TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚雪組『ひかりふる路〜革命家、マクシミリアン・ロベスピエール〜』(2018.1.12追記)

史実はともかくポスターを見て持ったイメージはリアルに胸板が厚そうな世界のスーパーダーリン。のぞみさんちょっと1/2くらいタオルじゃない大丈夫?!と肩を揺さぶっても一見、びくともしなさそうな包容力。そんな力強さから勝手に組織を能動的にぐいぐいと引っ張ってゆく、おれに任せろ!系のリーダーを想像していたのに、幕が開いたら舞台上にはもっとピュアピュアの、巻き込まれ流され型のひとりの青年がいました。

人の心を揺さぶり、魅了し、懐柔してしまうことば、演説場面が歌で表現されるのはミュージカルでよく使われる方法だけれど、のぞみさんのマクシムが朗々と響かせるワイルドホーンのメロディ、その歌声は、はっちさんのタレーランがいうように「人の心を蝕む毒」と呼ばれるのにふさわしい。言葉の実現化の可否を考える前に、言葉そのものに含まれる以上の説得力を持たせてしまう歌声だなと思う。
2回目の観劇で、サンジュストくんの演説の、国王を自分たちと同じ法で裁く必要はあるのか?(戦場で出会う敵のようにただ殺すのみでよい)、みたいな主旨にようやく思い当たってぞっとしてしまって、ルイ16世が処刑された直後にマクシムによって歌い上げられるメインテーマにもすでに影が差しているように思えてならなかった。でもそちらに傾きかける心に落ちた影を照らして弾きとばしてしまうくらいの、マクシムの放つ光は(センターに立つ人へのピンスポの話ではなく)強烈で、それがまた別の意味で恐ろしくもある。
(ルドルフ・ザ・ラストキスの明日への階段歌ってほしいと思ってたけどもうこれでよくないか??と自分に問いかけるターン)

それでも弾きとばしきれない忍び寄る影をもっと、ぐっと色濃くするのが、続けて登場するきほちゃんのマリー=アンヌなわけですが。初日に見たとき、彼女のこれまでの経緯はぜんぶ歌で説明してしまうのね?!とミュージカルファンのくせに心の受け入れ態勢がなっていなかったわたしは、時間をかなりあけて見た3度目での彼女の暗い目、思いつめた表情にひゅっと入り込んでしまったのか、そこからは自然に心を寄せて見てしまっていました(単純)。きほちゃんがどうとか作品がどうとかではなく、観てるこっちの気持ちで感想などたやすく変化するよなという記録。マリー=アンヌという子は初見からとても好きです。マクシムに意見し、時にのど元に剣を突き立て(!)、彼の心をぐらんぐらん揺さぶりながら、自らもまた揺さぶられている、もうひとりの主人公のような存在だと思います。

次の場面、ジャコバン・クラブでわちゃわちゃする議員の彼らを見ていると、ABC友の会@レミの彼らを思い出さずにはいられない。また立場が違うのはわかってはいるけれど、彼らの革命が実ったとしてもきっと同じようにうまくはいかなかったと思わせる、そこに共通するまぶしいほどの青さと危うさ。「ジャコバン・クラブは居酒屋じゃないぞ!」大胆に、で銀橋に一直線に並ぶ皆の活気ある姿はとても好きなんだけど。

ダントンとマクシムの意見が食い違い出したあたりから、観ている観客も舞台上にいる彼から離れてゆく人びとも、マクシムの「理想」の綺麗事感、非現実的さをイコール彼のなってなさ、ダントンこそが現実主義者で彼の意見を聞くべき、と思うように誘導されている感がある。続けてのマクシムの恐怖政治宣言が、やっぱりこの人のいうこと聞いちゃダメだよ、という気持ちを後押ししてしまうけど、でもダントンのやり方とどっちがいいか、二尺択一という話でもたぶんないと思うんです。ていうかどっちも極端すぎてついてゆきたくない。マクシムの理想自体はマリー=アンヌがいうように「もっと素朴であたたかいもの」であって、間違っているのは目的を達成するための手段のほう。現実と理想をぴったりくっつけるのはどだい無理なことであっても、叶えたいものとして掲げて、そこに近づくためにいまそれぞれができることの擦り合わせをして、対話してゆく辛抱強さを、彼らは養うべきだったのでは。夜通し何を語り合っていたの!? いやまあ実際、彼らの頭で(!)思いつく解決策も、その時間もなかったのかもしれないけど、双方に歩み寄る気がさらさらなさそうなのもなんだかな…と思いながら、いーつーかーわたしの目ーでー♪と歌いたくなる場面。
そもそもマクシムの性格をわかっているはずのそれなりの仲のダントンは、なんであんな説得の仕方をしたの? 凍てつく雪の夜も時を忘れて語り合った仲なのに(二回め)彼の理想自体否定したらもうこじれた仲も戻るはずがなかろうて?!とがくがくダントンの肩を揺さぶりたくなるのは、わたしが肩入れしている側がマクシムだからなんでしょう。ダントン自身も多分すでに余裕がなかったんだろう。「お前は人生の喜びを知らない」というダントンは、マクシムの人生の喜びがなんなのか知らなかっただけじゃないのかな。あんたそうやって(おれはやれるだけやったが、ま、失敗しちまったな…)みたいに乾杯してるから、かっこつけてる間にもっとできることあったよ?!もっとみっともなく腹を割って話せばマクシムも、みたいに何度見ても思ってしまいそう。あと床に落ちたご飯のことも、さすがパンをベルサイユまで取りに行かなくていい男はやることが大胆だなっていつまでも考えてしまう。すごいダントンへの恨みつらみが溜まってる人みたいになってしまった。このひと、豪快キャラ一辺倒だったら、個人的にはうーん…ってなってしまっていたと思うんだけど(マッチョな喜びごり押しを正当化するこまけぇことはいいんだよキャラにないがしろにされがちなものに勝手に想いを馳せてプンスカする心が狭いタイプ)妻のガブリエルには弱みを見せるみたいなかわいげ補正のバランスが絶妙な役だなと思う。(解釈にマクシム担の私怨の可能性はあります)

恐怖政治に手をかけるほどに追い詰めるなんてダントンサイテー!みたいなことを言っておきながら、宣言直後のマクシムがサイコーに好みです。掲げた理想を実現させたい思いとそのために恐怖政治を遂行することへの躊躇い、不安がないまぜになって、心が揺らいでゆくさま、苦悩が浮かんでは消える表情が震えるほど好き。ここで闇落ちしました、とかそういう別人格に変化するようなはっきりとした白黒じゃなく、人間の感情のグラデーションを細やかに見せつけられる。見ていて心にざわざわと沸き立つものを抑えきれなくなる。この人のこういう顔をもっと見たいと思う。
オーシャンズでのぞみさん落ちした時はもっとフォルテ!フォルテ!フォルテシモ!みたいな鍵盤を叩き割る強さで、そこに魅了されつつも、こんなに緩急の緩がなくて大丈夫?と思っていたところもあったので、そのときと役もポジションも違うのは確かとしても、いまは持っている力を放出する蛇口の開け閉め方法を会得して、より自由自在に、自然に舞台の上に存在しているように見える。その過程を追いかけられたありがたさも噛み締めつつ。
そんなのぞみさんのマクシムなので、冒頭の演説≒メインテーマも歌声と書きつつ、めちゃうまい歌を聴いているというより朗々とよく響くいい声で心に語りかけられている、という感覚でした。どの場面も、音の響きの心地よさをもちろん味わってはいるのだけど、その歌は客席にマクシムの気持ちや状況をよく伝えるための台詞と同じ、演技の一部という認識。歌いだすことで、ここからが歌、と区切りをつけられてはっと我に返ってしまうようなことはない。
ミュージカルのメロディには、歌詞の意味を補強したり、こちらの耳に伝わる歌詞以上に雄弁に、観客の心に切々と語りかける力がある。そういうことを信じさせてくれる歌を歌うひと、という信頼を、わたしはのぞみさんに寄せています。

そんなのぞみさんのマクシムの隣に、同じように演技の一部として自然に歌声を響かせられるきほちゃんのマリー=アンヌがいるという、これ以上ないほどの幸せよ!相乗効果がすごい。
その路の先にいるのは悪魔よ!の叫び、台詞のいかにもドラマチックな言葉選びも、きほちゃんのマリー=アンヌの生の感情にきちんと紐付いている声音が、普段からそういうモチーフを警句として使っている国に生きるひとの鋭い忠告に聞こえて(というのも使っていない文化の、時代の人間の勝手な感覚だけど)言葉がうわ滑らないのがすごいし、とても好き。(なぜそんな愚かなことをしたの、って泣き笑いながら理由はちゃんとわかってるきほちゃんに抱えられて満足げに死ぬのぞみさんが舞台上で見たい、と思ったがもう叶えられているようなものなのか)
演技の一部として、と散々前置きしつつ、そこを踏まえてのマクシムとマリー=アンヌの思いが行き交う「葛藤と焦燥」の凄まじさといったら、観劇後、「ねえあそこ」「すごかったよね……」と思わず隣で見ていた友人と語る言葉をなくしたほどでした。歌と演技の呼応、そして舞台に並び立つ2人の力が拮抗していること。もともと何かを褒めちぎるための語彙はそんなにないけど、でももう振り絞る言葉もなくなるほどに打ちのめされる凄さだった。恐怖政治宣言後に苦悩するマクシムの表情に魅入られたように、この場面でふたつの思いの間で悩み苦しみ引き裂かれそうになる、マリー=アンヌのきほちゃんの歌声と表情の相乗効果にもやられてしまって、下手と上手どちらか一方にオペラグラスを定めきれないこちらの心も引き裂かれるはめに。あの瞬間、いちミュージカル・演劇ファンとして、これ以上ないほど幸せなおおきな悩みを抱えておろおろしていた。

サン・ジュストくんの熱狂的な信奉という名の責任ひっかぶせや、ダントンのスタンドプレーからの無理解やらに追い詰められていったマクシムだけど、結局決定打はマリー=アンヌによるものに見えた。そして最後の牢屋でのやりとりを思うと、彼女だけが本当の彼を(最初の彼女の思いとしては不本意にも)理解してしまっていたのではと思う。マクシムがマリー=アンヌとともに語らう場面でほわんと想像している理想が、あたたかい家庭を築く、みたいな平凡さなので、勉強が他人よりできすぎたせいで、謎のカリスマ性(しかし実行力はない)ゆえにあんなに祭り上げられることさえなければ、と天を仰いでしまった。平和な世の中だったら、彼は街の弁護士程度なら無難にこなしただろうにと、この物語内のマクシムの姿を見ていると思える。そういう意味でどこにでもいるふつうの青年の話と思ってくれて構わない、みたいな言葉が生田先生から出たのかな(歌劇か何かに書いてあったような)。マクシムみたいな、掲げている志は高いけど、実現させるには力が足りないような、ある意味とても普通の人が普通に生きているだけで幸せになれる世の中がいいよね、みたいなことを素直に考えさせられたりする、少しだけ。

しかしそんな生田先生節が冴え渡る箇所をバンドネオンをひたすら見返し、ラストタイクーンに通い、ドンジュアンに通った人間はしつこく拾い上げてしまうので、祭典の場面でのメインテーマのリプライズ使用、仮面・いないはずの人の影に翻弄される主人公場面の禍々しさ、既視感にはにやにやした。もちろん好きな場面として。マクシムの祭り上げられた裸の王様扱い(あの衣装の似合わなさとばかっぽさすごい)、おろおろっぷりも見ていてつらいしこれ以上いじめないでくれよ!と思いつつ指の隙間からわくわく見てしまうファン心。あげくはヒロインに喉に短剣突きつけられるとか、マクシムのぞみさん最弱主人公にもほどがあるのか、きほちゃんのマリーに託されているものが通常のヒロインへのそれよりだいぶ重たいのか。
この場面に限らず生田先生の思うのぞみさんや、彼女の男役に求めているもの、観たいものが痛いほどに伝わる物語でもある。(作り手のやりたいことを優先して魅力的に見えない物語、という意味ではない)
仲間に囲まれて和気藹々としている姿もいいけれど、どちらかというとひとりで苦悩する姿により魅力が溢れてしまう人だからこれはもう仕方がなかった…

今回観ていて生田先生の作品への信頼感が増した、前述の演者の魅力を引き出す以外の箇所に、女性陣の描き方がある。マリー=アンヌの行動力はきほちゃんに当てたからということも、話の展開的都合ももちろんあるだろうけれど、みちるちゃん演じるリュシルや、ひらめちゃんのガブリエル、革命家の女たち、ルノー夫人、男たちと並び立って生きる女性のバリエーションが豊かに思える。ひとり元気っ子属性の女の子を出す、とかじゃない。これまで宝塚で描かれた作品なら、ルノー夫人みたいなキャラクタはマリーに家を提供した後は、対価として家事手伝いをさせることが多かったと思う。そこを「これからは女が家に閉じこもってる時代じゃない!」「自由ってのはあたしにいわせりゃ自分の行動に責任を持つことだよ」と彼女にきっぱり言わせる展開を描くことに(宿だけ提供してあとは勝手に、ってあまりにも自由度が高くて逆に驚かなくもないポイントだけど)女革命家が出てくるのが史実の時代であっても、なんとなく新しい風が吹いているのを感じてしまう。描かれ方、場面の書き込み方の差はあるかもしれないけど、トップ男役と娘役が人間として完全に対等に扱われている感。

そしてもうひとつはこの物語のラストの描き方。マクシムとマリー2人が隣り合う牢屋に入った段階で、囚われの乙女が頭の中で歌いだしかけた私は完全なる愛と革命の詩トラウマ持ち人間なので(これで愛に殉じるために2人で微笑みながら処刑台に向かったらどうしよう……)って初見は怯えすぎて目の前の光景を味わう余裕がなかったほどでした、実は。「二人で 未来へ」って歌いながらひとりは外の世界へ、ひとりは断頭台へ進んでゆく、物理的には全然一緒ではないけれど、というラストにこそ希望があるなと思う。舞台上限定で、こういうふうに、ある意味「生きるために」死を受け入れる、みたいな表現は素直に受けとれる。ドンジュアンも死に方がある意味似ているのではと思ったけど、死ぬ直前の安らかさ的には段違いで今回の方に軍配が上がりそうです。
散々な言いようだけど、佳作とか良作とかそういう評価は他の人に任せておくことにして、わたしはこのミュージカルが好きです、ということを言いたいがための感想でした。

そのほか触れていない人たちについてなど。
初見終わって一番回数口にしたのは、なぎしょロラン夫人の「わたくし、もう我慢できませんわ」(艶然)のエロさだった。はっちさんのデムーランとの絡みでのむんむん匂いたつ色気も、ジョルジュとの丁々発止のやり取りも、飴鞭の使い方に長けている人の大胆不敵な笑みがすごくすごく好き。描いてるしぐいって寄せてるし、のデコルテの盛り上がりがわたし、とても気になります。

あーさのサンジュストくんの、あなたこそこの世界の神!みたいな熱烈な支持者っぷりの勢いにやられる。ジョルジュを排除すると決意した(させた)マクシムの銀橋を進む背を上手端で膝をついて見つめる眼差しの熱狂にぞわぞわする。でも彼は徹頭徹尾美しき太鼓持ちであって、ひとりだけで何かを成し得る力はない人だし、そういう野望もない人なんだろうなと思った。持ち上げるだけ持ち上げて、実は私利私欲にまみれた策略でした!まいったかロベスピエール!って方がまだよかった。あなたのためという言葉に嘘偽りはなくて、でもそのせいでマクシムにかけられる重責はどんどん増してゆく。処刑執行も、その任務を担わされている(自分に決定権はない)という気持ちであれば、いくらでもこなせてしまうものなのかな、とふと思った。また別の覚悟はいるだろうけど。マクシムのためにサンジュストができると言ったことがどれほどのことまでだったかは、マクシム自身が梯子を外してしまったので、本当のところは結局わからないまま。

みちるちゃんのリュシルとコマさんのデムーランのいい夫婦ぶりがとてもかわいい。どう見ても尻に敷かれているデムーランだけど何も困ってないし幸せそうだからたぶん問題ない。大胆に行こうぜ、でマクシムの隣にいるデムーラン、2人並んだ絵面もとてもよい。コマさんのデムーランの見た目と中身のやさしげなやわらかさ、自然に微笑んでしまう雰囲気を見ていると、のぞみさんがナウオンで弟みたいって言ってたのがわかる気がする。
しかしちょいちょいリュシルがデムーランや男性陣のやりとりにぐぐっと入ってくるやり方がとてもうまいし、最期断頭台での表情も一番キリリとしているしで、格好よさが突き抜けている。ジョルジュを呼び戻そうといいだしたのもこの人だと思うと、キーパーソンぶりのすごさ。結局その選択は間違ってたかもしれないけど、でも夫の言いたいこと望みを汲み取って背を押す仕事人ぶりはさすがです。


(以下、2018.1.12追記)
ダントンってそんなにかっこいいひとなのだろうか?「現実」を知る彼のことばに耳を傾けていれば、マクシムたちは革命を成功させたのだろうか?
ダントンとマクシムが仲たがいしなくても手薄になった国内で王党派の内乱は起こっていただろうし、マクシムに経験値が足らないのは確かだけれど、ダントンもそんなに大人で甲斐性のある男とは私は思わなかった。機密交際費の件も結局うまくいっていないし、スタンドプレーを現実路線のやり方とかいわれてもこまりますよ!という気持ちになる。マクシムに、これは話さなくていい、という判断をしたのは受け入れてもらえると思ってなかったのだろうけれど「3人でやっていく」とふたりの肩を抱いたあんたがそれでどうする、と問い詰めたくなる。説明をする努力もしていないから、ダントンも一段抜けた景色が見えている人なんかじゃない、マクシムに怒られるのをわかっていて自分がしでかした失敗をお母さんに隠している子どもみたいなもので、だからやっぱりマクシムもダントンも、デムーランも子どもで、子どもの「けんか」の話なんじゃないかな、と思った。そうして、ほんとうに信頼して愛しているのは弱音を吐けるおくさんのことだけだったのでは…みたいな気持ちにもなっている。

そして、こんなにもダントンという人のあり方に懐疑的になってしまういちばんの理由は、私がさきちゃんのダントン芝居が合わなかったからかもしれない。
機転がきく「大きい」男、みたいな感想をよく見かけるけど、彼女の「大胆な」芝居は大仰すぎる気がしてならない。そのオーバーさに歌声や男役声のつくりかたが馴染んでいればよかったけれど、お父さんの大きい背広を無理して羽織ってる子どもみたいに、役に着られているように思えてしまった。それは彼女自身も自覚していて、まだ試行錯誤中なんじゃないかな?という話を友達としていました。
宝塚にこんなにはまる前、男役の地声とは明らかに別の、無理して作っているんだなと一発でわかる声は、全般的に受けいれ難いものだったなというのを思い出してしまう。はまってからは、舞台化粧を美しく感じるように、雑味のあるざらりとした声もそれはそれで味わいがあると思えていたのだけど、観劇回数をそれなりに重ね、そんな男役声の中にも好きな声質とにがてな声質があると気づいてしまう段階に突入したのがよくなかったのか。
男役の声のつくりかたなんて不自然でなんぼよそんなもんよ、と言われたら、うーんそうなのかな…と何に引っかかっているか自体を悩まないわけじゃない。単純に好みじゃなかった、で片付ける話かもしれない。でも今回かなり台詞がある役なのと、メインを張る他の人たちの声の通り具合、加えて一番会話をする相手ののぞみさんが男役としてはかなりクリアな芝居声のひとなので、さきちゃんがあの声で喋り続けることで口跡の危うさが余計に顕著になってしまう。語尾がちょっともちゃっとしてしまうのかな…落ち着いて喋っているところはそれでもまだましだけれど、マクシムと一対一で食事をする場面のおどけた調子で口にする台詞群は、妙な節づかいのおもしろさが際立ってしまった。マクシムを説得できないのもやむなし感。でも演技に向かう姿勢(なんて曖昧な言葉、というのは承知しています…)がきらいなわけではないから(ちょびやすや若旦那はいいなと思った)(でも後者もかっこいいなと思ったことはなかった)こちらの気持ちとしてもしっくりいく着地点を見つけたい。