TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

fff千秋楽のアドリブから考えたこと

fff千秋楽のアドリブから考えたこと


 男役・望海さんという贔屓の退団後の手負いのけもののようなファンの考えを文章にしました。歓喜に至りたいと思いながら雪原でくだを巻いているような内容ですが、どこまでもともに行こう(贔屓が座っていない空の椅子とともに)という気持ちに嘘はありません。

 

 fffという緊密な世界を見つめる観客にとって、自室におけるベートーヴェンの執筆風景は、ある意味ではひととき、肩の力を抜いていられる場面でもあると認識していました。

 物語を最後まで見届けた観客が振り返って咀嚼した際、あのベートーヴェンと謎の女の掛け合いが、台詞一つ一つが、役者にある程度の「遊び」を許容する以上の意味が付与されていることに気づく仕掛けが込められたものであったとしても、リピート前提の観客が、今日はどんなふうに彼らが掛け合いをするか、という期待を持って見つめる、そのこと自体は否定されていない場面だと思います。

 一方で、その「遊び」はどこまでも自由に広がってよいものではなく、あくまで脚本に基づいた決められた台詞や動作がある中でアレンジと呼べる範囲まで、ということを、役者が暗黙の了解としていることを彼女らの演技から感じ取り、その塩梅に一観客として、私は居心地の良さをおぼえていました。毎回お互いの演技を受けて返す中で生み出されるある程度の幅は決まっているやりとりと、脚本になく物語の世界観にそぐわない言動、アドリブは別であり、この場面は前者としてとらえていたからです。

 

 宝塚のアドリブには、アドリブを考えて入れるよう演出家から指示がある場合(あるいはしなくてもいいが入れてもよいとあえて演出家が余白を作る場合)、役者が自分の判断でアドリブをする場合があり、前者の事例としてはエリザベートのルキーニの2幕冒頭がわかりやすいと思います。後者は正直、公演期間中に一度きりで打ち切られたものならある程度の確証を持ってそう(役者が自分の判断で入れたが演出家に止められた)と判断できますが、公演期間中のある時点から発生し、継続しているものであれば、最初は後者だったけれど、前者に近いケースとして演出家の許可が出た、あるいは見逃されている、と理解するより他ないと思っています。

 

 後者のようなアドリブが許可される余白のある作品も宝塚にはあって、そういったおおらかさも宝塚の魅力の一つであるとも思います。しかし私は、fffのような作品には後者のようなアドリブはあまりそぐわない、という考えで作品を鑑賞していたため、ベートーヴェンの家政婦のアドリブを後者の事例としてとらえており、個人的にはアドリブを継続し続ける姿勢に疑問がありました。公演期間途中から始まった(おそらく)アドリブであるため、演出家のチェックがどこまで働いているかわからず、けれど継続している限りは許容されているものだろうということ、また、あの役のキャラクターから大きく外れたアドリブではないこと、その後のベートーヴェンとのやりとりにまで大きく影響を与えるものではないことという理解から、もやもやとした気持ちはありつつも、そういうものなんだろう、と考えを保留していました。

 

 そんなことを考えていた中でのfff千秋楽、ベートーヴェンのアドリブにおける家政婦の容姿に関する言及は、個人的に、鑑賞中の心構えを崩し、私をひどく動揺させるものでした。

 あの段階のベートーヴェンが女性の容姿を形容する言葉を使うと、のちの謎の女に対する「かわいいようだな」で初めて彼が女(の形をとっているもの)の容姿について興味を持つ、という描写がぼやけてしまうように感じます。ベートーヴェンという人の「仕事」以外にほとんど興味がないという設定がやや崩れてしまうのです。

 

 あるいはfffは、ベートーヴェンが女性をどんな視線で見ているかどうかの内実を、作品内で女性に対する彼の言動を謎の女について以外は描かないという選択で、あえて見せていない作品というとらえ方もあります。

 女性の容姿に言及するという行為は、ナポレオンと違って「モテない」ベートーヴェンという人の性格を「妻や子を持つ人並みの幸せが欲しかった」平均的なシスヘテロ男性として解釈すると、かなしいかな、ありうるかもしれない発言に思えますが(その前提を持ってしまうこと自体が偏見かもしれませんが)、その発言を取り入れることで、発する男役の役を「男らしく」見せるという選択を、この作品はあえてしていないように見えるのです。このことは二人の女性に振られた際、ベートーヴェンが自分を振った相手へのネガティブな言動をせず内省に沈んでいたり、雪原での自分が「モテない」ことにくだを巻くベートーヴェンへのナポレオンの返答が、「女を持つ、持たない」という軸から外れたものだったから、という部分や、その他の描き方からの個人的見解です。

 

 fffは冒頭の、モーツァルトテレマンヘンデル3人のベートーヴェン、ナポレオン、ゲーテに対する言及に見る「ヨーロッパという溶鉱炉の中で鍛えられた鋼の男たち」という比喩や、直接的には描かれていないにせよ、フランス革命によって成立した人権宣言においても平等な権利を得る主体は「健康な成人男性」に限られていたという事実があること、語られる哲学・思想等を考えた時、物語としてのテーマは非常に男性優位主義に寄っている、と見ることもできる作品だと思います。

 しかし同時に、女性であるタカラジェンヌが演じる物語であるから、という単純な理由だけでなく、彼らが語る理想の中の「人間」に「女性」は、私たち観客の多くを占める「人間」は「人間」としてきちんと含まれているのか?という疑いの眼差しを、何を描く、描かないかの選択の積み重ねによって、物語のマッチョさの配分として慎重に避けることで、女性が多い宝塚の観客に違和感を覚えさせることがないよう、成功している作品だと認識しています。冒頭の群舞で、軍服の男役らを従えるナポレオン、ゲーテとは異なり、ベートーヴェンが娘役が演じる女性市民らを率いている光景に、単なる人員配置以上の意図を感じています。言及した場面以外にも、端々に感じる「配慮」が観客側を向いているだけでなく、作品として描きたいテーマとして必然性を伴っており、役者の魅力も当たり前に引き出していることにも、観劇のたびに客席で静かに興奮していました。

 

 宝塚には容姿端麗の人しかいません。だから家政婦役の生徒さんが「美人」であることも観客はわかっています。あの台詞は、公演期間中アドリブを続けてベートーヴェンである望海さんにボールを投げ続けた家政婦役の生徒さんへの餞別である、ということもコアなファンには伝わります。また、それをわかった上で頭を切り替えて、一瞬だけ役を離れた彼女らに視線を向け、また作品内へ視線を注ぐ、という非常に高度な切り替えが求められる場所こそが宝塚なのだろうとも思います。

 しかしその切り替えが難しい人間は、前述の理由から立ち止まり、作品の流れが崩れたことに動揺し、薄々わかっていたけれど、ベートーヴェンという人はやはり非常にマッチョな人間であるのでは?という事実を思い出し、彼が口にする「人間」とは、と考え込み、他の場面にも、彼のその視点が及んでいるかどうか確認する必要があるか、ということにまで思いを馳せてしまう場合もあります。

 

 退団公演の千秋楽にそんな厳密さを求めなくてもいいのでは、という結構な年数ファンをやってきた人間の思いに振り切れないのは、望海さんという男役の、中の人を前面に押し出すのではなく、演じている役を通じて作品の質を保持するという姿勢自体に敬意と尊敬の念を持つファンであるから、作品としてどうかという視点で鑑賞することによってその作品を成立させる作り手の一人としての役者の力に拍手を送りたいから、という思いからです。

 また、千秋楽で普段と違うことをやる、というのは宝塚という複数回見る非常に濃いファンが多いと想定されているジャンルであるから許容されることであって、ライブビューイングや配信で初めて鑑賞する層の参入を期待している状況で、宝塚という文化を知る一機会としてはよくとも、作品の評判を耳にして、純粋に鑑賞を期待していた人にはやや不親切ではという気もします。

 

 一方で、ハードリピートをしている一ファンとしては、作・演出家の意図があっても実際に演じるのは役者の身体で、あれだけの期間役として表現を続けていたら、脚本の意図とは離れたところで役がかってに動き出してしまうことはある、それを許容するのが宝塚、という見方も自分の中に否定しきれないものとしてあります。そしてその動きを想定して、作品の着地点の幅をとっておくのが宝塚の作品に求められること、という認識を持っているファンも多く、その認識内におさまる作品の中には私が好きなものもおそらく含まれるであろうこともわかります。

 一方で、自分がファンとして「○○さんはこういうことはしない」というような過剰な期待を寄せた見方をして、わかった気になっているのだったら、それはそれで怖いことだな、と一歩立ち止まりながら、「エリオにだって道を外れる権利がある」「自分の弱さをエリオにぶつけるな!」(@コルドバ)を思い出しています。こんなにぐだぐだと意見を書き連ねてしまうのは、私が大好きな男役望海さん、が演じている宝塚の作品を、正当に評価してほしい、より多くの人に良いものと思ってほしい、などというおこがましさ210%の思いがはみ出しているからです。

 

 また、宝塚のスターファーストなところと作品主義の両立の難しさ、それを針の穴に糸を通すように成立させようとしていたfffという作品の得難さについて噛みしめてしめると共に、ベートーヴェンという役について、その役を演じた望海さんという男役について改めて考えています。

 fffにおけるベートーヴェンは、才能の面が強調されるがゆえにその意識を薄れさせがちですが、宝塚以外で描くとすれば、自意識としてはKKO(キモくて金のないおっさん)(ex.ワーニャ伯父さん)に近い存在になる可能性もかなり高いキャラクターだと思っています。まがりなりも宝塚のトップスターの役にそう思わせてしまう、望海さんの男役の、社会に求められる「男らしさ」を得たいけど得られないともがく、その自意識のねじくれた様子をさらけ出しても宝塚の見せ方として成立してしまうバランスって本当に希少性が高かったのでは?と回想しています。

 「美しくない」人間が地べたを這いずりながら生きていく様子が宝塚で主役の物語として描けるんだ、というおもしろさが、宝塚の大ファンである望海さんによって切り開かれていった面白さ。(もちろん望海さん以前にも近い持ち味のスターさんはたくさんいたと思うのですが)宝塚にどういうものを求めるかは人それぞれだとしても、最後にfffのような作品の中で生きる望海さんの男役が見られたのは、一ファンとしてとても嬉しく、忘れられない体験でした。

雪組公演 レビュー・アラベスク『シルクロード~盗賊と宝石~』の国や文化の表現について

雪組公演 レビュー・アラベスクシルクロード~盗賊と宝石~』の国や文化の表現について

 

 これといった結論が出せていない内容なので、シルクロードを観劇した人に一緒に考えてほしいと思い、記録に残しました。具体的な国や文化を引き合いに出して、このショーの中での表現として比較してこうだ、と語っている記事ではありません。その意味では議論のための知識、視点が不足している文章です。ご了承ください。

 

 宝塚のショーは、実在の国や文化をモチーフとしていても、その国や文化の具体的な表現の追及には主眼がないものが多いと認識しています。あくまで宝塚の世界観の中で美しさをどう表現できるか考えた結果、そのバリエーションを豊かにするために国や文化がモチーフとして選択され、一種の懐かしさを感じさせるような様式美に落とし込ませたのだろうな、と感じる作品が多い印象です。

 あるいは過去に似たモチーフが登場するショーの一場面でそのモチーフはどのように表現されていたかを関連付け、再提示するための手段として使われている場合もあるととらえています。

 

 私自身も「懐かしさ」を宝塚歌劇の好きな要素の一つとしてとらえており、「シルクロード~盗賊と宝石~」もそうした好ましさを感じる「懐かしさ」がふんだんに含まれたショーだと認識しています。けれどその「懐かしさ」の中には、そのモチーフとなった実在の国や文化を過去に外側から見つめた人間が、「この国、この文化はこういう要素が美しい」と勝手に押し付けた認識をどこからか借りてきて、こちらの都合で認識を更新せず、ずっと採用し続けていることからくる「懐かしさ」も含まれているのではないか、という疑問もあります。

 

 オリエンタリズムに基づいた宝塚の表現についての話ではあると思うのですが、私自身、エドワード・W・サイードの同タイトルの本を読み込んだわけでも、体系立って該当する表現について学んだわけではない立場のため、いったんコトバンクのリンクを貼りつつ、もう少し自分の言葉で考えてみたいです。

 

オリエンタリズム」(コトバンク 2021/3/19参照)

https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-169824

 

 

「東洋」の側でありながら、西洋の視点を自分の中に取り込んで、「東洋」の文化を他者のものとして見つめ、一方的、画一的な表現を押し付けること。宝塚においては、世界の文化すべてを宝塚の中の様式美と化した表現に落とし込んでしまっているという見方もあると思うのですが、最終的に宝塚独自の表現に落とし込むこと自体の是非というより、宝塚の表現しかない世界で考えるのではなく、同モチーフが2021年現在、宝塚以外の芸術作品でどのように表現されているか、旧来の表現がどう批判されているか、その評価を参照したり、批判的な視点を取り入れたうえで「宝塚らしさ」を追求する検討はなされているのだろうか、という疑問についての話をしたいと思います。

 全部を「宝塚化」してしまうという表現は面白さばかりが強化されてしまいかねない表現かもしれないですが、その「宝塚」の視点にはいったいどういうものが含まれているのかという見方を、観客も制作側の方々も、宝塚に関わる人たちが共有し、見つめ直すタイミングがきていて、それはじわじわと現在進行形で行われているものではないでしょうか。

 

 上記のようなことをぐるぐると考えながら「シルクロード」を見つめると、宝塚の望海さんファンとしてはとても惹かれてしまう部分も多いショーですが、タイトルの選択が「シルクロード」にちなんだ実在する国や文化を扱うためであったとしても、各モチーフの解像度が宝塚のお約束の範囲にとどまっており、これまで度々宝塚として扱ってきたモチーフを新たな演出家の美的センスで見た目(衣装や舞台セット)に主に焦点を当て、こだわりを尽くしているだけのように見えるところ(宝塚ファンとしての私は、基本的にはとても好みと感じてしまうとしても)、「道」を退団するトップコンビの宝塚人生、軌跡、お披露目公演の「ひかりふる路」にかける意図に収まっている、という点をどう捉えたらいいのか、諸手を挙げて「好き」ということにためらいを感じ、個人的にずっと考えを保留し続けています。シルクロードの作・演出の生田先生のことは、おもに過去作品内でのジェンダー観からかってに信頼していたし、これからもしたいと思っているのですが、各国の文化を宝塚でどう扱うかという部分においてはわりと楽観的というか、現在どういう表現があやぶまれているか、というところの意識はあまりないんだろうか、と期待があっただけにがっかりもあった、けれど突き放しきれない、という立ち位置です。

 

 ファン時代からターバンが好き、天海祐希さんトップの時代に手錠デュエダンがあった、バウ公演2番手として演じた印象深い役を再び、という宝塚の文脈から見えるものと、「シルクロード」と実在の交易路の名前をタイトルに用いたショーとしての観点から見えるものは異なり、前者を形にしたものとしての評価と、後者としての評価は全く異なると感じてしまいます。たとえば、いわゆる「アラビアンナイト」の世界観を「シルクロード」と名付けたショーで展開するとき、千夜一夜物語をモチーフにしているおとぎ話であって、現実的な表現とは乖離しているから、と検討を保留したまま楽しみ続けていいのか、インドの場面で実在の宗教の神様の名前だけ引っ張ってくるような使い方をして良いのか、等々。

 宝塚の美しさを追求すること、「美しい」表現であれば「敬意」になる、という考え方が基盤になっているように見えて、その「美しさ」を好ましく思う自分と、「美しい」と感じる表現であれば、ある国や文化の画一的なものの見方として長く使用されてきた表現を安易に取り入れ、その流れを強化してしまってもいいのか、と感じる自分が一騎打ちを始めてしまう。「西欧とアジアを結びつけてきた交易路」を扱うショーという名目は、西欧の視点を内面化した日本の宝塚の表現を肯定するためにあるのか?という見方をしてしまわなくもない。それとも「シルクロード」に関わる国や文化をモチーフとする表現は、国内外で現実に即した描写が十分になされているから、宝塚内で今回のような様式美的な描き方がなされても、その表現は「遊び」としてお目こぼしされる、という認識でもよいのでしょうか。スカイステージで作品の舞台、モデルとなった実際の人物についての紹介番組があるのはファンの啓蒙が目的だと思っていたけど、おそらく作品の舞台やモデルへの敬意を表明するという意図も含まれていて、しかし後者の意図が観劇だけで伝わらないのなら、それはないのと同じなんだろうなとも思えてしまいます。

 

 様々な表現が再考され、大きく動いている世の中で、自分自身の価値観も日毎移り変わっており、舞台芸術の世界にある宝塚だけを独立させて考えることはできないと感じていること、宝塚で美しいととらえられ何の疑問も持たれない表現が、一歩劇場の外に出たら他者やある文化を踏みつける可能性があるとされていた時、宝塚の美しさだけを考え続けることは、長期的な視点で考えたとき、結局宝塚の美しさを損なわせることに繋がる場合もあるのではないでしょうか。

 

 先日、モデルが地面に敷いた着物の帯をヒールで踏み付けるという表現を用いたあるブランドの広告が批判を呼び、「日本文化へ敬意を込めた表現として選択したが誤解を招くような内容だった」と広告を取り下げた際、その弁明文に対して、日本文化への「敬意」が込められているとは思えない、と多くの人が発言していました。私も日本国内での広告ならば、その文化を共有している人たちの視点についてもっとリサーチした方が良かったのではと感じた出来事でしたが、同様の内容で欧米向けの広告を作ったとしたら、それは日本向けの広告ではないからあり、とみなされるのでしょうか。何かの販売を目的とした広告とはまた趣旨が異なるのは承知の上で、ある国の文化を用いた一表現という共通点で考えたとき、国外に今回のショーを持っていって、この作品はモチーフとした国や文化に「敬意」があります、と表明したら、そのとおりに「意図」が受け入れられるか、私はとても疑問です。また、必要なのは「敬意」というふんわりした誰かの心の中に立ち入る感情ではなく、ある国で共有されている文化のコードを明確にする表現だと認識しています。

 

 宝塚が様々な指摘を受けないのは、作品や劇団の素晴らしさではなく、社会への影響力がほとんどなく、何をやっても中身に気づいてもらえていないからなんだろうなということを、最近ことあるごとに感じていて、知名度の高さのわりにやはりすごく狭い世界なんだということを思い知らされる日々です。加えておそらく「宝塚歌劇団の作品」を、他の演劇・ミュージカルとして一段低く見るような空気も舞台芸術全般を愛好するファンコミュニティの中に存在るように感じていて、一ファンとして、そんなことないよ、いろんな作品があるんだよ!と主張したいのと同時に、けれどやっぱりこの要素があるとオススメしづらいよねと思ってしまいます。

 

 この話を突き詰めていくと、宝塚から差別につながる他者化のまなざしを徹底排除することはできるのか、という非常に困難な話に繋がっていくとは思うのですが、花組のラテンショーでのブラウンフェイスの廃止(どのような検討がなされたかは不明だけれど「キャストボイス」(公演前、稽古中の生徒からファンに向けたメッセージ)から「黒塗り」という文言が消えたことから、ブラックフェイスに類するとみなされるものの再検討がなされたのだと信じたい)や、誠の群像での同性愛嫌悪の要素を含んだ加納惣三郎の場面のカット、NOW! ZOOM ME!!の寸劇でのナショナリズムを想起させる台詞の変更等、宝塚内部で様々な検討がなされているんだなと一ファンにも伝わる舞台表現の変更は確実に増えてきているように思えます。ここ8年程度のファンかつ様々な表現について気になりだしたのは3年程度のことなので、体感でしかないのですが

 

 また、ショーで「東洋」を扱うにあたっては、戦前~戦中の宝塚歌劇において、日本とアジアの諸国を明確に切り離し、「大東亜共栄圏」に組み込むような表現をあからさまに取り入れた作品があったということも、忘れてはならない事実だと思います。詳細について興味がある方は、下記資料の「第三章 帝国を舞台に」をご覧ください。

 

ジェニファー・ロバートソン著,堀千恵子訳『踊る帝国主義

http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN4-7684-6773-3.htm

 

 劇団ホームページの年表では「世界に忍び寄る戦争の足音、暗い時代を勇気づける作品を世に送り出す」という見出しでふんわりとしか説明されておらず、戦争のため宝塚歌劇も上演中止を余儀なくされました、という常套句もありますが、当時戦意高揚のために作られた作品も数多く存在したことは事実です。

 

宝塚歌劇の歩み(1934年-1950年) | 宝塚歌劇公式ホームページ

https://kageki.hankyu.co.jp/fun/history1934.html

 

(1)宝塚少女歌劇に戦争の足音(朝日新聞社

http://astand.asahi.com/entertainment/starfile/OSK201208130035.html

 

 前述したように今、宝塚歌劇団がどのような内容の作品を上演しようと、戦中当時ほど、社会に影響を及ぼすことは全くと言って良いほどないと思います。当時のような意図をもって作品を作っていないことは明らかで、それならなおのこと、過去の経験に学ばず、他の国を他者化した視点でもって作品を作っていないかどうか、もっと表現について検討してほしいし、その知識の蓄積も、技術も宝塚にはあると私は信じています。

 

 誰かを踏みつけにしている表現自体に賛同できないという立場をとりたいのは大前提です。でも私は結局ダメなファンなので、後からその事実に気づいてしまったとき、誰かから指摘を受けたとき、その作品の映像自体見返すことが辛くなってしまう、そのときその作品を楽しんでしまった思い出を消したくなる、という事態をできる限り少なくしたいという気持ちもあります。また、作品に出演されている大好きなタカラジェンヌの皆さんに、差別に加担してほしくない、という思いも強くあります。

 

 いまは望海さんが宝塚にいるから、この心から切り離せない痛みを伴う立ち位置自体が、ある意味自分にとって、社会で生きる自分を意識しつつ作品や宝塚へも誠実さを保てる最適な距離だと思っているのですが、望海さんの卒業とともに自分の立ち位置が変化した時、そのバランスは変わってしまうとは思います。これからも宝塚は見続けるだろうけれど、絶対に突き放した視点で見ることのできない望海さんの退団公演として「シルクロード」が上演されたこの機会が最後だと思い、あまりにざっくりとした内容ではありますが、今思うところを記録に残しました。

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感④

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感④

 

・fffで描かれる「暴力」


 fffにおけるナポレオンは、ベートーヴェンの政治的立ち位置や作曲姿勢の変化を描き出すための存在でもある。ナポレオンの「理想」を実現するための手段をベートーヴェンがどう捉えるか、ナポレオンの進退とともにベートーヴェンの立ち位置、心境も変化していく。


 物語序盤のベートーヴェンは、交響曲第三番「英雄」をナポレオンに捧げていたことからもわかるように、ナポレオンが革命の手段として戦争を用いること自体は否定しない。この頃のベートーヴェンは「武力」を肯定している。後にナポレオンが皇帝の座に収まり「権力」を握ることによって、ベートーヴェンは「権力」を否定するだけでなく、「武力」を「権力」を握るための手段としての「暴力」と捉え、その手段自体を否定する。同時に彼は自分の「手段」で皆をより遠くへ連れていくことを決意する。
 「武力」はいかなる時も「暴力」である、という認識は、物語の中で改めてメッセージとして差し出されなくとも、多くの観客が共有しているものだと私は信じたい。けれどその認識を、私たちは宝塚を観劇するとき、どれだけ意識しているのだろうか。そしてそれは物語を鑑賞する上で意識する必要があることなのだろうか。

 ベートーヴェンの頭の中身が鮮やかに映し出されているようなナポレオン戦争のナポレオンは、その言動と佇まいでリーダーとしての存在感をまざまざと兵士たちに、観客に見せつける。逃げ惑い、建物の陰に隠れるシトワイエンヌを目の端にとらえながらも、宝塚ファンとして、咲ちゃんの男役に魅力を感じる一観客としての高揚感は否定できない。対峙する側の王族らを煽るベートーヴェンの歌声に導かれての場面転換にまんまと乗せられ、彼に似た熱視線をナポレオンに注いでしまうほど、この戦闘は暴力の側面を持つ、という事実のみを頭に置いて観ることは難しくなる。宝塚においてはその格好よさや美しさが何ものにも勝るのでは、という心から沸き起こったポジティブな感情を、自分一人で否定することはたやすくはない。

 けれど、そもそも軍服姿の戦闘シーンをあのように格好良く見えるものとして描く舞台作品は宝塚以外に今あるのだろうか? 民衆が革命に燃え、立ち上がる姿を戦いの場面として描くことはあっても、軍服を着た名もなき兵士たちの、それぞれに統率者がいる組織と組織がぶつかり合う戦闘を、後のネガティブな伏線回収なしに、ただポジティブな場面として成立させるのはかなり難しいのでは? この戦闘シーンは、宝塚の男役2番手が下級生を率いるかっこいいい見せ場としての意図しかないのか?
 そう考えたときに、冒頭のナポレオンの戦闘風景は、BADDY冒頭の男役がそろって煙草を咥える群舞に近い意図があるのかなと思った。
 宝塚でポジティブに扱われることの多い、ある要素を「過剰」に用いて、その要素自体の是非を問う、というおおざっぱなくくりの話なので、以下のようにざっくり分けて語る必要はある。

 

・煙草というモチーフの取り扱い、表現方法を巡る議論(外部)
・宝塚の男役の男性性を底上げする効果があるアイテムとしての煙草の意味(宝塚)
・戦争描写全般を用いた「男らしさ」を魅力的に見せる表現(外部)
・軍服を身につけ武器を手に戦う男役を格好良く描くこと(宝塚)

 

 上記を踏まえると、あの場面のナポレオンは、リーダーシップのとり方があまりにも理想的、典型的すぎるように感じられる、というのはうがったものの見方だろうか。
 兵士たちへ「共に来るものには幸福を約束する!」と口にするナポレオンの場面単体ではなく、ロシアの雪原で「それで皆を幸せにしたかったと?」とベートーヴェンに問いかけられ「どうかな」とワンクッション置き、自らの理想の実現に付随するものとして「皆の幸せ」を語るナポレオンを並べて考えたとき、この物語における「理想」と「現実」の描き分けをそこに見たというのもあるかもしれない。


 この作品で慎重に扱われているはずの「幸不幸」という人間の状態を表す言葉の使い方として、前者は後者に比べ、かなりの大盤振る舞いかつ解像度が低く設定されているように思える。戦場で兵士たちの士気を高める統率者としての効果的なフレーズと、直接一人に語りかける言葉は別である、という可能性はゼロではないと思うけれど、どちらもナポレオンにとっては「我が兵士」であることに変わりはない。あるいは流れた歳月が無謀な理想を燃やしていたナポレオンを変えたのか。いずれにせよ、彼がもたらした「不幸」を思えば、この作中での「武力」=「暴力」の取り扱いは明確だろう。

 

 BADDYでの煙草は、煙草を用いた表現方法については宝塚以外の舞台でも議論が進められており、私もSNS上でのとある演出家の問題提起を目にしたことがあったこと、宝塚においてもその場に登場する男役のほとんどが煙草を手に踊る場面はおそらく今までなかった(少なくとも私はBADDY以前に生で見たことはない)ことから、目の当たりにした瞬間、その意図を考えずにはいられない場面として作られているように思える。
 一方、今回のfffの武力、戦闘描写は、あの段階では作中における「武力」の扱いを即「暴力」と断定できるほどの情報が与えられていないので、疑いつつも保留するしかない。目撃した時点での違和感は、同演出家の過去作品内での「武力」の取り扱いについて知識があること、私自身が持っている「武力」へのイメージに由来するものだ。

 

 一つ前の記事で、この場面はベートーヴェンの想像の中の「理想」のナポレオン像では、と書いたけれど、同時にこれは、戦闘シーンで男役を格好良く描くということの強調、宝塚が「理想」とする男役の表現の一つとも思える。もう少し踏み込んで考えるのならば、その「理想」を提示した上で、私たちはこの危険な魅力とどう付き合っていくべきか、を問いかけられているのではないか、とも思う。ナポレオン戦争のナポレオンに、雪原で隊列を組む兵士たちに格好よさ、美しさを感じたときの高揚感は、注意深く物語を追っていく中で芽生える違和感、心地よさ一辺倒ではない感情にとって変わられるかもしれない。それを宝塚で「良い」とされている既存の表現への挑発、転覆させる行為と捉える人もいるかもしれないし、ともに考えていこう、という緩やかな投げかけに思える人もいるだろう。あるいは、格好良く見える表現自体は否定されていないことに、そういった効果をむしろ意識的に用いる演出ととらえ、その判断に疑問がわく人もいるだろうか。

 

 私自身、物語として必要であるならば、そういった場面を一切描いてはならないとは思わないけれど、今回のような表現について考えるとき、宝塚の「美しさ」がある対象を肯定する勢いを、その力の凄まじさを宝塚はうまく扱えるんだろうか、私たちは安全に楽しみ続けられるのだろうか、と思うことがある。
 目の前の表現が即時アウト、ということではなくとも、それでもこの美しさの肯定は、グラデーションの先にある恐ろしい何かを肯定することに一役買ってはしまわないか、何かに加担することでは、と立ち止まることがある。どのような表現も文脈次第であり、受け取り手の私たちファンもまた、劇場の構成員の一部、共犯者である、と自戒しつつ。

 

 「武力」=「暴力」を格好良く、美しく描くことについて考えると、「暴力」と男役を結びつける「男らしさ」とは何か、というところにまでたどり着く。個人的に、男役が演じる「男らしさ」の表現は、私たちの社会での「男らしさ」の取り扱いとともにどう変化していくか、変化するのだろうか、ということに元々興味があり、それは「男役の加害性」を「加害性」として描くことへの興味でもある。フライング・サパやBADDYを見て、上田久美子先生は宝塚のなかでのそういった表現に対して意識的な演出家だと認識しているので、fffのなかにも同種の描写を見出したくなった。

 

 ナポレオンは生きることは不幸だと口にするけれど、謎の女がベートーヴェンの前で口にする不幸の羅列はナポレオンが理想を実現させるための手段、戦争の負の遺産でもある。本作品内でナポレオンが担う暴力性が産み落とした不幸は、人の形をとると女の顔をしているということに、作品内での対比のさせ方に、これも演出上の意図なのかと呆然とする。ベートーヴェンと対になる謎の女のことしか考えていなかったけれど、ナポレオンと謎の女の方が、バッディとグッディのように対比される存在なのかもしれない、とも思う。


 また、ナポレオンが謎の女に形見として銃を渡すという行為は、彼女のその後の行動を考えればやはりポジティブにはとらえられず、形見を残したナポレオンの身に巣食う不幸と彼自身の向き合い方、その決着に思いをはせてしまう。

 民衆の身の丈に合った「そこそこ豊かな暮らし」を想像できる人が「手足のない傷病兵」の存在を認識してなお、武力で解決するしかない、という方へ舵を切る、その思い切り方が恐ろしい、というところまで意識して描いているだろうなと想像するのは、この作品を信用しすぎなのだろうか。

 

 ナポレオンは言葉と精神によって多くの人々の心を時間をかけて耕すことを「まどるっこしい」と拒んだ。ベートーヴェンはそんなナポレオンに勝手に魅了され、勝手に失望し、けれどナポレオンによってベートーヴェンの心の一部は確かに耕された。まっすぐな長い畝を作ったエピソードに、その希望が託されている。

 暴力、音楽、どちらがうたうか勝利のシンフォニー、と歌わせている以上、ベートーヴェンとナポレオンの道は一瞬交わったとしてもひとつになることはない。勝利のシンフォニーをうたいたい、理想の実現のために武力=暴力を用いる人間としてのナポレオンは、作品内で肯定されていない。けれど同時に、ベートーヴェンに理想の描き方を示し、皆を遠くへ連れてゆく道半ばまでの併走者としてのナポレオンは肯定されているのかなとも思う。


 「戦いの先にある、まだ見ぬ世界」を望むナポレオンの最後の言葉は「戦いの先」と「先にあるまだ見ぬ世界」どちらに比重を置くかで印象が微妙に変わるけれど、おそらく強調したいのは後者ではないだろうか。「あなたも私も許しあえるはず」と同じく、いかにも宝塚らしい大団円とだけとらえるか、その取りこぼしのなさに「第九」の力を見るかもまた、観客に委ねられている。

 

 BADDYでグッディが怒りや悲しみといった感情を知ることで活性化するように、ベートーヴェンは己が不幸と向き合うことこそが自分と向き合いよく生きることであると気づく。後者はそこから個人が社会に接続していく方法を見つける姿まで描かれているように感じる。
 
 よく生きるために人生にまとわりつく不幸、苦しみを引き受けろ、一点の曇りもない幸せは生きていないのと同じこと、ぐらいの壮絶な世界を描く久美子先生が舞台上で実現したい「理想」にかなりの夢を見ているし、個人的には人間の可能性をポジティブに捉えている演出家だと思っている。
 宝塚歌劇は「理想」の「まだ見ぬ世界」を見せて皆の希望を生み出す劇団だと思うので、そういう意味でfffはこれ以上ないほど宝塚にふさわしい演目のひとつだと私は思っています。

 人生は苦しむのが当たり前のもの、ととらえるとしんどさばかりが先に立つけど、人生の無謬性の否定というか、傷がなく生きることを目指す必要はない、とも解釈できるのではないか、と凡人がその理想の状態に身を置く方法を模索してみる。

 

 

以下、fffに関連して読んだ本です。

 

ハーヴェイ・サックス著, 後藤菜穂子訳『「第九」誕生 : 1824年のヨーロッパ』

www.shunjusha.co.jp

 

エステバン・ブッフ著, 湯浅史, 土屋良二訳.『ベートーヴェンの『第九交響曲』 : 「国歌」の政治史』

www.hanmoto.com

 

マーク・エヴァン・ボンズ著, 近藤譲訳, 井上登喜子訳『「聴くこと」の革命 ベートーヴェン時代の耳は「交響曲」をどう聴いたか』

artespublishing.com


ベートーヴェンの音楽自体が革命を起こしたというより、彼は音楽、器楽を「聴くこと」その解釈が大きく転換した時代に作曲を行なっていた、聴衆の耳は「交響曲」に何を聴いたのか、について掘り下げた本。「芸術は政治からも解き放たれて〜」のゲーテの台詞への引っかかりを解きほぐすヒントというか、解のひとつを得た気がする。

 交響曲をモチーフにしたゲーテの著作、理想の国家のあり方を芸術に喩えて語った文章と交響曲の構成について語るときの方法の類似性、シラーの美的国家を民族主義者の観点から書かれたものとしてでなく読み解くことetc.についての第4章「美的国家を聴くーーコスモポリタニズム」は、fffを観た人にとってとてもおもしろい本かも(おもしろかった人の意見)。


 十八世紀後半以降、参加者全体が本質的に対等な関わり合いを求め得ること、多様な音色の統合、音響的多様性から「交響曲は共同体の声の表現」という見方が評論家達から多く指摘されていたし、それ以前の時代も同様の見方はあった、という箇所が特に印象に残った。孫引きになってしまう部分もあるけれど、以下、引用。

 

レッシングは、1760年代の著作で、演劇でのオーケストラ序曲ーーすなわち、シンフォニア交響曲)ーーと間奏曲を、劇中で人間の共同体に声をもたらす役割を果たしていた古代ギリシア劇の合唱(コロス)に比している。1785年に、ラセペードは、この考えを繰り返して、次のように記している。「演劇に合唱を導入する必要があるように、すべてのオーケストラは、とても興味深い登場人物たちから発せられる感情の声に加えられる群衆のどよめきを、見事に、際立ったやり方で表すように演奏する」ことができる。(p.141)

 

そして、ドイツのある匿名の評論家は、1820年の著作で、次のように言明している。交響曲では、大規模な合唱作品でのように、「人間性の普遍」が見えてくる。「そこでは、個的なものの全てが、別々の諸存在として、全体のうちに溶解しているのである」。(p.141)

 

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感③

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感③

 

「雪原のベートーヴェンはナポレオンの夢を見るか?」

 

ルサンクのト書きに記述があったら、一発で想像の意味がなくなる話をしています。

 

 政治思想への共鳴や失望で、他者を偉大な人間と崇めては勝手にファンになったりファンをやめたりする惚れっぽいベートーヴェンですが、彼が惚れ込み幻滅したナポレオンが、劇中で姿を現す場面には、戴冠式の場面のような、ベートーヴェンの頭のなかのナポレオン像に見えるものと、ゲーテに面会を求める場面のような、ベートーヴェンの想像が関与していない、実在の意思を持った人間・ナポレオンが登場しているもの、2パターン存在すると思って見ています。

 

 前者のパターンはナポレオン像の「英雄」や「エセ皇帝」としての側面が強調されていて、ベートーヴェンは一方的に仕入れたわずかな情報から、自分の頭のなかで作り出した像に胸をときめかせたり憎んだりしているように見える。彼らは同時に舞台上に登場するも、同じ空間に存在しているようには描かれていない。彼らの間に対話はない。

一方で後者のナポレオンは、自分の描いた理想の世界に確信を持ちつつも、実現のための手段に迷う、人間らしい懊悩も垣間見える存在として描かれている。

 

 実際のベートーヴェンとナポレオンが顔を合わせることはなかったというのは事実、ではこのfffという作品内でも、彼らは出会うことはなかったのでしょうか。作家・演出家の久美子先生は二人を意思疎通ができる存在として、描かなかったのでしょうか。

 

「もしも」を描いたロシアの雪原の場面も、ベートーヴェンの頭の中の出来事にすぎないの? という問いかけに、否!と答えてみたい。とはいってもあくまでこれは私の一見解で、いやいやベートーヴェンの妄想だよ、という見方もあるだろうなとは思います。逆に、いやいや一見解どころか当たり前の見方でしょ、今更書き連ねる内容でもなんでもないよね、という人もいるかもしれない。

 

 もちろん、ロールヘンの死を知ってふらふらと倒れ込んだベートーヴェンが、いきなり実存するロシアの雪原に飛ぶ、というタイプの飛躍はfffの世界であっても発生しない気がするし、すでにナポレオンがロシアで負けている世界にいたはずのベートーヴェンが時間軸までも遡ってしまうことまではないかな? と思うので、もしかしたら死んであの世(??)に行く寸前のナポレオンと死にそうなベートーヴェンが精神世界(??)で邂逅し魂の交感ができた、寒さは感じているようだけど雪原はイメージだよ、くらいの認識です。直前にいた場所とは異なる非実在の空間に魂がワープすることはあっても、過去の実在する空間への肉体を伴う移動は謎の女でもない限りできないよ、という理解でいる。

 

 いや、倒れた兵士は起き上がるし雪の精は出てくるし、もうなんでもありなのかもしれない、と弱気にもなりつつ。ナポレオンがべートーヴェンとは異なる意思を持った存在でありさえすれば、細かい設定は違ってもいい。

 

 上記のような妄想をしつつ、なぜ私がこの場面のナポレオンをベートーヴェンのイマジナリーフレンドではないと思っているか、いくつか理由をあげます。

 

・ナポレオンとベートーヴェンの会話のキャッチボールが成立している

 彼らが一方通行でない会話をするのは、この場面が最初で最後です。

 この場面以前の、ベートーヴェンの妄想上のナポレオンと思しき人物の登場場面では、彼はベートーヴェンと言葉を交わしていなかった。つまり妄想上のナポレオンであれば、ベートーヴェンは会話ができないのではないか、という仮定。

 

・ナポレオンはベートーヴェンベートーヴェンという人物と認識していない

 ベートーヴェンが軍服を着ていない点をスルーしつつ、彼への呼びかけである「我が兵士」がナポレオンジョークでなければ、ナポレオンは雪原に倒れていたベートーヴェンを、自分と一緒にロシアに進軍した、まだ助かる見込みのある一兵士として認識している、恐らくは。ベートーヴェンの想像上のナポレオンであれば、(ファン人生の濃さが邪魔をして相手との心理的、物理的距離をひどく遠くに設定していたため、認知されていない前提で妄想してしまった、ということでなければ)さすがにベートーヴェンベートーヴェンと認識して呼びかける、はず。

 その場合「今までいいことなんかひとつもなかったろ」は自分のせいで戦争に駆り出され続けた、名もなき「我が兵士」に向けての言葉という理解でいいのだろうか、と想像しています。

 

・ナポレオンはベートーヴェンが知らないはずの事実を彼に伝える

 ナポレオンの戴冠式の場面と同時にベートーヴェンがその事実を知ったことを思うと、この基準もぐらぐら揺れ出すけれど、あの時は彼が外からのニュースを耳にする可能性がある状況だったこと、あるいは謎の女の導き(?)があったから、と思いたい。ベートーヴェンの望む「不幸」がこの雪原の場面ではナポレオンの形をとった、という設定でもない限り(ナポレオンが消えたとたんに謎の女が出てくることを思うと、可能性はゼロではないが)、謎の女を介していないはずのこの場面では、ベートーヴェンが知らない事実を、イマジナリーフレンドのナポレオンは口にできないはず。

 

 というような理由から、この場面に出てくるナポレオンはベートーヴェンの妄想ではない、己の意思を持ったナポレオンである、と私は認識しています。

 

 上記を前提とした場合「私が救うはずだった!」はもう自分では世界を救えないことを知っている立場のナポレオンが発した言葉。もっと虚しく響くと思いきや、彼の声音はまだ巻き返しがきく人のそれのように、傲岸不遜で湿りっけがない。

 同じ場面で彼が口にする、生きることは苦しみ、誰かといても孤独、と自分が見つけた真理を分けてやるともったいぶるのでもなく、事実としてさらりと口にするナポレオン像とブレがなく、彼はそういう人生の荒波を堂々と渡る、あるいは組み伏せることを心底おもしろがってるひとだよね、とも思える。とことん理詰めで考えて行動したことだから、これ以上できることはない、とすっぱり諦められるのか、あるいは後に続くものを信じられるのか。後者だったら「まどろっこしい!」とロシアに進軍したりはしなかっただろうけど、それを決断した時と、この場面の彼の心境は異なるのか。

 

「ヨーロッパ全体がそこそこ豊かになれば」という世界を理想とする彼の、理想の実現方法や「ヨーロッパ」という範囲のみで「理想の世界」を語ることで取りこぼされるものを現代日本に生きる私たちは知っているけれど、彼の口にする「そこそこ」という感覚や、皆の幸せを第一に考えているわけではなく、それは理想の世界のおまけであるというような口ぶりを、ベートーヴェンのようにうっかり信じてみたくなる。「誰も思いつかなかった、法則と正解を探せ!」という号令に乗せられたくなる。

 

 一つ前の記事と同じようなところをぐるぐる回りかけたので、ひとまずここまでにしたい。

 

 fffの劇中、三人の男たちを称する言葉や、彼らが目指す理想の世界の表現について「高さ」はまだ腑に落ちるとして「ヨーロッパという溶鉱炉で鍛えられた鋼の男たちがいた!」「硬さ」「大きさ」をよいものとする物差しの使い方には、男性性を飾り立てる言葉としてとても的確ですね!くらいの距離感で、内心面白さを感じている。終始マッチョな話だな、と思わせる要素が多分にあるところを、うまくやり過ごしているような、逆にそれを逆手にとっているような話だなと思う。

 リアル男性が描いた脚本・演出で演者も男性だったら、また違う受け取り方をしている、この作品を女性の作家・演出家が手がけて、かつ女性が演じている、というところに肝がある、と言い切ってしまいたい気持ちを残しつつ、そうであっても鼻につく場合はあると思うので、どうして?のはてなを常に頭の片隅に置いていたいです。

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感②

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感②

 

 

・雪原でふたりが見た光景について

 

 理想の実現のために革命を推し進めたナポレオンは、自分のやっていることはある意味芸術みたいなもん、と夢の中のロシアの雪原でベートーヴェンに語っていましたが、演劇・ミュージカルもまた、ある人にだけ見えている景色を他者にも共有できるよう具現化する「芸術」のひとつだと思います。決められた空間の中に舞台美術と人とを配置し、物語を進行させるために秒単位で動かしていくことである景色を見せる、という意味では、ナポレオンがあの場面で語る「芸術」に視覚的に近いところがあるかもしれない(ものすごくざっくりしたたとえ)。

 

 fff初見、一番興奮したのは、雪原の中でナポレオンとベートーヴェンふたりが同じ幻影を見る場面でした。ナポレオンの「とことん理詰めで考えるのが好き」という言葉に同調し、彼が勝利するための布陣を検討するプロセスと、自分の作曲時の思考回路に近しいものを見出すベートーヴェン

 

 ナポレオンは軍隊を指揮し、戦争に勝つことで自分の、人間の願いを達成しようとした人として描かれている。けれどあくまで戦争は理想を達成するための手段でしかないし、彼自身もそれは理解していると思う。ナポレオンも自分の思うとおりに勝利してゆくのは気持ちいいだろうけれど、戦争自体がやりたいわけではない、という認識。雪原の場面で「皆のそこそこ豊かな暮らし」を語る彼の言葉にはそんなニュアンスが含まれていた。それを本作冒頭では「我が戦闘は人間の願いだ」と言い切らせている。手段を「願い」と表現するのは、厳密にはかなり乱暴なまとめでは? けれどフレーズとしてのインパクト、「それってどういうこと?」と観客をのっけから引きずりこませる、抗いきれない強い力は感じる。頭のいい人特有の思考の飛躍により、何か言葉が省略されているのだな、ということをなんとなく察しながら、そう言い切る不遜さを同時に魅力的に捉え、彼に対する評価を保留して見てしまう。

 対するベートーヴェンは「音楽」自体を作ることに喜びを見出している人。ベートーヴェンが「人間の心」と言い切る「音楽」は、それ自体が彼の理想の世界を実現化するツールであり、同時に彼の「理想の世界」でもある。その音楽を聴いた人々の心に沸き起こる感情、思考、精神への影響、といった部分の連続を「彼の革命」の達成と想定しているのはもちろんだけど、頭の中にある音楽を譜面に書きおこせた時点で、彼の理想の世界そのものの具現化という目標がひとまず達成している、という理解。

 ゲーテのいう「我が文学は人間の光」(翔くんがこのフレーズ口にするのかっこよすぎでは??)の「文学」も、同じ意味でツールであり彼の頭の中身を具現化した世界の一つでもあると思うので、生み出されたことにすでに意味がある「音楽」「文学」と比較して、ナポレオンの掲げる「戦闘(戦争?)」だけが異質に感じる。三人の扱いを揃えるためにあえてやっているのはわかるけれど「戦い」は手段にしかなり得ないと私は思う。

 

 その仮定を踏まえると、ナポレオンとベートーヴェンの思考が似ている、と彼らが盛り上がり、「夢のシンフォニー」として交響曲に合わせて行進する軍隊を幻視するのは、とことん理詰めで思考するという部分の近しさはわかるけれど、手段でしかないものとすでに一つの理想の世界の形をとっているものを並べる、という意味で、少し違和感がある。「ハイリゲンシュタットの遺書」で触れているように「暴力の力」が奏でるシンフォニーは彼が望む勝利の音楽としてはどうなのか?という観点でも、否!と叫びたくなる。

 

 それでもなお、それぞれの手段で頭の中の理想を具現化したい、理詰めでとことん考えるのが好きなふたりの思考が溶け合った光景が舞台上に再現される、その演出としての効果にただぽかんと見とれてしまう。たとえば数式が美しい、棋譜が美しい、という言葉は理解できるけれど、それを美しく思う人の物の見方がロマンチックだな、と思わせるだけでは想像力も知識も足らない人間は物足りない時がある。身近な物にたとえる言葉で、立体的な表現で「美しさ」をもっと差し出してほしい、と思ってしまう。もしかしたらダイレクトな刺激を求めすぎなのかもしれないけれど、多角度から表現してほしいという欲望をむき出しにしてしまう。この場面は雪原でのふたりのポツポツとした雑談から始まり、言葉でのやり取りの中から浮かび上がるものを味あわせてから、ビジュアルで見せる場面に移行する、その繋がりが滑らかに感じた。

 彼らが「芸術」にぞくぞくしている様子を自分のものとして体験できるようなこの演出が私はとても好みです。

 

 宝塚の舞台における整然と並んだ兵士の隊列は、ただ揃っている、という以上の意味を含んでいるように私には感じる。あらゆる場面で揃った動きが求められがちな宝塚と、兵士の隊列の相性の良さ。それを美しいと言い切ることの危うさ。それを頭の片隅にいつも置きながら、美しいと感じる心を止められず、折り合いのつけどころを探ってしまう。

 彼らに白いチュチュを身につけた音符の精のような娘役(役名は「雪」)が加わって、それぞれ列を組み、放射状に広がる。そのままぐるぐると行進し続ける姿は、上から見ると雪の結晶のようにも見える。真っ白な背景で踊り、行進する彼女らと、それを見つめるふたりの男。彼らを見つめる私たち。虚構のなかで飛躍する発想が可視化された光景にただただ魅入る。

 パンフレットを見るまで、軍服の兵士たちはナポレオン側、白いチュチュの娘役はベートーヴェンの音楽を象徴するものかと思っていたのだけれど、娘役が「雪」ならばそこはあまり関係ないのかもしれない。(娘役と男役の人数の関係である可能性が高いけれど、オープニングでベートーヴェンが従えているのがシトワイエンヌ(娘役)のみだったことに意味を見出したくなっているオタク)

 音楽はあくまで場面のバックミュージックとして、ふたりが隊列を「指揮」するときのリズム、掛け声の役割ににとどまるのか。タタタタン!は運命を叩く音にも繋がるのか。彼らの思考が光景として美しく(あやうく)示されており、ふたりの興奮がこちらにも伝わる演出に、舞台を見る喜びでひたひたに満たされてしまう。

 そして個人的に、その光景に惹きつけられてしまったことにバツの悪い思いをそこまでしないのは、幻想はあくまで幻想としてもろくも崩れ去る、という結末が控えているからかもしれない。あれはベートーヴェンだけの見た夢なのか、それとも最期の時を迎えたナポレオンの、今際の際にみた夢が彼のそれと重なったのか。どちらにせよ、ナポレオンは彼を「我が兵士」としか認識していない。彼らの思考は重なる部分もあるけれど(愛読書は『カント』)、ベートーヴェンが握るのは数多の兵士の指揮権ではなく一本のペンのみ、彼の革命の手段は暴力ではあり得ない。

 意気投合するけれど、違う道をゆく男たちが一瞬だけ重なり合った、のか?というバランスがたまらない。

 

 

 妻を持って子を成すような普通の幸せが欲しかった、そうでなければ成功したかったと膝を抱えるベートーヴェンは、後の「楽聖」とは思えないほど、目の前の出来事に一喜一憂する平凡な独身男性にも見える。対するナポレオンの「お前の結婚願望は馬鹿げてる」「お前はモテたじゃないか」の合いの手とセットで、赤提灯に集うサラリーマン同士の会話か?という俗っぽさを感じ取れなくもない。

 ナポレオンのいう「生きることの苦しさ」は、おれはこんなに大変なんだ、とひけらかす人ではなく、当たり前のことを淡々と述べている人のそれに聞こえる。高い理想を掲げつつ、実現するための一歩一歩は現実的で地味なものと実感している人の言葉のような。革命を描いた作品は、志を口にする人の理想の高さやその人物自体の崇高さを麗しく見せがちで、舞台上の表現としてそれは絵に描いた餅でも良いのだろうけれど、その麗しさの中に、志を抱いている人物の人間味があるエピソード、「そこそこの豊かな暮らし」といった、ざっくりではあっても理想の世界の中で生きる一人一人の生活レベルがはかれるような視点が織り込まれていることで、舞台上と自分との心の距離が伸び縮みし、物語にいっそう親しみが湧く。

 

 そんなふたりの会話から引き出されるヨーロッパ連合の構想、人間がどこにいてもその土地を祖国だと思えるような国づくり、整備、に夢を見つつ、ナポレオンの整備しようとした連合国と今のEU連合はまた違うものだろうし、現在の形についても様々な課題問題が噴出しているように思える世の中ですが

 

 欧州議会によって「歓喜の歌」が「欧州の歌」として制定されていたことを知らなかった(無知)のですが、イギリスのEU離脱に絡めて同曲が象徴的に扱われているニュース記事が色々ヒットしてきて、「人と物と情報が自由に行き交う豊かな世界」とはと考え込んでしまいます。

雪組公演 ミュージカル・シンフォニア 『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感①

雪組公演 ミュージカル・シンフォニアf f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 雑感①

 

 

 

ーーーーネタバレがない感想ここからーーーー

 

 

<本作品をおすすめしたい人>

・面白いお芝居が見たい

・エモいオープニングが見たい

・宝塚の座付き作家は物語のフラグ回収だけでなく、番手が付いている生徒の見せ場をきちんと作ることにも注力すべき

・盆がぐるぐる回ってセリがバンバン上げ下げするところを見ると興奮する

 

・政治と音楽の関係性、その描き方に興味がある

・武力のみで成し遂げられる革命の肯定的な描き方に懐疑的

・抽象的な存在が人の形をとって主人公に関わってくる作品が好き

・歴史的事実と作家の思考実験エピソードによる飛躍、両者のバランスがうまくとれている作品が見たい

・より多くの人間がそこそこ豊かに生きられる社会になるには何が必要か考えている

 

・男同士の絆が好き

・でも娘役の役もないがしろにしないでほしい

・娘役と男役の関係性が深く細やかに描かれていれば、彼女らの間をつなぐものは恋愛でなくてもいい

 

<この感想を書いている人>

・贔屓が本公演をもって退団

・よって本公演を複数回観劇予定

・本公演の作・演出家の作るものに期待している

  


<ネタバレのない雑観序文>



lp.p.pia.jp

 

『フライング・サパ』上演時に上記インタビューを読んで想像を膨らませていたことを思い出し、改めて再読したのですが、

フランス革命後のヨーロッパを舞台に、ベートーヴェン交響曲第九を生み出すまでの過程を、同時代のナポレオンやゲーテの生き方と絡めて描き出す

という説明はとても端的にこの作品をあらわしていて、でもこの筋書きから宝塚の芝居を一本作ってくださいとお題を出された時、もっと彼の人生をそのままなぞっただけの作品になることも十分にあっただろうなと思います。そして、それはそれでベートーヴェンのスタンダードな偉人伝として見所はあり、音楽家としての才能を持ちながら、耳が聞こえず苦悩する彼という人の悲劇的人生の悲劇をさらに重々しく演出した、トップスターの退団公演として観客の涙を誘う作品になっただろうなと思う。

 

 贔屓の役者の男役人生最期の公演としてはそこそこ満足していたことを架空の作品を描いて想像しながら、しかし同時にその場合は、宝塚ってこんなタイプの作品もあるんですよ、といろんな人に見てほしいというわくわくが沸き起こる作品ではなかった気がしています。部分部分を思い返すと、多分ものすごく目新しいことをやっているわけではない、久美子先生がヒントを得たのかな?と思わせる作品がぽつぽつと浮かんでくるけれど、その取り入れ方、舞台上での表現の巧みさに、この作品のおもしろさをもっと理解したい、味わいたいという気持ちが焚きつけられ、観劇が能動的行為であることを改めて噛み締めたくなる作品です。

 

 ベートーベンがナポレオンに曲を捧げたエピソードは有名な話だけれど、該当エピソードを知らないまま見たとしても作品内で十分に説明されているので、ものすごく人や時代背景を予習しないと理解できないような作品ではないと個人的には思う。もっと知っていれば理解が深まるかもしれないと知的好奇心が焚き付けられる内容ではあるけれど。

 

 有名なエピソードを導入として、彼らがそれぞれの才能を使ってなし得たこと/なし得なかったことを並べて比較することで、あの時代に求められていたこと/早すぎたかもしれないことが浮かび上がってくるし、それはあの時代だけではなく今にもつながる話だ、と気づくおもしろさがある物語だと感じています。

 

 

ーーーーネタバレなし感想終わりーーーー

 

 

パンフレットの生田先生の文章を全く笑えないような雑感がだらだらと続くので折りたたみます。

 

 

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望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑥

望海風斗 MEGA LIVE TOUR 『NOW! ZOOM ME!!』⑥

 

 

 きいちゃんとのCもかけがえがないのですが、ABもそれぞれに素敵で、懐かしい楽曲の数々が舞台上を駆け巡るさまは、一足早いサヨナラショーを見ているようで胸に込み上げるものが多かったです。

 もはや見たものの感想なのか、見て思い出したものを懐かしむファンの郷愁なのかわからない、ごたまぜな文章を書きました。

 

 Aパターンの花組メドレー、冒頭のVictorian Jazzから懐かしいなあと思っていたけれど、これはファンになりたての時にスカステ録画をヘビーリピート(おはようのVictorian Jazz、おやすみのVictorian Jazz)していたからで、ブリドリイベントにも行っていない私はもしかして生で聴くの初めてだったのでは!?と今更気づいた。最後の高音が今の望海さんの音程に合わせて低めに変えられていることに、下級生のころ声が高くて、とご本人が語っていたエピソードを思い出す。改めて聴くと音に対して文字数が多い歌詞というか、一音一音飛び跳ねていて平らなところがあんまりない、語るように歌ってたっぷり聞かせるのが似合う曲に聞こえるけど、それってめちゃくちゃ難しそう。望海さんが軽やかに、楽しそうにやっていることって、だいたい結構大変なことなんだろうな

 

 当時の映像とともに流れる初舞台生ロケットの曲、白い衣装の組子が一列に勢ぞろいしてのロケットを背景に望海さんの「チャオ!」なんて、もうファン感涙の場面じゃないかと胸が熱くなった。毎日誰かの誕生日なのと同じように、毎年新たに配属される期の初舞台があって、でもそれぞれの初舞台生にとって、いや初舞台生でない人、なんならそれを目撃した/していないに関わらず、たくさんの人にとって特別なものである、いう事実がすごく不思議で、時々思い出してはじーんとする。その時々の機会としてのこの場面。未だに初舞台生ロケット衣装の望海さんを待ち受けにしている友人を知っています。

 

 初舞台どころか、あのCONGA!にも間に合っていない人間なのですが、ハマりたての頃にDVDを持参してくれた友人とパセラで鑑賞会をし、あまりの衝撃と中毒性に自分も即キャトルに走ってDVDを買った懐かしい思い出があります。ほかの曲と違ってあんまり見ないタイプの振り付けに見えるからいつもと違う感覚が刺激されるのかなと思いつつ、ダンスの知識がまったくない人間の言うことです。らんじゅさんのための公演だったからかな……太鼓を打ち鳴らすような振り、普通あんなかっこよくならない。許せムーチョ愛してくれ……左右に揺れる肩、重心の低さにもぐっときます。「向かい風をうけて」の声の高さを思いながら、草食獣の青いゼブラちゃんが威風堂々たるサバンナの王に。蘭寿さんへはくはくと尊敬と憧れの眼差しを注いでいた望海さんが、今度は下級生にそんな目で見つめられる番になったことに、今でもびっくりする時がある。

 

 望海さんのベネディクトは、JUMP!歌ってる人たちに負かされる役回りだったじゃん~~!と肩を叩きたくなるような愛おしい人でした。詐欺の片棒を担ぐのに躊躇する青年を寄ってたかって悪の道へ引きずり込もうとする悪い大人たちが、自分たちの仲間になることは親父を乗り越えて成長すること、と嘯く歌う曲が、なんでこんなに胸を打つんだろう。色々「なんで!?」ということが多い内容だなとは思うんですが、たくさんの人の転機になったであろうこの作品の曲を歌う、すでにめちゃくちゃJUMP!してる望海さんのJUMP!を歌う姿を見ながら不思議と清々しい気持ちになった。

 ある意味この公演で転機を迎えたただのファンの1人である私が望海さんに転げ落ちたポイントは、フィナーレの男役群舞、舞台奥から肩を揺らして前方へ迫りくる望海さんの重心の低さと眼力です。当日券B席最後尾でオペラグラスを覗いていた私の背中を椅子の背に張り付ける勢いだったその圧を懐かしく思い出した。

 

 生で見て初めてどハマりしたショーMr.Swing!のテーマを、翔くんとあみちゃんが歌う感慨深さを噛み締めた。ここから夢眩へと繋いで望海さんの花組時代のショーが時系列に続くのも滾るけれど、その後にまた下級生時代のショーに戻るのがなんだかにくい。いやこれはとっておきだし、絶対リクエストにも入っていただろうから、ここ一番の盛り上がりどころとして取っておいただけかもしれないけれど。

 

 EXCITER!!のテーマが嫌いなヅカヲタっているの? と大きい口をたたきたくなるけど、宝塚の生湯は花組のファンなのでどうかお許しを。望海さんの肩が揺れると心が揺れる(ノットMr.Swing!)。バチッバチッバッチッの後のウインクのキレがよすぎて、えっ今私ウインク見た!?と受け取るまでに時間差が発生しそうだなと動揺した。しかし破壊力は絶大なので、斬られたことに気づかずに歩き出して崩れ落ちる人になりそう。一列になった組子の前、舞台真ん中でトップさんが歌い踊るのって本当にいい、真ん中が誰であってもここぞというところでその配置になる、ショーの一場面にいつだってとてもグッときてしまうけど、その真ん中が自分が一番好きな人という光景は、これ以上ない幸せに溢れたものなんだなと改めて実感した。そのありがたみを噛みしめるためにいつだって引きで見たいのに、オペラグラスをすぐ構えてしまうファンですが

 

 「チュシンの星のもとに」を聞いてちょっとひとかけらの勇気と心情に似たところがあるなと思ったのは望海さんが同じコンサートで後者の曲も歌っているからで、同様のシチュエーションと感じる曲は他にもたくさんあると思う。でもなんだかそういう壮大な曲を歌ってほしいなと思ったんです(リクエストはしていない)。大きな宿命を背負った人をトップスターの役は当てられがち、というのはあるかもしれないけど、宝塚のトップスターには途方もない夢、愛や平和を恥ずかしげもなく歌ってほしい、という望みがあることに気づいたのは、ちぎちゃんの時のショー「Greatest HITS!」を見たときだったと思う。あれはもっとポップで身近な目線から始まる親しみやすい曲だけれど。望海さんが歌の厚みを保って世界観を広げられる豊かな歌を歌う人、というのももちろんありますが、日常的にそこまで途方のない望みを強く願うことはそうそうないし、なぜだかそう口にすることに照れてしまいがちだけど、宝塚でこそそういう歌を聴きたい。もちろんこれは芝居の中の設定があってのもので、ノブレス・オブリージュといえばそれまでかもしれないけれど、含まれている要素としては普遍的で、祈りのようで、遠くまで見渡すおおらかさがある曲。人々の平和や愛を願う、まっすぐな、ベタベタで照れくさい思いがこもった曲が宝塚で歌いつがれてほしい、という気持ちがあります。ちょっと清らかな話をしてしまった。そういう広々とした歌を新人公演学年で歌わなきゃいけないって試練だな、その時の望海さんはいったいどんな気持ちだったんだろうと、それを乗り越えた人が歌うこの曲の中に刻まれた歴史に想いを馳せました。

 映像で見た新人公演の記憶は「生まれて初めてぐっすり眠れた」と、ラストシーンのキスがめちゃくちゃぎこちなくておぼこい(呆然)の二本。

 

 

 Bパターン、A以上によくできたサヨナラショーというか「後に続くものを信じて走れ」感、望海さんがトップの雪組にはこんなに素晴らしい下級生も後に続いているんですよ、という組子への信頼の上に成り立っている構成だと感じました。

 魅惑のボーカリストくん(あっているかな)とはおりんのひかりふるのソロにおお!と思っていたら望海さんせり上がりで登場、からのワンス「愛は枯れない」をすわっちと歌うとは

 観客の多くが、すわっちが東京の大劇場で新人公演ができなかったことを知っている前提での場面構成に、宝塚ってこういうところだよねと、そこにあまりにも大きな愛や信頼を見出してしまって胸を打たれずにはいられなかった。望海さんが東京公演をほとんど上演できなかったことを思い出すたびにやっぱり悔しくて切なくて仕方がなくなってしまう、思い切れないファンのひとりゆえ、どこかでもう一度フルで望海さんのこの曲が聴きたいなと願ってしまう部分はあるのですが、それでもBパターンでこういう構成を見られたことはひたすらよかったなあと思う。私は、この場面のヌードルスという男の振る舞いを「愛」という言葉で肯定することは全くできないし、してはならないと思うのだけど、薔薇の花の視覚的効果を差し引いても、恋い焦がれた人へのひとりの男の征服欲やダメさや馬鹿らしさをこういう風にミュージカルとして成立させてしまえるのか、というその功罪、ギリギリのバランスを見るたびに考え込んでしまうような一場面だった。場面として「愛」ではないんだけど、Bパターンの構成は「愛」だった。

 

 パンフレットで影ソロとして名前が上がっていたのは見てはいたのですが、まさかSUPER VOYAGERのあの場面で子役を演じていたあみちゃんが望海さんが歌っていた曲を歌って、代わりに望海さんが踊るとか夢にも思わないでしょう!とびっくりな構成再び。これが「エモ」では?と叫ぶ心を押しとどめて、もっと似合う丁寧な言葉を探したいのだけど、この全編「エモ」みたいなコンサートの中で別の表現を探して頑張ってきたので、一回だけ使わせてほしい。こうやって「めぐっていく」のが宝塚なんだ、と思わせてくれるような場面。

 今回久々に見たあみちゃんがめちゃくちゃシュッとしてカッコよくギラッとしていてびっくりしたのですが、影ソロのあみちゃんの声は曲の音程もあってかいわゆる男役さんっぽさはなく透明感があって、そういう歌声が響く中であの白いお衣装(おをつけたくなる)の望海さんがのびやかに舞う光景の夢ゆめしさったらなかった。あみちゃんが見た夢の望海さんじゃないの?とぼんやりした頭で思ってしまう。蘭寿さんサヨナラショー影ソロで全然隠れきれていなかった望海さんのことを思い出しつつ。