一方フロリアンは、確かにこんなにおきれいな人いないとも一瞬思うけど、育ちと彼の性格上、しゃべり口調だけじゃなく感情の抱き方から他者への伝え方まで一貫してああいう表現しかできない、ある意味で不器用な人なのかもしれないと思った。「ほんとはカールのことなんてどうでもいい」からはじまる一連の言葉に、彼の本音がちょっと透けている。

自分がどうあってもいい、という自己犠牲精神からああいうふうにふるまっているのではなく、彼はマルギットにこうあってほしい、そしてそういう彼女を自分は愛していたい、という理想が高い人なんだろう(おそらく)。でもだからといって、相手に気持ちを押しつけていると一方的に糾弾するのも何か違う気もする。そこを追求するなら同時に、相手のことを考えた結論という蓑にくるんだカールの突き放し方も、マルギットの幸せの形を勝手に想定して狭めている、と指摘できてしまう。自分が思うような相手を愛したい、そういう人を愛している自分で居たい、という気持ちが自分の中に1ミリもない人だけが、彼らを笑うことができるんじゃないだろうか。肝心なのはさじ加減かもしれない。

同時に、彼らの選択、言動が正しい正しくないというよりは、ある角度から見たときにマルギットにフェアではない、と感じてしまうものはなにに根っこがあるんだろう。この時代においては、恋愛のみならず多くの場面で自分が導く側の性と背負い込まされているのは男性という、いまよりさらに縛りがきつい価値観に行き着くからかもしれない。

観ている人の心を動かす、という意味で現代での再演が可能というのは、上演されているという事実が何よりの証拠だと思う。でもそれがイコール、カールやフロリアンの巡り合わせのしんどさを物語として味わう意味や理由の内訳に今と昔で差がない、ということとは違うものなのかもしれない。

ふるい男や女の価値観の内面化をそういうルールと逆手取って、男役や娘役を崖っぷちに立たせることで魅力を引き出す宝塚の様式美があって、そこにぴたりとはまりこむという意味での作品の普遍性はある。

現実の男性のふるまいとしてはもはや滑稽に思える、かっこつけが肥大した姿は、男役の身体で過剰に表現したときに初めて「かっこいい、つらい」と思えるものになるねじれ。

 

身分の高さも職業の低さも、というようなことをあの場で言えるフロリアンは、やっぱりあらゆる意味で坊や育ちで、そういう違う階層の人と根本的に相容れない人の残酷さを一歩引いたところで観察して「残酷ね」って言えるのも舞台で物語を味わうことのおもしろさのひとつでもあると思った。「いつか僕も他の誰かを愛するかもしれない」という台詞は金色でジャーも言っていたなと思い出す。シュザンヌへの「君も誰かを愛したら」「いつか君を愛するかもしれない」も残酷なんだけど、完璧な人の落ち度にも思えて、外野としてはひどさと同時に憎めなさも感じてしまう。つっこみの余地がある、とも言い換えられる。

 

男が嘘の縁切りをした相手を想って、酒場にいる年かさの女の膝にすがりついてわんわん泣くのを見ながら一緒に涙が出てくるように仕向けられるのは、女が演じる男の仕業だからか、役者の力か、脚本と演出の巧みな運びゆえか、時代・場所の設定ゆえか、もうその全部なのでは?と思いつつも、やっぱりこんなの今の時代において宝塚以外のどこで望める光景なの?とも思ってしまった。鴎のように自由に飛んで、行く先々に女をつくるのが男の甲斐性とうたわれる設定を現代に生きる人たちが演じるということ。

 

カールという人のやり方の乱暴さ、あれをキャラクタの愛嬌と成り立たせられる、そこにつっこんだらやぼと思わせるような世界を紙一重で成り立たせられること。あれは、もうカール・シュナイダーってのはそういうひとだからさ!そこがいいんだから、って観客に納得させるのは、今新たにつくるお芝居や映像でできるんだろうか。そこにシスジェンダー男性がいたとしても?ということをいつもいつも考えてしまうけど、どうなんだろう。

こういうひとはいない、という共通認識をバネにしてとんでゆける物語の広がりに、そこにひととき身を預けることの心地よさを全身で味わって、頭のてっぺんからつまさきまですみずみまで満たされている。

 

 

 

エストレージャスについて(箇条書き)

お正月にテレビ放送を見たときはあまりぴんときていなかったショーは、生で観たら身体の炎がごうごうと燃えた。結局家に帰って録画を再生してしまったのですでに生で見たものと記憶があいまいになってきているかなしみ。

・「ピリピリしてる」でべにさんが銀橋で手を払う、腕の長さが映えるしぐさが好き。

・エルベの水夫たちの酒場ダンスを見ながら、星組男役の荒くれ者ども最高だなと思ったけど、ショー冒頭でステップ踏んでるだけでもめちゃめちゃぐっとくるし、もう舞台上のすべてのタカラジェンヌその場でステップ踏んでるだけでいいです、となるときも多い。こんなに身体能力高い人たちを連れてきてこれだけの動き…という考えはおまえがあんなふうに美しくステップを踏めると思うかい??と自分に問いかけてからにする。

・POP STARは、あんなにめろめろな人に「もっと夢中にさせるからね」と歌われる友人の気持ちになってしまった。下手花道での投げキッスは「客席の片すみの愛しい君のために」との近しさをかってに感じ取っている。

・一番高いところからぽんと現れる赤いドレスのくらっちがステップを踏む姿も華やかで魅力的だなあと思う。心の持っていき方とか漠然としたものだけじゃなくて、娘役さんとしてかわいく見せる技術を積んでいる人の舞台上でのあり方に思いを馳せる。技術を積まないとできないのにうまれたまんまでかわいいです!みたいなふるまいが求められる場面もあるから、想像だけで頭が痛い。でも彼女らは見ているときにこちらにそんなことをほとんど思わせない。得がたいものを見せていただいている・・・。

 

・聞き覚えありまくりなTDVでも使われていたあのロックナンバー、ダイナミックなダンスはもちろん、めいめい黒ずくめファッションに工夫を凝らしているのが絵的にたまらない。はるこちゃんのレースのトップス×黒ワンピース×レースレギンスに黒髪ストレート前髪ぱっつんwith小さい黒ハット、ゴス雑誌のモデルさんのようなスタイルで立っているだけでもいいのに踊るんですか?えっ踊ってくれるの??って身を乗り出したくなる(気持ちだけ)。盆でまわってくるキメッキメべにさんのくわえ煙草からの投げ捨てはこう、最近のあのアイテムの扱い的にギリギリアウトな気がするんだけど、あんまりにも格好いいからオペラグラスを下げられない。幻の男が投げ捨てる吸い殻の軌跡を追う。

 

・A先生は80年代洋楽ロックの趣味がミキティショー(花NWとファンシーガイの恩)と近い気がして、アスタリスクメドレー頭からの3曲、特にHot stuffにはすみませんこういうの大好きなんです!!!と心が五体投地してしまった・・・・・・。男役がアップテンポで振り数多い振りをこなす→世界一かっこいい決めポーズ(おのおの)を繰り返しながらきりりとした真顔と好戦的・誘い顔(とは・・・)を交互に繰り出すのを観ていると、脳内からどばどばとやばいなにかが出てくる。快楽に命を捧げるのだ!(ドンジュアン)マサツカ芝居冒頭のスーツ男役総踊りぽさ(ケイレブ)もある。てんじゅさんを主に見ていた。

・これだけでも最高なのに、直後にあーちゃんがセンターを張って娘役をぞろりと好戦的に引き連れてくるから、気の強い娘役きらいじゃないよ!!!って拳を握ってしまった。あーちゃんの低い歌声から醸し出される色気がとても好み。指さし確認のその先に座りたい。あんなにかわいいのに格好いいお姉さまも様になる不思議。さらさらロング・おでこ全開ヘアの似合いぶりよ・・・!はるこちゃんの髪型もまたまた似合っているけどなにをどうやっているのかまったく分からなくて(あのタッセルみたいな髪の束は)でも似合っている。

・そしてすでに感情の上限目盛りを超えているのに次がことちゃんのSUNNYってもういいかげんにして!? STARLIGHT PARADEのさらりとくせなく聴かせる歌声もすてきだと思うけど、個人的によりぐっとくるのはこのくどいしつこい歌い方だなと思った(眉間のしわ込み)。もっと聴かせてくれ・・・。後ろで抱き寄せ重なる恋人たちのポージングも、それぞれに寄って見ても引いても絵として好き。

・中詰めのオレンジレンジ、これを成り立たせられるのべにさんだけでは!?わりとそれ以外の人に任せたら大事故になるよね?!(各組トップさんを思い浮かべながら)というくったくなさがあますことなく発揮されたナンバーだった。肩を組んで笑い合うタカラジェンヌを見ると泣けてくる、団体行動が死ぬほど嫌いorウェイウェイするのがにがてなヅカオタは多分多い。

・織り姫と彦星と白い鳥たちの、出た~~~宝塚!場面も、この鳥の羽が額飾りからはえてる宝塚歌劇衣装の系譜おもしろいよね、というところから好き・・・!になるまでのスパンがだいぶ短くなった。フォーメーションが美しくて見入ってしまうのは、Mr.Swing!のエトランゼを2階から見るのが好きだったのと同じ感覚かも。あの場面のような妖しさは成分はなくて、こちらはもっと清く美しい宝塚空間、流れている空気が澄んでいそう。森で道に迷ってうっかり木の影からのぞき見た景色みたいな。

・ショートカットの強気な小娘あーちゃんも堪能。やわらかそうな背中に渡ったレースの、挑発的な目つきの色っぽさったら!

・デュエダン、これが宝塚がおくる幸せのかたちですよと誰かに指し示したくなる。おまえはいったい誰なんだと揺さぶられても、私はこういう表現のために宝塚を観に行くんですと言いたくなるような、多幸感で充ち満ちた光景だった。あーちゃんが大階段に斜めに走る光の道を下手から降りてくる途中で、銀橋のべにさんが背中にその姿を感じながら後ろを向いたままほほえむ表情や、銀橋に出る直前、上手花道で笑い合うふたりのぎゅっとした表情にわしづかみにされる!!いま得がたいものを見ているのよ、とドンドン心をノックされる。男役娘役問わず、相手役さんを一心に見つめる姿、横顔に、見つめ合う二人に、横入りする余地がいっさいない関係性を感じ取って、見ているだけで幸せ!と腹の底から思うこの心のありかたの不思議さ。