TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚BOYS

2010年バージョンをDVDで観てグッと心を掴まれた時はまだ宝塚をなにもしらず、2013年観劇時にようやくその夢の入り口に立っていた私も、あれから5年経って、彼らが夢を見たものにどっぷり浸かっています。

 


いま目の前にあるものに打ち込むことが人生のすべてと、命を燃やす男の子たちの背中にめちゃくちゃに夢を見てしまう/ヅカヲタ/男性性の傲慢さを日常とフィクションそこかしこに見出していらだちを覚えてしまう自分が格闘していた。

 


この作品の醍醐味を味わうのに、宝塚を深く知っている必要は実はないのではと思う。あの時代の宝塚が彼らにとってどんな意味を持つのかは、舞台上の物語をただ息を詰めて見つめていればわかる。歴史知識ならまだしも、ディープな宝塚ファンとしての経験はむしろやや邪魔にすらなるのではないのだろうか。

 


宝塚自体、もともと非現実的な世界だけど、あの作品内で描かれるそれには、さらに一枚紗がかかっている。それは戦前戦中戦後の苦しい時代の彼らを救った見果てぬ夢、という意味づけだからだけでなく、いまの宝塚ファンが抱くそれとはたぶん異なるということ。

宝塚BOYSの彼らが夢見るのは、あの時代のみんなの夢の宝塚。ふんわりといい匂いがただよってくるけどつかめない、きらきらと遠くで光るにんじん。

 


いまの宝塚ファンである立場だと、彼らを通して夢の宝塚を見出す前に、自分の記憶の蓄積であの憧れと直接つながってしまえる。この作品外から引っ張ってきた自分の思い入れをそこに投影してしまうことになって、本当に意味でのいい観客ではいられなくなってしまう。すみれの花咲く頃が、その歌の美しさが刻み込まれている頭では、あの頃の彼らの心をあの歌はどんなに救っただろう、という想像が、上原の表情を見る前から脊髄反射的に起こってしまうから。それって演劇としてフェアじゃない。

 


そして夢の世界へ憧れを抱く男たちの無邪気さ純さと一生懸命さに惹かれるのと同時に、そんなに好きならばなぜ自分たちの存在が不要なことがわからないのか、という疑問もわく。好きになることとそこに入りたいと思うことは地続きなようでいて、あの世界のきらめきがなぜ守られているのかについて思いを馳せられていないのでは? そんな考えが浮かんでしまうのは、逆説的に、女だけの宝塚がもしかしたら強固なものではなかったから?とも、思う。

桃源郷としての強固な宝塚、知らないからこそ強度を信じてやまない彼らだけど、私はその枠組みがとてももろく、いろんな人の努力や排除の上に(おそらく)成り立っているものだともう知ってしまっている。乗り越えるべきハードルと歴史の厚みのある対象としての概念として宝塚。

 


難関に挑む男たちに見る、黄金郷を目指す傲慢さ。「2度目の終戦記念日」や、戦後を生きる彼らのもう一つの戦いに重ね合わせたフレーズが、女の園にずかずかと立ち入ろうとする侵略者としての像を結んでしまう。

ここは女の園だ、男には居心地が悪すぎる、がそのままの意味に聞こえてしまう。そりゃあそうでしょ、あなたたちがわかってなかったのよ、と。

 


でもやっぱり、自分たちが受け入れられないことをわかっていてもなお、夢の続きが夢の中で見たくて、という気持ちはわかるよ、いや私に言われたくないだろうがわかってしまうような気がするよ、とも思う。そういうほうに傾いてみれば、小林一三先生まじかってだな、というかそういう存在としてしか描かれていないなこの中では、という気持ちも湧く。

 


もっと何度も見る、初めてこの作品を見る、初めてこの役者さんたちの芝居を見る、宝塚ファンでない、そのいずれかの立場だったらもっと違ったふうに受け止められただろうなと。受け取り手の自分の問題として、タイミングが少しずれていたのかな、という観劇でした。

 


細かく好きだったところはたくさんあって、その一部を記録。

 


愛華みれさんのおばちゃんが想像していたよりしっくりで、でも練習に付き合ってくれるところの台詞の読み方が、男子たちがおお!と目を見開くのに説得力がある声の通りぐあいだったこと。

・上原と竹内のお辞儀

上原と竹内が会話の途中で心を通わせるたびに最敬礼し合う姿勢に、じーんとしびれていた。礼儀正しさの枠の中から気持ちがはみ出るのをぐっと抑えるように、抱き合うとか握手をするとか肌を触れ合わす友好の形でないやり方で、気持ちを交換する光景がただまぶしかった。