TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

ミュージカル『FUN HOME ファン・ホーム』を観てぐるぐる考えた話 (2018.2.16追記)

舞台自体の感想というか、観てぐるぐると考えた話です。

レズビアンの漫画家である娘とゲイの父親の話。外面は取り繕いながらも内側に複雑な事情を抱えた家族の話。夫に浮気され続けていた妻の話。自分の価値観を押しつけようとする父と、そんな父に影響され、同時に疎んじながらも父を理解することで自分の人生を紐解こうとする娘の話。 この家族にしかない事情の特別さと、ありふれている面と。普遍的な話、と一言で片付け はできないけど、この家族ほどに劇的な振れ幅はなくとも、どこの家族もどの家族にも共有できる普遍的な部分とそうではない特異な部分を持っているんだ、と改めて気づかされる話でもある。自分の家族のことを考えてしまう。 同時に、家族の話だけど、家族だけで閉じている話なわけではない。家族を構成しているのは個人で、その個人が社会でどう生き、どう受け入れられず、そのことに苦悩するかという話でもある。

そういうことを考えながら見ていた、小さなアリソンがスカートをはきたがらない様子に いらだつブルースの場面。みんな○○してるのにおまえだけしないなんてみんなに△△扱 いされるよ、と責め立てる彼の、自分が気にいらないんだという気持ちをストレートに口にせずに「みんな」に押しつけるやり方へは勝手に既視感を抱いてしまった。だいたいにおいてそういう人間が一番世間体ってやつを気にしてるんでしょう? とぴんとくる。彼の場合、世間体を気にする一番根深い理由は、自分自身が大多数の「みんな」と同じじゃないことを隠しているから。彼がみんなと同じではないのは、どういった性別の人間を好きになるか、というところ。彼が感じている抑圧は、文化的なものへの嗜好と自分の生活環境のずれも含め、複合的な理由ではあるのだろうけれど、一番比重が高いのは彼の性的指向、というふうにミュージカルの中では描かれている。 父・ブルースができなかったカミングアウトを娘・アリソンがしようと思ってできたのは、 それぞれの性格だけでなく、彼らが青年時代を迎えた年代や土地(アリソンの実家と大学 との違い)といった環境、出会った人(ジョアンの存在の大きさ)、ジェンダーの差異、性 差にとらわれているか否か、というところもかなり大きいと感じた。70年代アメリカにおけるゲイの社会的地位と、現代日本のそれって実際どのくらい違うんだろう、と後者の後進国ぶりを感じている身としては考え込んでしまう。もちろん都心と地方でもばらつきは あるだろうから国単位で一括りにはできないけれど。
肌感覚としてはわからなくても、舞台での描かれ方から、あの作品内の年代・土地において、あの年齢の男性が過去~現在に渡ってカミングアウトできない事情(もちろんカミングアウトの要不要は個々に委ねられている)は何となく想像ができた。 ブルースの内外からの抑圧が、彼が一番選択したい自己のあり方とは別の隠れ蓑「ファン ホーム」をつくる、という形で表れたことも。そしてそれを維持しようとしたことによってひずみが生じたことも。でもそのひずみは個人で完結するなんてことはもちろんなく、 他者へも大きな影響を及ぼしてしまう。 性的指向とその人の性質、行動の相関性は無視できないけど、男嫌いが全員レズビアンなわけではないし、ゲイ全員が未成年に手を出すということは、当たり前だけどありえない。ブルースという人が、あの環境でゲイであることを表に出せない苦しさ、自分を押し殺すつらさについては気持ちを寄せられても、その苦しさが妻への不貞や未成年へのわいせつ行為にまで結びついてしまったことは、正直受け入れがたい。アリソンの心の中で父との思い出を掘り返して、共通点を通じて対話ができたような気持ちになって、心残りはどうしたってあるけれど、彼女の心の中ではひとつ落としどころがついた、というラストは、父と娘の関係性、アリソン主観の物語という部分だけにフォーカスすれば見ている側も消化可能かもしれない。でも、アリソンと違ってブルースとの対話が不可能な被害者は存在する。
私が妻ならあの夫のことは生涯許す気にはなれないだろうし(実際愛想をつかしている歌があってほっとした)、被害をうけた未成年は? 彼自身の人間としての弱さ、繊細さはわかるし、時代や境遇の被害者ではあるのかもしれないけれど、じゃあ彼が女でレズビアンなら同じことをしたかな、立場の弱い人間に性行為を迫るって女の身体だとなかなか物理的にハードル高いよな、とすこし飛躍したことを考えてしまった。ゲイであることを隠したいがゆえの「男性性」の強調という のもあるだろうけれど、妻へのマッチョな態度も相まって、男性の身体を持って、社会に求められる男らしさ」に固執していた人の苦しみの話とも捉えられる。

どんなにだめな人間であっても、親は親として自分の人生から切り離すことは難しいし、愛してほしい、わかりあえたはずだと望みを捨てられない。M! の「なぜ愛せないの」を思い出しながら。
だから娘の立場なら、納得できる形にたわめて自分の心をやりくりするしかないのかもしれない。もう自分の罪を償えない人を憎み続けるのはつらいから、彼の一部を引き受けるというやり方を選んだのかもしれないとも思った。これからも生きてゆくアリソン自身のために。そもそもブルースが彼の性的指向をオープンにして生きていたら、アリソンは生まれなかったかもしれない。機嫌のいい父との数少ないスキンシップの機会を幸せな記憶として残していた、自分は親に愛されていたか否か確認するため、過去へと遡る物語だとすれば、浮気も未成年への性行為の強制の発覚も家族が成立する基盤の揺らぎに繋がって、じゃあ自分が生まれた理由って、意味って何? というところに全部帰結するのかもしれない。親子だから、同じマイノリティだから、わかり合えるとは限らないし、ブルースは娘としてアリソンのことを愛していたのかもしれないけれど、家族だけでは満たされてはいなかった。全部がぐちゃぐちゃと混在して起こりうる、ということを自分の身近なひとを一人思い浮かべて、その人に抱く感情の種類がひとつだけではないとい うことから、アンテナをのばして考えてみる。丸ごと許せる、許せないという話ではないんだとは思う。この物語はアリソンの視点なのだから、アリソンの気持ちに寄り添って、そうして父・ブルースを見つめればいいというのはわかる。でも私はやっぱりアリソンではないので、娘として父を受け止めるという話とはまた別に、自分の罪を償わずになくなってしまった、生きづらい人と一言ですませるにはあまりにも周囲に悪影響を及ぼした、厄介な人の捉え方に迷ってしまう。人生は続くんやからな!と私の頭の中のフアンちゃん (ALTAR BOYZ)が叫んでいる。

こんがらがった頭の整理という意味で書き連ねたいことが多い作品ではあったのだけれど、 生のミュージカルを見て演者のパフォーマンスから受けた衝撃、溢れた感情かといわれるとたぶん違う。終演後にひとつひとつの要素についてぐるぐると考えた上で出てきた言葉なので、自分の知識を総動員しているだけの頭でっかちな文章になってしまった感がいなめない。こういうふうに捉えるべきってわかっているけど、別にその感情は生で観劇して いる最中に浮かんできたものではないよね?と自分に問いかけながらキーボードを叩いています。 それは、ブルースという人をどう捉えていいか判断に迷ったというのもあるけれど、ミュ ージカルを味わうという意味で、一部の演者の歌詞がきこえなかったり音程にやや不安がある歌声にストレスを感じて、物語に入り込めなかったというのが大きい。子役だけのパフォーマンス場面に耐性があまりなかったのもある。手拍子で盛り上げる場面として演出する前に、もっとクリアに歌詞が聞こえてきてほしかった。初日だったので、後半見たらまた違っていたのか。
あらすじや役者さんや演出家名で絶対好きだろうなと思 って観に行ったし、ところどころ好きだ!と思った場面はあったので余計に悔しい。2回以上観たら印象が変わるような気はしているけど、タイミング的にかなわなそう。BWでの作品を好きな人や原作を読んでいた人の好評はちらほら目にしているのですが、内容の予習がもっと必要な作品だったのか、むしろ BW版についての文章を読んだのがよくなかった のか、私のアンテナの鈍りかなとも思ってしまった。BW版が観てみたかったです。でも原作は買ったので読みたい。

他に気になった場面について。 大学生のアリソンの初体験場面。ぐるぐると悩んでいた彼女がぱーんとはじけるようにしてジョーンの名前を連呼する歌の晴れやかさがとても好きだった。 あすこで布団をかぶってもぞもぞする二人の光景に、あーやだやだというふうに下手にはけていくアリソンからにじみ出ているのが、自分の特異さをさらけ出すことを恥じているふうではなくて、自分の初体験の話とかこっばずかしいんだけど、みたいな雰囲気で、そこいらに転がってる一山いくらの若気の至りに対峙する恥ずかしさとほぼ同じニュアンスだったのも、麻子さんのアリソンとしての自然体さが出ていていいなあと思った。

その後にアリソンのカミングアウトにブルースが「何でも試してみるべき」「でも決めつけるのはよくない」という様なニュアンスの手紙を書くのは、寛容なアドバイスでもなんでもなくて、 ヘテロの人間が「あなたは若さゆえの気の迷いで一時的に同性に恋をしているだけかもしれない。それをレズビアンと決めつけるのは人生の選択を狭めること」とわかった口を利くのと同じことなんだろうなと。アリソンにとって親にカミングアウトすることは、もう自分が好きなように生きる!という宣言であり、同時にそういう自分を認めてもらいたいという望みもこもっているように感じた。ブルースがゲイであったこと、彼のしたことを考えると、そのアドバイス通りに彼自身が行動した結果がいびつなファンホームの形成で、でもそのおかげ?でアリソンはあの夫婦の子として生まれ育って、という皮肉さ。

大学で出会うやつにそんなに期待しない方がいいというブルースからアドバイスを受けるアリソン、父に自分の描いた絵を強制的に直されて反発して、それでも最終的に父の希望するいい子の返事をしてしまおうとするアリソン、そのほかも思い返すとうっと胸が苦しくなるような場面が多かったのに、なんですとんと落ちてこなかったのかな、とぐるぐるといまだに考え込んで尾を引くような観劇だった。

 

 

2018.2.16追加

原作を読んだ。やはり文化面で対等に会話が成立するインテリ層の父と娘の物語は、父と娘、父と名誉長男の関係性が並行することがあると思っている。異性の親への少しの甘やかさと息子として成し遂げるべき父親殺しがあわさって、解きほぐすのが困難なほどのカオス。前述の関係と、英米文学が作中に示唆的に頻出することから、アーザル・ナフィーシー『テヘランで〜』『語れなかった物語』を思い出さずにはいられなかった。親だから、近しい性的指向だから分かり合えるということはきっとない。ないけど、その存在と和解しあえなかったという事実が当人同士の人生に影を落とす、というのもままあること。当人だけがそのニュアンスを自分の人生になじませてゆくことができる、というような話を、確か梨木香歩さんが『ぐるりのこと』でおっしゃっていたのを読みながら思い出した。これを先に読んでたら、どうやってミュージカルに?!って絶対思っていたし、これを読んだいまミュージカルを見たら、この本で得た内容を舞台上の光景に混ぜ合わせて、観劇体験として膨らんだ気はとてもする。しかし一般教養は別として、そういう予習が必要な作品を私は好まないので、なんだかなあと考え込んでしまう。最後のドライブのコマ割りとか、ミュージカルの演出と合わせて読んでしまってお腹にズドンときてしまった。父・ブルースがフィッツジェラルドに傾倒していたというところはもう、原作、各資料で履修済みなのでいろいろなことが腑に落ちすぎた。