TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

『誠の群像』にみる「誠」とミソジニー

 

 


ある実在した時代や人物を登場させるフィクションをいま新たに生み出す際、その時代の価値観が現在のそれと著しく乖離していることがある。しかし乖離している、という事実だけでそのフィクションを根本から否定すること、描かれている内容を見たままに受け止めて批判することはナンセンスだ。フィクションはもっと奥深く、あらゆる鑑賞にたえうる力を持つものである。

けれど、そういった価値観にもとづく暴力、倫理的に疑問が生じる行為、思想がちりばめられたフィクションを楽しめるのは、書き手と受け手の間で「これはいまの価値観ではありえないことである」という認識が共有されているときだ。いまも現実で見過ごされている暴力や価値観が「過去」や「ある特殊な状況下」であることを隠れ蓑に肯定され、無批判に描かれているとき、 受け手はその物語をまっすぐに楽しむことが難しくなる。


これを前提として観劇したとき、『誠の群像』は現代において気兼ねなく楽しめるエンターテイメントになっているか、一観客として受け止められる作品かを考えた。


▼脚本・演出に思ったこと(とてもざっくりと)

一応司馬遼太郎氏の原作が下地ではあるけれど、複数の作品から脚本・演出家が「萌え」を感じるエピソードを脈絡なく抜き出し、かつ台詞や内容を作り手の思考に合わせて改変しているので、つぎはぎ感が否めない。かつ、この時代だったらありえるかな、と観客が割り切れる以上の男尊女卑思想が根底にある台詞が頻出しているのも不快だ。

基本的に「決め台詞→ジャジャーン!(効果音)(なぜか音のバリエーションは豊か) →暗転」の連続で話が展開(?) していくので、その都度集中力が途切れて正気にかえる。エピソードひとつひとつが細切れである上に、そのつなぎ方や内容の粗を演出のスピードでごまかす技術もないように思える。ゆえに、局中法度を念仏のようにありがたがる新選組の皆さんの、悪逆非道ぶりが浮き立つ。鬼と罵倒される土方をイメージしたひと場面をどう受け止めていいのかいまだにわからないけれど、それは好みの問題なのかもしれない(あまりにもアウトなことが舞台上で次々と起こるので、こういった表現のダサさを掘り下げて考える気力がない……)。

宝塚ファンは、ファンである役者のタカラジェンヌ生命の短さを意識して観劇しているがゆえに、 楽しむためには脚本の多少の粗には目をつむる、自分が好きな役者の出番が多い等よかった探し名人の方が多い。全体的に整合性がとれていなくても、ある場面の格好よさでリピートできる人が多い。そういうヅカオタライフハック精神につけこむ作品のひとつだと感じた。


▼描かれている男性観、女性観(への疑問)

冒頭で書いた「いまも現実で見過ごされている暴力や価値観が「過去」や「ある特殊な状況下」であることを隠れ蓑に肯定され、無批判に描かれているとき」の「暴力や価値観」=「脚本・演出家のミソジニー」です。幕末を隠れ蓑に、 脚本・演出家は自分の価値観を無意識にだだ漏れさせている。

ナウオンでひらめちゃんが語っていた脚本・演出家にいわれた言葉「(あの時代)女の人は頭に1番にあるのは恋とか恋愛だよ」に目をむいてしまった。そう言われてでれでれしている男側が書いたものしか読んでいない、女の側の事情に一切心を砕いていない人間のいうことだ。きほちゃんの「石田先生は女性もこまやかに描いていらっしゃる」みたいな言葉も、作品内での描かれ方のひどさの無意識(?)のフォローにしか思えない。小夜さんの「ご乱心くださいませ」を理解するには「神父さまのメールは?!」並みに役者の演技や熱量や観ている側の心の寄り添い力が必要だ。

お小夜さんの母の「家名を汚す気か!」の罵倒も、いやあなたの立場はわかるのだけど武家の誇りじゃ飯は食えないしその病も治らないのでは…娘に世話させてるのはあなた…と真顔になり、彼女の母が怒ったのは、近藤に迷惑をかけたからではなくて、おのれの家名が傷ついたからだろうなと思うとともに、そうやって個人を追い詰めてまで守らなきゃいけない悪しき概念がイエで、サムライなんだろうな、と作り手の意図していなさそうなところで、武士の厳しさというより社会や制度の恐ろしさを感じた。幕末を描いた物語にいまの価値観でツッコミを入れる野暮さは承知の上で、でもこうして武家の女が没落して身体を売って……というエピソードに現代の脚本・演出家がなんらかの萌えを発動させたことは容易に想像がつく。そこまで身を落とさせた女の書き込みが特にない、雑であることにも、何かを見出さずにはいられない。  

幕末を生きる男たちが「誠」と呼ぶもののことは格好いいとは全く思わないけど、お小夜さんの「斬られにきた覚悟」に土方は彼の信ずる「誠」に近いものを見て惚れたんだと思った。それならそれで「男たちの誠」としないで、その時代に生きた人間、男女問わず根底にあるものとすればいいのに(そうしたことによりまた別の問題は発生するとしても)お小夜さんに結局「難しいことはよくわかりませんが…」と言わせてしまうから、ホモソーシャルの凄まじさをそこに見る。

作品全体に女性キャラの登場シーンが少ない、お飾り程度にしか描かれていない、男たちの悲壮感を増す存在でしかないので、描かれていない、男たちの世界から排除する、というふうにあらわれているミソジニーに、もしかしたら同脚本・演出家の現代ものよりはまし、と捉える人の方が多いかもしれない。

項目を分けてしまったけど、この時代で誠を貫く武士の描かれ方について掘り下げることが、そのまま作品内の男性観、女性観を掘り下げることにもつながっていく。


▼時代、題材の描き方はどうか(題材へのアプローチ、あの時代の見せ方、かっこいいとする対象の扱いの難しさ)

現代で「サムライスピリッツ」「武士道というは死ぬことと見つけたり」を扱うフィクションを新たに生みだすことの意味について考える。

この時代や土方歳三という人物、新選組という団体自体をフィクションのモチーフのひとつとして扱うことが、悪というわけではもちろんない。

でも宝塚の舞台で描く題材、トップスターにやらせる役には、どんなに注意深く描いたとしても自動的に「格好よさ」が付随し「その人物の人生の肯定」という光が当たってしまう。人物に当たった光はそのまま作品全体にも注がれる。そのパワーの凄まじさはもろ刃の剣だ、と初めて気づいたのは、『桜華に舞え』を観たときだった。 


あの時代を生きる彼らの今際の際の大義に、勇ましく戦い死を恐れない姿に、一観客として気分を高揚させたり涙することは危険だと感じるのは、犠牲となった彼らの死を尊ぶ文化「お国のために戦った彼らのおかげで今の私たちがいる」という意識が、いまもこの国に生きる人たちのなかで、途切れていない、完全には否定されていないからだと思う。物凄い飛躍だ、それこそ過激な見方だ、フィクションの中の話でしょう? と思う人の方が多いとは思う。けれど、スカイステージのトークコーナーで、前述のような言葉を口にする生徒さんがいたことは事実だ。たとえ稽古~上演中の瞬発的なものだったとしても、彼女らの役を深める意識の高さ、素直さがそういった思考にすっと結びついてしまうのはひどく恐ろしいことだと感じた。「特攻隊の人たちが頑張ってくれたおかげでいまがある」とそれは何が違うんだろうか、と私は思う。当たり前だけれど、彼らの最期を賛美することを否定することイコール、亡くなった方の人生自体を否定するという意味ではない。それはまったく別のことだ。彼らの死にどういう意味づけをしてどう美しく「物語化」するのが危険か、ということだ。彼らの死を美しく飾ってしまえば、その極限状況下であれば「お国のために」は肯定してもいい、ということになってしまう。

(未来ある若者の死を描く場面つながりで、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を思い出す。ABC友の会のメンバーの死がどのように描かれていたか、新演出版でアンジョルラスの死がどのように表現されていたか、遺された人は彼らの死をどのように悼んだか、を考えると、作品を生み出した国の価値観の違いも見えるな、と本件に絡めて思い出した)

”せごどん”を「大きい」人として扱うのも鉄板だ。けれどひたすら、分け隔てなく人に接する好人物として描かれている男が、それでも刀を持ってでしか解決できないことがある、と未来ある若者を引き連れて戦にむかう姿を批判なく描くこと。観ているうちに、大義のためならば殺し合うことも仕方がない、ラストサムライラストサムライ…となかば洗脳させられるように、かつての朋友の泣きながらの訴えでシメ、という流れは、誤解を恐れずに言えば「プロパガンダと宝塚」の一例として取り上げられても仕方がないのでは、と思うようなものだった。


梨木香歩のエッセイ『ぐるりのこと』の「群れの境界線から」という章に映画「ラスト・サムライ」を見て感じたこと、そこから西郷隆盛の話につながる文章があり、本件に関連しているなと感じたので、以下、一部抜粋。

ラスト・サムライ』では、大義のためには「死をも恐れない美学」のようなものが謳い上げられているわけだけれど、死を恐ろしいと思うのは、その個体性の喪失にあるのであって、死自体ではない。たとえば、無性生殖で増える細胞には、そういう意味での死(個体性の喪失)はない。 どこまでも自分のコピーだ。個体性に重きを置かなければ、なるほど死ぬこともさほど怖くはないだろう。群れ全体の組織性にアイデンティティを見出していればいるほど、命は容易く投げ出せるわけだから。

  

(西郷を表する言葉を指して)

「無私の精神、という謳い文句は、個人を「群れ化」させてゆく方向性とパラレルだ。その微妙な差異に敏感でありたい。マインドコントロール的に煽られて、「考える」努力を放棄することはするまい。彼を神格化し盲信し、今の時代に彼のような人間こそ、 というのはあまりにナイーヴだ。西郷隆盛的、という、居るだけでそこに自然に手足となるような崇拝者の群れをつくってしまう在り方が、(一部で叫ばれるように)これからの日本人の目指す成熟した大人のあり方とは思えない。目的の場所は過去にはない。モデルはじぶんでつくっていく。

 

宝塚は熱狂的に団結した共同体を描くのにとても向いている劇団だと思う。同時に、そのなかで突出した個を無批判に神格化して描くことにも向いている。『桜華に舞え』を観て一番恐ろしかったのは、舞台に息づく人たちのパワーに圧倒されて、心揺すぶられて自分も泣いてしまったことだ。そうやって、物語自体に抵抗がある人間の感情を突き動かす凄まじいパワーがある作品だった。宝塚として面白く感じてしまった。そういう宝塚の、生の舞台のパワーが、わたしには時々とても恐ろしく感じる。


星組での前述のような体験を得て、『誠の群像』にはかなり構えて向かった。再演もので内容を把握していたのもあったし、この脚本・演出家が手掛ける作品に組み入れがちな②で言及したような思考・台詞群が得意ではないと自覚していたのもあった。

そうはいいつつ、最終的には望海さんのビジュアルでなんとかなるかなと思っていたにも関わらず、あの土方という役を演じている望海さんをみることは実際にはとてもつらく、恐ろしいことだった。小夜さんへの想いを沖田に漏らしたり、荷物を強引に奪う場面、萌えたところももちろんあったけれど、怖さがそれを上回ってしまった。 OPの5分は、白眼のきいた視線のくばり方や、落とした腰の立ち振る舞いのキレのうつくしさ、歌声の張りや声量の豊かさにぐっと心を掴まれていたのだけど。


たとえ世間に後ろ指をさされようと、自分の信じた道をまっとうするのが男役の美学の型のひとつであるとするなら、土方のフィクションでの描かれ方とそれは、とても親和性が高いと思う。そして望海さんの男役としての強さ、たくましさ、雄々しさも、そういったものととても親和性が高い。

この作品では、土方のゆく道が世間とは逆であることを、彼を否定する人や言葉を次々と描いて誇張しつつ、だから真っ向からは人殺しを肯定はしていませんよ、というていをとる。だって人殺しなんて肯定されるわけないじゃないですか、という万人の心に前提としてある倫理観が、その言い訳を助ける。「鬼の副長」としてどんどん孤独を深めながら、けれどおのれの分を理解して道を選んでいる、言い訳をしない男として土方を描くことで、 結局彼の信念の大もとにあるものの存在を明確にせず(だって武士だから、新選組の鬼の副長だから、で終わり)みている側に「彼のおのれの信念を貫く姿勢は尊い。見上げた男だ!」と判官贔屓を誘う流れ。

宝塚で上演することで、結局、その役を演じているタカラジェンヌのかっこよさに回収されてしまう。実際の集団や出来事も、男役をよく見せるためだけのモチーフとしての役目しか果たさない。見た人の多くはなんだかかっこいいものを見たな、という気持ち以外、何も持って帰らないのかもしれない。

それでも「士道不覚悟なので切腹」「侍は打首ではなく切腹させるのが温情」「真剣勝負なら人殺しもありだけど、闇討ちや油断したところを狙うやりかたは武士らしくない」「動物を切るのはかわいそうだから死体をもらってくるんだ」というような、理解しがたいルールで生きている人たちがちらりとみせるやさしさ(?)や日常だけで、彼らもひとりひとり人間である、懸命に生きていた! だなんてざっくりまとめられるのはちょっと怖くないかなって思ってしまう。当時生きていた人たちの倫理観自体の怖さ以上に、その物語内での扱いが怖い。 彼らの行為が物語のなかで「格好いいもの」「避けきれないもの」として格好良く肯定されている描き方が怖い。宝塚は基本的に観客に共感を訴えかけてくる、作品の主軸に醜いもの、忌避するようなものや描き方を据えないつくりである、という前提で話を展開している(あえてそういう難しいものを題材に選んだり、表現として選ぶほどのひねりも技術も、この脚本・演出家にはないだろう、と思っているのもある)

高田が暴れまわって切腹できなかったことを「武士になれなかった、か…」と沖田と土方が話す場面、彼らのなかで自死を嫌がった仲間1人を斬り殺したことの意味が「武士になれなかった」程度(とあえていう)の重みであることは伝わってくるけど、それが彼らの、死んだ隊士の悲哀である、という侍ルールは頭では理解できるけど、それを観客側が一緒に切ないね、と思うには、男たちが男たちだけで完結していて、感傷的すぎる。狂気的な陶酔に浸ってはいやしないか。そういう倫理観やあらゆるものをとびこえて不思議に心を寄せられるほどの書き込みが、この作品にはないなと感じた。

物語を味わう方法が感情移入一択だなんて思っていないけれど、あまりにもこちらの心を置いてけぼりで進行する物語内で、時々唐突に、格好いいだろう、どうだ?と武士(=男)の美学が差し挟まれるのが、観客の多くが女性と知っているはずの作り手が、手掛ける作品すべてで打ちまくるミソジニー描写と無関係には思えず、ただ不快になるばかりだ。

(こういう男目線を全力でねじ伏せて消費してやる、と息まいていた時期は私にもあった。幕末小説を読み漁っていた中高生のころ、女性作家の作品は腐女子目線すぎてだめ、男性作家の作品は男同士の関係性が自然(!)でその中から萌えを自分で見いだせるし女性がないがしろにされてるふうなのも腐女子的にいい(!)という、自分は彼らにBL萌えを求めているくせに、そこに作者の作為的な視点はいらないというウエメセかつおじさんたちの書いているものをBL消費してやるという優越感に浸っていた苦しい記憶)


書き込まれている様子は作品には見当たらないけれど、舞台というのは恐ろしいもので、望海さんたちの背骨に通っているもの、役者の精神が、そういったよく捉えるのがむずかしい人たちに魂を与えてしまう。生身の人が演じるパワーって本当に凄いし、でも怖い。 銃に撃たれて死にそうな人なんて人生で一度も見たことないのに、死に場所を探して(!!!)敵方に討ち入った土方が、胴体に何発も食らって足を止めてよろける姿の、あまりのなまなましさに慄いてしまった。そういうものに恐怖を感じるのは、舞台上の土方があまりにも自ら死に向かうひとの迫力にあふれていたからで、それは望海さんが演者としてすぐれているからだと思う。思うのだけど、 わたしはやっぱりこういう死に方を自ら選ぶ人の凄みみたいなものを、他人に残虐な死を選ばせる非情さを、男役の格好よさと紐付けて欲しくない。「土方どんの英霊に、敬礼」なんて言葉で称えてほしくない。

脚本・演出家の好きな「精神的に恐ろしくマッチョな男」と「誠」と「武士道」の食い合わせが最高に良く(悪く)、最悪な形で合体してしまったとしか思えない作品だ。

(では徹底的にやばい人として描いて、砂糖ごろもをまぶされなければいいかというと、別にそんなやばい人たちの物語を宝塚の芝居として見たくないし、好きな人に演じて欲しくもない、というところが宝塚の難しいところだ)


土方という男が新選組という組織を命をかけてまで維持したい理由について突き詰めたとき、自分が侍としていられる場所がそこだけだったから、もともとの出自が武士ではない、身分に対してのコンプレックス、自分のプライド一つだけでは、という考えが浮かぶ。自分の信念、孤高を貫いているようでいて、その信念は社会や制度の枠組みの中で生まれたものだ。男であることと武士であることが分かちがたく結びついてしまっている。土方はすました顔をして、心の中でみっともなくもがいている。そのことをこの物語のなかの彼自身はきちんと自覚していたのだろうか。そういう土方の本当の意味での「男としての小ささ」(あえてこの表現)を細やかに描くことを、この劇作家・演出家はたぶん得意としない。しかしそれとは別に、成り上がった(?)男が、出自が高貴な人間より一番その男にふさわしい精神を持っていた、みたいな物語は好きそうな脚本・演出家ではある。

おれは世間に謗られても……と常に斜に構えて格好をつけながら、芯の部分にある思いを覆い隠して思考停止している人。自分たちでつくった局中法度がなんで必要なのか、深く考えずにこれを押したら世界が滅ぶスイッチみたいに神棚において、そのルールに従って人を殺しては、仕方なかったと泣く人たち。 そのルールをなにも考えずに守ることを「信念」や「誠」と呼ぶんなら、その姿って全然かっこよくない。『誠の群像』のテーマってきっと、ばかなおれたちを許してくれよ、ってことだ。「おれたち」という言葉の持つ連帯感の甘やかさ。一匹狼を気取りながら「誠」という鎖で繋がれてることを知らない人たち。 私はそういう物語としてしか、これを納得して受け入れることができない。格好いいものとは思えない。虎徹という飴玉が欲しい近藤さん、その夢を守りながら自分の何かを守ろうとしている土方というエピソードは、頑なに男のロマンを大事にする姿への哀れさが先にたって、この人たちほんっとにばかだな、と思う、私には彼らの「誠」のうつろさを象徴するような場面だった。場面としてきらいではない。この「きらいではない」は好きという意味でも男の人って馬鹿ね、と受容して笑う意味でもない。

 

登場する役者たちの男役としての型は本当に格好いい。だからその人たちが作り上げている物語にのれないのは酷く悲しくつらいことだ、という思いも同時にわく。 あやなちゃんのドジさま絵みたいなきらきらのおめめ、しかも笑うとほっぺたに横線が入るような、みゆちゃんを思い出すえくぼのかわいい顔で「かわいそうだったなあ」と口にする沖田のとぼけた具合は正直好みだったし(これは新選組のやばい人たちエピソードのひとつでもあるけど、沖田あるある台詞でもある、ということがわかる程度には新選組をかじってしまっている……)、そういう沖田が弟分として無性にかわいくて、お小夜さんへの恋心をぽろっと漏らしたあげく、おまえはいいんだよ、小突きつつ彼への愛情を上乗せするやり方がとんでもなくいけない兄貴分土方、という構図に心を掴まれない人なんかいない。 お小夜さんとの場面にそんなに時間が割かれていないがゆえに、土方の誘い方がたたみかけるような性急さなのも、脚本の雑さであることは否めないけど、土方の手なれなさ、朴念仁さが出てるような気がしてばっさりとはできない。それもこれも、望海さんがああいうぶっきらぼうさがあまりにも似合う男役なのと、お小夜さんのきほちゃんのうまさゆえだ。

言い訳をせずに自分の信念を貫く姿という型は男役の伝家の宝刀だと思っている。それをふさわしい理由なく格好よく見せてしまえる、役の厚みを足せるのが男役の上段者であるとは思う。でも演者にこんなに助けてもらって、作り手は恥ずかしくないのだろうか。文句を言うためにチケットを買って、予定をあけたわけじゃない。役者に恨み言を言いたいわけじゃない。でも彼女らが魅力的であるからこそ、あんまりにもやりきれない。Super Voyagerが最高だったからいい、なんて話じゃない。

 

繰り返しになるけれど、現代設定だと違和感がある女性観や、他人を犠牲にしてまで貫きたい男の甘やかな信念を、この時代だと大目に見てもらえると隠れ蓑にしているのが透けてくるようで、見ていて腹立たしい作品だった。時代設定や題材を選ぶ理由は本来、そこにあってはまずいはずだ。 ビンタや切腹、人を殺す描写が表現としてアウトという話ではなく、物語として、それがどういう文脈でつかわれて、作り手がどういうふうに見せたいかがきちんと描かれるべきだ。そうした倫理的にアウトな行為が、彼らの哲学(誠)と紐付いている、どうだ格好いいだろう?(よくない)と誇る意図はみえて、でもどうしても必要な理由は描かれていない。 女子どもにはわからん世界なのですよ……と口ごもって、眉根を寄せて、最終的に背中で語るのが得意な役者がたくさんいる劇団だし、そうして脚本・演出家は役者や、宝塚のフィルターの強固さに守られている。 ある種の行為を男役に演じさせることで生身の男性のようなリアリティを出したい意図もあると思うけど、物語内での必然性がないから、その役のなまの行動として見えるどころか、ああ演出家がビンタさせるのが好きなんだな、で終わってしまう。あるいは「この時代の人は話し合いの途中でビンタするんだ怖いな」 男たちの熱いぶつかり合い=ビンタ(人の内面が書けないので便利な表現として)、というなさけない一例。


改めて、宝塚の枠組みのなかで上演される物語や、真ん中の人がやる役の行い、人生を肯定するパワーの凄まじさは諸刃の剣だと感じた観劇だった。本当にアングラで一部の人だけが見るもののままなら問題はあまり発生しないのかもしれないけど「世界の宝塚」を自称したいなら、もっと考えるときがきているのかなと、一観客として思っている。

(その点において、『ひかりふる路』でのロベスピエールという人物の描き方は、彼の思想と行動の対比や、最期の表現の仕方において、かなり配慮があるものだったと、私は思う)(しかし自分と地続きでない国、時代も相まってあまりにも遠い人、という人物への距離感からくる捉え方もあると思うので、それでもアウトだった、という人もいるかもしれない。そういう人の意見もとても知りたい。)

 

今回、それってあなたが日常的に思っていることでは? と受け止めてしまいたくなるような思想の盛り込まれた作品を観て、宝塚において、主義主張が目立ちすぎる劇作家・演出家は疎まれがち、ということについても考えた。私は主義主張を作品内に織り込むのがダメなのではなくて、宝塚の演出家でその批判をうける人たちの多くが、作品内に自分の主張をうまくなじませることができる技量がない(のに、執念深く諦めない謎の熱意を持っている)からだと思っている。(ex.主張を台詞で連呼させたり、唐突なエピソードとして挿入) 

たとえば反戦の意図を含ませる物語を宝塚で上演することは可能だし、実際そういう作品もすでにあると思う。主張をうまく織りこめないような劇作家・演出家は、物語内で直球の台詞を演者に言わせるだけが手段ではない、その意思をひとりの人間として自分の口から主張することでの意思表明もできる、ということを知った方がいいんじゃないかな。それでも自分はクリエイターだから、作品の中に織り込むぞ!ということなら、もうちょっとうまくやってほしい。一部の劇作家・演出家の舞台表現がダサいからって、主義主張の内容がダサくなるわけじゃない。その人たちの表現のうまくなさゆえに、何か表立って意思を主張すること自体がダサい、みたいな認識が広まってしまうのはわたしはいやだ。それとこれとは別のことだ。

 

ヒトという、この本来、なぜ自分がここにいるのかすら甚だ心許ない、不安定きわまりない動物が、常に欲し、根元的に求めているのが、この、「安定」しているという感覚だとしたら、受け入れられてあること、(できることなら)愛されてあること、一体感、帰属感、そしてその個を統合する全体性への 強い憧れを禁じ得ないものだとしたら、そのための「群れ」だとしたら、しかしもはやその「群れ」に、人を健やかに安定させる力が消え失せているとしたら、もう「群れ」る必要はない。 その組織性が暴走し、本来その組織性が保証するはずだった精神的・社会的安定を個から奪い、更に個の生命すら道具に使うようになったら、それは「必要悪」の次元を遥かに超えている。そうなった「群れ」にはもう忠誠を尽くす必要はないのだ。

梨木香歩『ぐるりのこと』より