TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル・プレイ 『凱旋門』-エリッヒ・マリア・レマルクの小説による-

結局めちゃめちゃ通ってしまってまじかよ…しかし悔いはない、と思っている人間の感想。

 

 

オレンジがかったセピア色の照明が濃紺にゆっくりと移り変わって、舞台上に静かに夜がやってくる。舞台全体を包むくすんだ色味。行き交う男や女の濃い舞台化粧が、彫りの深いヨーロッパ画の人々を写し取ったもののように見えてくるとき。イメージの中の古い洋画や翻訳文学の世界。原作がそうなんだからあたりまえでしょ、じゃなくて、時代も国も飛び越えた異空間をこんなふうに描き出せるのは舞台作品の、特に宝塚の特性だよな、と思う瞬間。 胸をざわつかせるヴァイオリンの音色と、望海さんのボリスの懐にそっと差し入れられるような静かな歌い出しと、振りから振りへの継ぎがなめらかで音が聞こえてこないようにも思える振付、 ゆるりとした手の動き。紗がかかったようにすべてが遠くに見えるのに、そこで生きている人の感情のなまっぽさが立ち上がってくることが確かにあって、その瞬間、客席と舞台とを繋ぐ糸がぴんと張られる。


様々な危惧はあったけれどうすうす想像していたとおり、凱旋門という作品自体はそこまできらいじゃない。というか好きだ、と思った初日からいままで観劇を重ねて、結局「作品」としてはかなり好きになってしまった。 望海さんが男役としての円熟期(とあえていう)にこのタイミングで一歩引いた主人公の親友ポジションを務めている、というのは何かのめぐり合わせなのかなと思うほど、ボリスという役は正直とても好みで。しかし「就任後の大劇場2作目」の主演が望海さんではない、という悲しみはどうしたってぬぐえない。代わりに主演を演じる人が嫌いだ好きだ、という話ではなく、組のトップが芝居の主演を務めない大劇場公演っていったい。という気持ちにならないトップスターのファンってそんなにいないと思うのだけれど、どうなんだろうか。 お芝居として物語を捉えたい、舞台上で息をしている役として見たい、見てしまう自分と、宝塚歌劇のシステムのなかで活躍しているスターを好きな一ファンの自分は、しょっちゅうけんかをする、という話です。まっさらな頭で見ることはもうできないのだから、こういう気持ちの人が書いた感想、という前置き。

 


▼物語に入れ込むとき

凱旋門に出てくる人、誰に深く入れ込んで物語を追っていけるかというと難しい。他の表現媒体(?)舞台作品より人により主軸を置いて作品を味わう傾向がある(と思っている)ミュージカル、特にスターありきの宝塚におい ては、主演カップルどちらかの性格に難ありな作品はあまり好まれない気がする。でも思わず好きになってしまうようなわかりやすい人物が出てくる作品でなくても、登場人物の誰に感情移入する、なんてことを第一に考えて見なくても、舞台を観劇することのおもしろさに感じ入ってしまうことってある。 そもそも物語や登場人物に心を寄せるときだって、いつも自分の実体験を引き出して、それと重ね合わせているわけじゃない。体験したことがまったくなくても、自分側に引き寄せるというより、舞台の上で起こっていることに不思議とひゅっと自分の心がとんで近寄っていく、ということはある。体験したことがないことを体験させられたような気持ちになることもあれば、引いて見ている舞台上の光景にただ心が動くこともあるし、いろいろだ。感情移入とは、共感とはどういうことをいうのだろうか。 

ちょっと好ましいと思えた人のろくでもない一面も、全然仲良くなれない人のふとした時間に見せるかわいさも、だからこそのいらだちも。恋をしているふたりの愚かしさも。誰かが誰かに自分の身を投げ出して力いっぱい迷惑をかけていて、もっといろいろ防げただろうと思うようなこと、まったく防げないこと織り交ぜてはちゃめちゃなことが、そこかしこで起こる。 人間のもろいところ、人生を選べないところ。身に降りかかる運命に抗いながら同時に受け入れるところ。それは諦めることとイコールではないこと。時代の、境遇の切羽詰まりようが、ジョアンとラヴィックの距離を急速に近づけて、同時に引き裂きもする。それぞれの役がその背景ありきで行動している中に恋や憎悪や復讐があるので、全部がおいそれと切り離せない。どうやって生きるかがぐっと浮かび上がってくるような切迫した時代背景が作用する。ある人に関わる問題に焦点を当てて見ていても、これはこの人が自分で抱え込んだことだから、と線引きするような、その人個人の問題という簡単な片付け方ができなくなる。一方で、もっと別の、たとえば戦渦の混乱で命を落としていたかもしれないような足場が危うい人が、恋愛関係のもつれのすえに命を落とし、あるいは生き延びられただろう立場の人が手の施しようのない病にかかっていたりする場面があるのは、この戦争目前の状況下においても人間の営みはまったなしで続いているということをあらわしているようで、その対比がこの作品にぐっとひき寄せられてしまう理由だと思った。戦争の中に人が生きているわけじゃなくて、人が生きている中に戦争がある、というような。自分を後に国外追放することになる男を救ってしまう場面が、ある種の滑稽さをもって描かれていたり、ラヴィックを取り巻く生と死のバリエーションが、彼の職業も手伝って、戦争一辺倒ではない。不謹慎な表現かもしれないけれど、皮肉にも豊かなこと(前述のふたりの女性がラヴィックにかけることば「それはあなたが教えてくれたことよ」「この一年は、 あなたが私に与えてくださったものよ」がとても好きだ)。誰かに命を与える手が、一方で誰かの命を奪う。

そういうふうに生死を扱っている作品だからこそ、その中で「いのち」のナンバーが深くしみてくるのだと思う。飾り立てていない彼らの心情をそのまま歌詞にしたような言葉が、自分たちを取り巻く状況への悲しみ、怒りが祈りとして昇華されていくようなメロディにのっている。腹の底からの声で大合唱される、劇場いっぱいに響きわたる声の厚みに圧倒されて、押し出されたみたいに拍手してしまう。 ナンバー直前の銀橋でのやり取り「ミュンヘン協定を破る」報道内容を告げるボリスへの合いの手として、ラヴィックが何度も放つ「世界平和のために!」に背がびっと伸びるのは、過去の出来事をモチーフにした物語、というだけにとどまらないメッセージがそこから発されているように感じるから。今上演される意味を考えてしまうし、沢山複雑な気持ちを抱えつつも、これが今見られて良かったと思う。


▼台詞や演出 

琥珀色の雨にぬれて』を見たときにも思ったけれど、柴田作品の、すべてを言葉で語り切らない、字面通りではない台詞の真意や口にした人物の性質がぐいぐい伝わってくるところが好きです(今回は原作から引いている台詞が多いと聞いたけれど、そうであればその取捨選択、脚本への再配置のセンスが!)。言葉自体は耳馴染みがないものではないけど、そういう繋げ方をするのか、という言い回しにやられる。 なにかに光を当てれは影ができる。できた影の濃淡で、光が当たっている部分以外の存在がくっきりとすることがある。その一点光を当てる場所の選び方、光の当て方、光の種類を選ぶセンスみたいなものが好きなんだと思う。切り取った写真の外側にも世界は広がっていることを感じさせるやり方。この感情や状況をこういう表現で、演出で伝えるんだ、というところにすごくぐっとくる。 (余談だけど、今回の演出補がどなたかを知って、志願して入ったのかな、想像してしまうくらい、久美子先生は柴田作品の影響を受けている演出家だと思ったし、柴田作品が好きな方なんだろうなと思った)


▼柴田作品の男の人たち、からのボリス

柴田作品の登場人物って基本、男同士でいちゃいちゃしている。女たちを美しく豊かな存在として崇めるふりをして、高尚な自分たちとは違う生き物として見ている。女性に神秘性を見出すラヴィックの価値観は、そうやって女を賛美することで女を男と同じフィールドに絶対置かない柴田作品によく登場する男のパターンなのだろうと思う。彼女らは「女」であって自分たちと同じ 「人間」ではない。ナチュラルボーンにホモソーシャルに生きていてスマートにミソジニー。 女に平手を食らわすとか暴力に訴えかけるタイプでも下品なセクハラ台詞も(石田)ほとんどないんだけど、女ってこういうもの、みたいな強固なシングルストーリーがある。「この小説には不適切な表現がありますが発表された時代と故人の遺志を鑑みて〜」って後書きの後に注がつくやつ。小説なら(この作品の価値観を現代女性も規範とすべし、みたいにメディア各種が取り上げている、なんていう状況でもないかぎり)古典作品だものな、と読むことはできても、生身の役者が皮肉もきかせずにそういった行為を物語内で肯定されたものとして演じる、格好良いものとして舞台上で再生産することは、上演する側がいまの社会に合っていないずれたメッセージを発信していると捉えられてしまう可能性がある。(先日観たナイツテイルが、まさにこの「男同士のいちゃいちゃは古い!もっとちゃんと人間と向き合いなさい」ってホモソーシャルミソジニーシスターフッドで殴って男どもを救う作品でめちゃめちゃ新鮮だったのだけど、あの作品で言うナルキッソスのように彼らは互いの中に自分を見出して愛しているだけにすぎないのか)

でも宝塚という、肉体的には女の性を持つタカラジェンヌが男役と娘役に振り分けられて、その差異を強調することで虚構の男と女の世界をつくっている。そこに惹かれている以上、ある程度のものを許容してしまう態勢は客席側にもある。それどころかもっとやって!思ってしまうこともある。現実の男の振る舞いを許容することとはまったく違う次元で。同時に、演じている彼女らも現代を生きる女性であればこういう男性像を現実のものとして許容しているわけではないんだろう、疑いながらこの男役の型が舞台上で格好良く見える不思議を演じているんだろうな、と想像できるところへの信頼感・一方的な連帯感もある。女性の身体を持つ男役が演じることで上澄みだけが残る不思議。 

だからといって新作でこの手の価値観のものを量産してほしいわけではなくて、古典として時々見るものであれば、という条件付きではあるけれど。(宝塚歌劇におけるナショナリズムの美化は、現代で上演された時点でそのメッセージ性という意味で初演の年代を問わずほぼほぼノーを突きつけてしまうけど、男性性の描き方は表現と程度による、というかってな持論。この価値観はない、という社会における意識共有の度合いによるところが大きい)

そういう視点で見ると、ボリスの「女性はゆきずりに限る」って台詞は相手とお互い合意の上という前提があったとしても、ワーオ!案件です。男同士でしか出ない軽口の一環だとわからない野暮じゃない、言葉尻をとらえすぎと思われるかもしれないが「女は欲しいときにあればいい」by ガイズと同じ用法の「女」だなあと思う。それでいて不快感がそこまで出ないのは、全編においてラヴィックが「ロマンティスト」で「雲の上の放浪者」であるところとボリス自身の世慣れた言動を対比させて、露悪的に振る舞いつつも実は面倒見がいいやつなのでは、というキャラクターにつくってあるから? いまのパリでの自分の立場を客観視して「我々は出来るだけ親切にしてやるべきだ」みたいにいいながら手を貸せるときは快く貸すけれど、基本的に他者と一対一で深い関係性を築くことからは身を遠ざけようとする、傍観者に徹しようとする姿勢自体は好きだ。飼えないノラ猫には過剰に情をかけない線引きというか。「行きずり」といいつつ実際はなじみの相手がいるのではと思わせるところも。そしてやはりその嗜好品としての女、日用品としての女(性)発言のつらくなさって、実際そういうふうに女を扱ってる場面が一個も出てこないからというのと、やっぱり女性が演じている虚構性から成り立つのであって、リアル男性がやったらマッチョさが鼻につく役かなとも思う。 その奥に演じている人の男が透けてしまう。

トーンの違うカーキの揃えの衣装もぴちっとかためた隙のないオールバックも、望海さんのもともと持っている直線と補った直線の融合が、男の人らしさを高めている上に、大事でも大げさには動かない表情筋のつかい方やちょっとした動作(新聞で顔を隠す、電話口で声を潜めて口元を隠す etc. の自分の意思表示だけで目的達成の見込みが薄いおじさんしぐさ)がとてもおじさんくさいけど、あくまで非実在合法おじさん。生産の工程にリアル男性は混じっていません。身体の厚みがタオルなのを知っているのに、何度見ても本物らしくしか見えないから驚く。「おれには低級な快楽を追わせておいてくれ!」「だがそこで俺が受ける女の情けは〜」における「快楽」「情け」の内容 について詳しくお伺いしたい。しかしあんなに娼婦が出てくるのに、ボリスとして女の子と絡んでいる場面ってひまりちゃんと潤花ちゃんとの列車ごっこだけだし、もしかしてあれがボリス式「ゆきずり」か!?という話を友人としていた。

結局、自分の経験に裏打ちされた言葉しか口にしない、信用しない、自分の持っているものと持っていないものをよくよくわかっている人だというのが全編を通して伝わるから、彼の哲学、美学が自分の信じているものと違っていても、地を踏みしめて立っている人間の言葉として受け止めてしまうんだと思う。必要以上に他人に介入しないボリスのラヴィックへのおせっかいぶりをあらあらと思いながらにやにやと見つめつつ、それでも個々の人間としての距離を守っているからこそ、用意した旅券を辞退されたボリスはぐっとこらえて身を退くんだなと、「……くそったれ」に込められた感情の複雑さを毎回息をつめて見守る。そこでこみ上げた思いをこぼさないようにか刻まれた眉間のしわが、一瞬ほどかれる「俺たちは馬鹿だな」でも、自分の手を取らなかった男を突き放しきれないボリスという人のおせっかいさに包んだやさしさ、甘さがにじんでいてたまらない。そうすることが定められているみたいな「こっちだ」も! ほとばしる絶唱の「いのち」は、幕が下りる直前まで表情を追ってしまう。

ボリスのこういう面は、たぶん同じ男、しかも彼が認めた人間にしか見せないだろうから、そのことを思うとひどく悔しい気持ちになってしまって、ほんと、男の子ってば、と罵りたくもなるのは、恩田陸の『ネバーランド』とか読んでうらやましくなったことがあるひとならわかる。


▼それぞれの人たち 

ラヴィック(に関係する場面)

恋のはじまりの喜びに浮かれて、花売りが持っている花をありったけ買ってしまうような男はきらいじゃないよ!ともかくこの芝居に出てくる人たちの台詞のかけあいが好きなので、ケートとの別れのやりとり(「必要なの?」 と問われて「用心のためのおせっかいさ」と冗談めかして口にする、患者と医者から友人同士に移行する会話の流れの洒脱さ)、ボリスとの男同士のかけあい全般はとても好きなのだけど、それは作品もともとの吸引力だ。ラヴィックの熱演ぶり、大仰さがこの作品に時々ミスマッチだなと思えることがあってちょっとつらい。熱が入るとよけいに声の粗や台詞の聞こえづらさが目立つので、人間としての魅力も男の人としてのかわいげもあるけど、境遇ゆえのもろさもだめさも抱えた人というのを、芝居の届かなさではなく、演技として見てみたかった。亡くなる直前のジョアンをなだめるときの穏やかな声は、いいなと思うときもあった。歌声の問題より、演技が感情に走りすぎなところが得意じゃなかった。出ない声をカバーするためにか、伝えようとしたいところ(推測)で必要以上に声を張り上げてしまうところ。

初演映像を見たら、ジョアンの死に立ち会うところももうちょっと静かで抑えていて、そちらのほうが演技が好みだった。まあ一回分しか残っていない映像なので公演期間を通じてどう演じていたかはわからないんだけれど。

自分に向かって好意を投げ出してくれる人がいるのに、結局過去の思いにとらわれおびえて復讐に走ってしまう場面は、見ていて哀れは誘うけど、終わった後あんなにすっきりしてしまっていいの?と思うような様子で、秘密警察の影に怯えて暮らしていること、人殺しが成功するかどうか自体が後の不安であって、殺してしまったこと自体には悩まないんだなと、「すっかりかたが付いてしまった」ことに驚いた。他の作品だと復讐後日談がもう少しある気がするけど、これは尺の問題なのか原作からなのか柴田作品だからか。上演するにあたって付け足しをしない潔さがいい、といわれたらそういうものなのかな、とも。車を走らせる場面の演出は音楽や照明、踊りも効果的でちょっとすてきに見えてしまうけど、撲殺の様子はにわにわさんの演技が巧みなので結構えぐくて、主演男役がひとを殺す場面がこんなにそのまんまでいいのかと動揺する。ここは「雲の上の放浪者」のやりとりのなかでもう少しなにかを見いだせていたら受け止め方が違うのだろうかとも思う。

でもそんなラヴィックをボリスはめちゃめちゃ買っているんだよな、たいしたやつだってあん たと思いながら、ボリスがいいならもうそれでいいよ的な気持ちにもなる。おれとははっきり違うタイプだ、と言いながらラヴィックの人への接し方を眩しく見ているボリス(ボリスの話を小出しにする)。


ジョアン 

主演男役のすてきさって、主演娘役の演じる役を通して透けて見えてくる部分もあると思うので、 そういう意味で、あの男はこの女が好きなのか...!と多くの人に思わせてしまうであろうジョアンは、宝塚のメインを娘役がよく演じる、好感度の高い「気立てのよい子」とは違う、ひとくせあるキャラクタで新鮮だった。 三歩下がって後ろを歩く系統ではない。が、どう考えても女友達が多いタイプでもなく、しかし見方を変えれば、男の都合良く、男を振り回し苦悩させ酔わせる役(君には野生の無邪気さがある)でもあるなと思う。ファムファタルに振り回されたい男の夢を叶えて、男の人生の途中で爪痕を残して退場する女。豊かな生活をひとりで送る経済力がない、というのは時代背景もあるのだと思うけれど、それゆえに自由気ままなようで誰かに寄りからないと生きていかれない頼りなさが、彼女の魅力でもある。「私をひとりにしておいてはいけないのよ」という台詞が端的に彼女を表しているなといつも思う。現代を生きる女としては、お、おお…と若干のけぞりつつ「私はこういう生活がしたかったの」「私は自分が浅はかな人間ということを知っているつもりよ」と臆面もなく言ってのける素直さに、自分を大きく見せない彼女が羨ましくもあるからもやっとしてしまうのかもなとも思う。続けて口にする「私たちの生活にはあさはかなことが少なすぎるわ」にしびれてしまうし、宝石いっぱいのトランク盗んで旅に出かけましょうだなんて夢みたいな誘い文句を放つ無邪気さに魅かれる男性っているだろうな、支えてあげたくなるだろうなと、私の中の男性性(仮)がうなずく。

宝塚だから許容できるホモソーシャルミソジニーに呼応するように、柴田作品におけるジョアンみたいな女は存在するのかもしれない。 リアルな男性を相手取って、生身の肉体を持つ女性が現代で演じるのを見たい役かといわれるとかなり厳しい(それは宝塚においてもすでに、かもしれないが)。きほちゃんのジョアンは、台詞回しの媚び、しながどんどん自然になっていって(最初が納得いかなかったという意味ではなく)こういう「不思議な魅力」がある女の人に振り回されたい男の人っているよなあと苦笑しつつ受け入れてしまう感じ。「あたし、危険な女?」って言い方が好きです。「愛しているときに死ぬなんて」という台詞がとても好きなのだけど、ジョアンにとって「なにかにすっかり打ち込むこと」はイコール生きていることだから、精いっぱいラヴィックを愛している最中に命を失うなんて不思議だ、という意味なのかなと考えていた。ラヴィックのいう「顔を見せるとすぐに喜びを見せる人」は初演の月影さん(おうつくしくて大人で素敵だが、情念がこもりすぎていて怖い。これは男の人と一緒じゃないと生きていけないのも頷ける、と思うジョアン)(映像にて)より、きほちゃんのジョアンのはつらつとした感じの笑顔のほうが浮かぶかもと思った。

琥珀の第一声から、きほちゃんの柴田台詞を発するときの声音に完全にやられている。現代を生きる女性で、あんなに鈴を転がすような声で美しく台詞を口にする女優さんているのかしら…と思うほどです。(「あなたらしいわ」と「笑っているのよ」を忘れない)

 

▼その他好きな場面列挙(名前がないのはだいたいボリス) 

・好きな役者にこんなにしっとりと「男と女 女と男」っていいで歌い上げられたら「この世(宝塚)には男と女しかないのですよ...」って気持ちに一瞬なるからやめてほしい。あゆみさんの大人の女役の色気と望海さんの男役の渋みがマッチしていて、しかし同時に水面下であゆみさんの筋肉のバネと望海さんの体幹が連係プレーしている空気。リフト後のそっ...とおろすときのやさしさ(たぶんほかのペアも皆同じ体勢)。 ラヴィックの語りにバトンタッチする直前、下手でジャケットの下襟をぐっと引っ張るしぐさがすごく好きです。

 ・アコーディオン弾きのおうじくんに指で合図するところ、暗転ぎわのウインク。キャラ違いでは!?

・恋に精力を使い果たすべきではないのだわれわれは!飲むならウォッカ!場面の歌詞、振付、リズムのとり方、にやつき具合、なにもかもが好きだけど、マッシュポテトを水辺で〜♪(夢眩)くらいの番手がやるやつだよね!?と、今更過ぎる場に割り当てに一周回ってありがたみがきた。 そこからラヴィックとジョアンの場面まで音楽がまたがっているのもおしゃれだなと思う。 

・鳩の羽ばたき音と照明は必ず引きで観たいし、あすこは2階からがよい気がする。

・一度目の「いのち」で途中からジャケットの裾を払ってポケットに手を突っ込んだときのボリスの時世を憂える表情、眉間のしわ。

・「手術をするのは」「ラヴィック!」初見の時このあたりから人間ジュークボックスかな?!と思い始めていたけど、くせになるぬるぬるとした振付とメロディ。ルキーニおじさんのことを思い出しつつ。

 ・「思いだけが駆け巡り、夜の街をさまよいました」みほさまのナレーションと、建物の壁面が筒状っぽく?配置されているセットがくるりとまわっていく、暗闇と窓の明かりの色もあいまって、ムットーニのからくり(要検索)みたいだなと思う。謝先生×パリ×時代×雨のせいで、シェルヴールも時々思い出してしまってはっとする。「月の世界から戻ってきたんだ」もなにいってんだこいつ、という気持ちとそういうのきらいじゃない ...がせめぎ合う。でもこのタイミングで「おれ、旅券特ってないんだ」ってジョアンみたいな女に言ったら、どういう反応が待っているかはもう少し想像しても良かったのではとも。 

・フーケの店の椅子に腰掛けての登場からの全般。ひまりちゃんと潤花ちゃんに挟まれてのダンスのかわいさ。おっ!て顔とややでれっとしてる様子が漏れてる。 

・「やはりラヴィックはあの女にまいっている」言及が2回目にもなると、このおじさん過干渉だな!と思うけど若干のおもしろさもある。

・「どうした、気になることをさっさと聞け」聞きたいことはひとつとわかっているのにいやらしいな〜と思う。もったいぶるところがおじさんみ。ジョアンの登場を視線の動きだけで察知したと客席に伝えてから、突如としてBGM係になる物わかり良すぎる流れもとても好きです。 

・下手花道での「お前が僕を愛するなら」の声の深み厚み。

・「誰か頼りになる人、いないかしら」の言葉の後に出てくるのにこれ以上ふさわしい人材もいないだろう、というカーキ色の人の存在感。

・電話のコール音を聞いているときと旅券を手に佇んでいるときの、まだかまだか、と焦りが見える表情がたまらない。

・「あまりに暗くて凱旋門も見えない!という台詞に、ジョアンとの別れ、ラヴィックがその思い出の詰まったパリを離れていくことの意味、しかしふたりがいたパリの象徴である凱旋門もいまは、という感情と状況が全部詰まっていてたまらないし、ちゃんと凱旋門が見えるか見えないかくらいの薄暗さで存在している演出がとてもとても好き。