TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

グッディは天国/地獄の炎のなかでピースフルプラネットの夢をみるか

ショー・テント・タカラヅカ『BADDYー悪党(ヤツ)は月からやって来るー』のグッディに偏った記録

 


(マージナルとバルバラ異界を読んで、フェミとSF、ディストピアものの親和性って高いんだなといまさらながらに思い知ったこの頃だけれど、舞台化する上でのSF、ディストピアものと宝塚との親和性も、舞台構造、フィルター作用という意味でもしかして高かったの…?とBADDYをみて思った人間の感想)

 

「悪い」とされる表現をフィクションのなかでかっこいいこととして安全に楽しむためには、悪いことが「悪い」こととしてきちんと認識されている現実社会に生きていることが前提だと、私は思っている。現実には起こりえないことという認識をクッションと敷いて、自由に悪がはびこる想像の世界にジャンプしていける。でも、いま私たちが生きている社会では、「悪い」と共通認識がある「悪い」ことももちろんあるけれど、「なんでこんなことが野放しになっちゃってるわけ!?」とびっくりしてしまうような「悪夢」のようなニュースもそこかしこにあふれていて、こんな世の中では全然「悪い」ことをおおっぴらに楽しめやしないよ、と背中をまるめてしまう頻度のほうが断然高い。善悪のボーダーラインは願えば願うほど明確にならない。もちろん私たちが自分自身で考え、見極めなければなければならないことも多い。多いのだけれども。


BADDYの演出家である久美子先生の上演前コメントを公式で読んだとき、 善悪のライン引きが厳しくなってきたことによる息苦しさも、かつては曖昧だったそのラインにひょいとお目こぼしをしてもらったことによる恩恵も体感もない人間にとっては、無菌状態を想定できる人の発想が既に強者に思えてならなかった。「ポリコレ棒」と口にすることに抵抗がない冷笑系の発想をそこに見てしまった。
若干行き過ぎだったなと穿った目を反省しつつ、それでも「正しいなんてつまんない、悪いことのほうが楽しいよ」みたいなショーだったらつまらないなあと思いつつ足を運んだ劇場では、想定していたのとはなんだか違った光景を目の当たりにすることとなった。

「天国なんて退屈」「ダサすぎる」と言い放つバッディチームの方々ももちろんとても格好いいのだけれど、そこで感じる気持ちよさは、ある意味見知ったカタルシス。安定安心の定番。だって悪い男役がとてつもなくかっこいいことは、知っていたし、宝塚で何度も観てきていたから。何度も見たから満足というわけじゃない、それでももちろん何度でも食べたい、観たいと思うものなのだけど、今回、もっとも惹かれてしまったのは、「怒りを露わにする娘役」という表現のとてつもないパワー、格好よさだった。
ちゃぴちゃんの演じるグッディは、 ピースフルプラネット“地球”の 首都・TAKARAZUKA-CITYを守る、職務に忠実な敏腕捜査官だ。スリを捕まえるのもお手の物だし、地球の全面禁煙(!)を守るために国王の行動にも目を光らせる。社会においてルールを課せられるものとは到底思えない、国王と女王の夫婦げんかにまで彼女は気を配っている。これを女王様に渡して仲直りしてください、と国王ににこにこと花を差し出すグッディの八面六臂の大活躍。その突き抜けた行き届きようは一見コミカルにも捉えられるけど、冷静に考えるとやや不気味でもある。彼女の仕事は「悪」とされること未然に防ぐこと、「悪」いやつをとらえることで、それはイコール、その「悪」によって生じる負の感情の芽生えを摘み取ることと同義なのかもしれない。グッディは人々の感情まで管理下におこうとしている? それはどこまで彼女の使命なのか?

(ここまで考えなくても、ショー冒頭数秒で、月を眺めている場面での国王一家のやりとり「ワ・ルイ?」「ワルイって、なあに?」や、「ヘイワヘイワ」と鳴くかわいい黄緑のことりさんたちを見れば、ぞっとするほどにディストピア社会を描いていることには気づいてしまう)(しかし宝塚の強固なフィルターが、そのぞわぞわ感をファンタジーの域にぎりっぎり縫いとめているようにも見えなくもない)

地球の平和を守り、社会に厳しい監視の目を光らせているグッディが管理するのは、おそらく、他者のことばかりではなかった。


月からやってきた悪いやつらのせいで、自分が守ってきた TAKARAZUKA-CITY の平和がどうしようもなく乱されている。その光景を目の当たりにしたグッディのなかで、抑えていた感情が制御できなくなるということ。自分の中で脈打つ、無茶苦茶にどろどろした感情に気づいて、それを加工せずにそのまま外に放出してしまうまでの流れ。怒りの基盤にあるのは、グッディ自身の正しさを歪めるものへの憎しみだけれど、いままでの彼女のなかでは、激しい怒りを誰かにぶつけることは、諍いをうみかねない「正しくない」こと、「回避すべき」ことだったはず。感情に目覚めたグッディのなかではきっと、信じてきた「いいこと」「悪いこと」すらもぐちゃぐちゃになりつつある。
そういう思いを秘めた、怒りのロケット。


「怒っている、怒っている、生きている、私!」


目の前がいきなり開けた気持ちになる。ぷん!とかわいく怒る姿じゃない。娘役が演じる女の子が、宝塚の舞台上、ショーの中で、腹の底から本気で怒っていることをあらわにすること、それが生きていることとして肯定される世界を、ショーアップしてみせてもらえることにじーんとする。男を演じる男役が怒ることを肯定されることと、それは全く違う意味だ。

宝塚は現実世界の写し絵ではない。宝塚の虚構の中でしか許されない男を演じる男役の振る舞いも、その格好よさも存在する。舞台上でしかありえない娘役の可憐さも、美しさも。

でも比較したとき、型として、振る舞いとして窮屈なのはやっぱり娘役のほう、という認識は恐らくあって、彼女らが望んで型にはまっているのだとしても、その窮屈さに現実社会のなにかをかぎとってしまう瞬間はどうしてもある(私は)。

そういうものからの解放。

幕末太陽傳のおそめさんとこはるちゃんのキャットファイトや、ひかりふる路の女革命家たちが拳を突き上げる姿から、もしかしたら続いてきたものなのかもしれない、なんてことも思う。(表現のかっとび方がまた異なるのは承知の上で)
前に脚を振り上げることは空を蹴り上げること、それには物凄いエネルギーが込められるんだ、という、今まで見てきた景色の意味付けの解体、再構築の新鮮さを頭で考えて面白いなと思う冷静さ。同時に、彼女らの感情の爆発に、私の心もガンガン蹴られてわけもわからず泣いたり怒ったり笑ったり、大きな感情表現がしたくなる衝動がこみ上げる。 
言葉で語りかけられる以上に、目の前で繰り広げられる光景の熱量の格好よさに拳を握ってしまう。そしてちゃぴちゃんのグッディに改めて、セーラームーン世代として"ピッと凛々しく"が体現できる女の子がここにいる…!!という喜びが湧く。私が小学生女子だったらぜったいあのサンバイザーをつけてグッディごっこするし、頭の上でピースするなと思った。最高にクールなちゃぴちゃんのグッディ。
https://natalie.mu/stage/gallery/news/275908/897181

(あまりにも格好いい瞬間の写真なのでURLを貼ってしまうけれど、いつか404になるのかな…)


"ああ わたしたちが もっともっと貪婪にならないかぎり なにごとも始まりはしないのだ" 茨木のり子の「もっと強く」を思い出す。

かんぺきに悪い女の子になる勇気はなくとも、人間だから天国以外もどこへでもずんずんいきたいだとか、「なぜ私たちがいつも譲歩しなければならないの?」とかそういうことを思い出す。

 


冒頭からジェットコースター並みにBADDYへの感情を上げ下げしつつ、カンパニーもBADDYも主張の激しさ、作っている人の意識がどことなく(激しく)漏れていることを感じとる作品、という意味では同じくくりだったのかもしれない。でも伝えたいことの見せ方や筋道のつけ方がまったく違うので、受け止め方が全然違う。
主張の表現方法(場面構成や台詞)を考えると、BADDY全体を手放しに好きかというと実はそういうわけでもなくて、心のなかの紙一重のライン上においているような気もしている。芝居もショーもある意味どちらも、宝塚のお決まりをいい子に守ってて楽しいですか? と問うてくる部分は(分量や表現はまったく違うけれど)共通している気がして、でも伝えたい内容(私が勝手に感じとった)として後者が断然好きだから、ひいき目で後者を見てしまう、みたいな差異。誠の群像をみたときに考えていた、思想を物語のなかでどう表現するか、という話につながる部分もある。
芝居担当の方の感性が正直、コケにされているようなところもあるショーだと思うけれど、担当者は「ショーおもしろいじゃん!」(久美子先生の肩ばしーん!)としか思ってなさそうだよね、という話を終演後、友人としていた。

 

価値観を揺さぶられてぐちゃぐちゃになるひともいれば、結局自分の信念に帰ってくるひともいて、どちらにも光が当てられているのが、物語としてとても好きだ。
地獄の炎のなかにとりこまれて帰ってこなかったバッディとグッディ、 そして平和が戻るTAKARAZUKA-CITY。そういう流れにまで、BADDYみたいなショーをつくっても、結局宝塚歌劇の「平穏さ」は損なわれることはない、みたいな演出家の比喩を勝手にみてしまうのは、舞台を味わっている瞬間より考察に熱を入れて過ぎてしまう本末転倒人間になりかねないなと思いつつ、ぼんやり思ってしまったので書き記しておきたい。
ポッキーやスイートハート、クールさんの話もしたい、ほかにも目が回るほど色々な要素がちりばめられているショーなのに、ピンポイントすぎる話をしてしまった。


それでも「ただしさ」はつまらない、なんて単純な話ではないこと、守りたいもののために声をあげることは恥ずべきことではないこと、声をあげることで突破していけるものがあること、そういう要素も含んだショーでもあったかな、という記録です。